月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・鞍馬〜貴船〜岩倉 

 冬の京都市・洛北の鞍馬、貴船、岩倉あたりは静かだ。日陰には雪が積もっており、このようなたたずまいが「素敵で好きだ」と言う人もいる。今週はこのような冬の洛北を散策してみた。


 
鞍馬寺(鞍馬)  放送 1月31日(月)
 鴨川の上流にある緑深い鞍馬山(513m)は、650万年前に人類救済のために金星から天降った、護法魔王尊の力が満ちている尊天信仰の霊山と言われている。尊天信仰とはこの世のすべてを生み出す宇宙生命と宇宙エネルギーからなる「尊天」を本尊とし、神仏、宗派の区別を越えたもので、大地の気・護法魔王尊、太陽の気・毘沙門天、月に代表される水の気・千手観世音菩薩の三身を一体として信仰する。
 この鞍馬山の中腹にある鞍馬寺は、宝亀元年(770)奈良の唐招提寺を開いた鑑真和上の高弟・鑑禎(がんてい)が、夢のお告げによる馬の導きで鞍馬山に入り、山中に草堂を建てて毘沙門天像を祀ったのが始まりとされる。

本殿金堂

(写真は 本殿金堂)

僧正ヶ谷不動堂

 その後、延暦15年(796)造東大寺長官だった藤原伊勢人(いせんど)が、堂宇を建立し、鑑禎が祀っていた毘沙門天像とともに千手観世音菩薩像を祀り鞍馬寺と称した。
以来、平安京の北方王城鎮護の寺として崇敬を集め、洛北の巨刹として栄えた。
 鞍馬寺の祭礼でよく知られているのが、毎年6月20日に僧兵姿の法師たちが、大蛇に見立てた青竹を豪快に競いながら伐り、その年の豊凶を占う竹伐り会(たけきりえ)。平安時代に鞍馬寺の峯延(ぶえん)上人が、里人を苦しめていた大蛇を切って退治した伝説に由来するもので、8人の法師が東西4人ずつに分かれて青竹を3段に伐り落とすのを競う。
東が勝てば近江(滋賀県)、西が勝てば丹波(京都府、兵庫県の一部)が豊作になると言われている。

(写真は 僧正ヶ谷不動堂)

 広大な鞍馬寺の寺域には、うっそうと茂る樹木、その間を縫う険しい参道、木の根道、奇岩などがあり、幼少期の源義経・牛若丸が文武の修行に励んだと言う伝説にふさわしい雰囲気を漂わせている。
 平治の乱で父・義朝が平清盛に敗れたため、7歳の牛若丸は鞍馬寺の東光坊に預けられた。やがて自分の生い立ちを知り、父の敵の平氏討伐を抱き、毎夜、奥の院の僧正ヶ谷で天狗を相手に10年間、武芸を磨いた。鞍馬寺の寺域には、牛若丸にまつわる遺跡が多く、東光坊跡には義経供養塔、その向かいには義経の守り本尊が祀られていた川上地蔵堂、奥院への参道途中にはのどの渇きを潤した息つぎ水、鞍馬山との別れを惜しんで背比べをした背比べ石が参道頂上にあるほか、不動堂の前には義経を祀る義経堂がある。

義経供養塔(東光坊跡)

(写真は 義経供養塔(東光坊跡))


 
火祭の里(鞍馬)  放送 2月1日(火)
 鞍馬寺の仁王門をくぐって少し登ったところに鎮まる由岐(ゆき)神社は、古くは靫(ゆき)明神と呼ばれ鞍馬寺の鎮守社であったが、今は鞍馬の町の氏神様。御所に祀られていた靫(ゆき)明神を都の北の鎮めとするため、天慶3年(940)鞍馬へ移したのがこの神社の始まり。弓の矢を入れる武具の靫(ゆぎ)を社前に掲げて、天皇の病気平癒や世の平安を祈願したことから、靫明神と呼ばれていた。
 現在の舞台造りの拝殿(国・重文)は、慶長12年(1607)豊臣秀頼が再建して寄進したもので、中央に1間(1.8m)の石段の通路がある珍しい形で、これを割拝殿と呼びその奥に本殿がある。

由岐神社

(写真は 由岐神社)

牛つなぎ

 毎年10月22日の夜、大たいまつの火をかざして町を練り歩く「鞍馬の火祭」は、太秦・広隆寺の「牛祭」、今宮神社の「やすらい祭」とともに、京都三大奇祭のひとつとして有名。この火祭は御所から由岐明神を移した時、里人たちがかがり火をたいて迎えたとの故事にちなんだ祭。
 午後6時から1m〜5mほどの大小のたいまつ、約250本を振りかざし「サイレイ、サイリョウ(祭礼、祭礼)」の掛け声をかけながら町を練り歩く。これらのたいまつが鞍馬寺の仁王門の下に集まり、結城神社の2基の神輿(みこし)が仁王門をくぐって姿を現すと、火祭はクライマックスに達する。神輿の先端には、この年に成人を迎えた若者が、足を上にしてぶら下がり神輿を先導する。

(写真は 牛つなぎ)

 鞍馬寺の門前町であり、若狭に通じる鞍馬街道の宿場でもあった鞍馬の町には、今も卯建(うだつ)や虫籠窓(むしこまど)のある民家が残る。江戸時代中期の宝暦10年(1760)に建てられた炭問屋・滝沢家の建物が「匠斎庵」として一般公開されており、当時の建築様式がうかがえる。
 街道沿いに建ち並んでいる家は、鞍馬川の水を引き込んで生活に役立てている。各家の前を流れる溝には洗い場があり、畑から取ってきた野菜などを清水で洗う主婦の姿も見られる。街道沿いには天然硫黄温泉の鞍馬温泉・峰麓湯(ほうろくゆ)がある。鞍馬川の山峡で露天風呂などを日帰りで楽しむことができる。湯からあがって食事を楽しみ宿泊もできる。

鞍馬川

(写真は 鞍馬川)


 
木生根の神(貴船)  放送 2月2日(水)
 鴨川の源流、貴船川河畔の貴船神社の祭神は、生命の根源である水を司る神。キフネは元来「木生根」「気生根」「貴布禰」などと書かれ、雨を地中に蓄えて水を育む樹木の神としての信仰があった。
 朱塗りの鳥居をくぐり、朱色の春日灯籠が立ち並ぶ石段の参道を登る。表門脇に樹齢約400年の桂の御神木がそびえ、境内の周囲にも貴船山の大きな樹木が茂り、神社を大自然の中に包み込んでいる。貴船神社が記録に表れるのは、弘仁9年(818)日照りが続いたため嵯峨天皇が勅使を遣わし、黒馬を献じて雨乞いをした時からで、以後も日照りの黒馬、長雨には白馬を献じて祈雨、止雨を祈願した。

御神水

(写真は 御神水)

船形石

 その後、生きた馬に代えて板に馬の絵を描いた「板立馬」を奉納するようになり、これが今日の絵馬に願いを書いて奉納する風習の原形となったとされている。
 水の神を祀る神社にふさわしく、本殿前の石垣からこんこんと湧き出る清水は「御神水」と呼ばれ、一度も枯れたことがない。弱アルカリ性の名水で「茶を点てるのに最良の水」と、この水をわざわざ汲みにくる茶人もいる。貴船神社のおみくじは、水にひたすと文字が浮き出てくる「水占(みずうら)おみくじ」で、おみくじを引いた人は本殿前の御神水にひたす。この水占おみくじは女性に人気が高く、大吉が現われると大喜びしている。

(写真は 船形石)

 貴船神社本社から清流に沿って500mほど登ったところに鎮座する奥宮は、神武天皇の母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、難波から黄船で淀川、鴨川、貴船川を遡り、霊泉の湧き出るこの地に水神を祀った。これが貴船神社始まりで、永承元年(1046)の洪水で社殿が流されたため、天喜3年(1055)貴船神社本社のある現在地に社殿を再建し、元の鎮座地を奥宮とした。
 玉依姫命が乗ってきた黄船を人目にさらしてはならないと、石で覆い隠した「船形石」が奥宮境内にある。しめ縄が張られ苔むした船形石は、船乗りや漁師たちから航海安全の神として信仰され、船形石の小石をお守りとして持ち帰る船員もいる。

船土鈴

(写真は 船土鈴)


 
縁結びの神(貴船)  放送 2月3日(木)
 叡電鞍馬線貴船口駅から貴船川沿いに貴船神社に向かって歩き出すとすぐ、右手に蛍岩と歌碑がが現われる。平安時代の歌人・和泉式部が詠んだ「木船川 山本影の夕ぐれに 玉ちる波は 蛍なりけり」と詠んだところとされている。ここから奥宮までの40分ほどの道のりは「和泉式部恋の道」と名づけられている。
 貴船神社本社から約300mの上流、奥宮との中ほどに位置する中宮は、祭神の磐長姫命(いわながひめのみこと)を縁結びの神として信仰する結社(ゆいのやしろ)と呼ばれている。

蛍岩

(写真は 蛍岩)

結社(中宮)

 夫との不仲に悩んだ和泉式部は、結社に参詣して円満な夫婦仲を祈願した。その時、和泉式部は「男に忘れられて侍りけるに、きぶねの宮に参りて、御手洗の河に蛍の飛はべりけるを見て」とその心境を語り、詠んだ歌が「ものおもへば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞ見る」。この歌が結社境内の歌碑に刻まれている。その後、和泉式部と夫との仲は円満になったとか…。
 結社から奥宮に向かう参道の途中にある樹齢千年と言われる「相生の杉」は、ひとつの根から2本の幹が伸びている巨樹で、仲睦まじく長生きする夫婦の現われと言われている。

(写真は 結社(中宮))

 結社では昔は、細長いススキのような草の葉を結んで祈願していたが、今は神社の「結び文」が草の葉に代わり、この結び文に願い事を書いて掛所に結ぶ人が後を絶えない。
 貴船神社付近に軒を並べる料亭や料理旅館は、貴船川に涼を求めながら料理を楽しみむ川床で有名。冬はイノシシ肉を使ったボタン鍋がおいしい。ボタン鍋は一般には味噌仕立てがおなじみだが、貴船の料理旅館・ひろやでは、ポン酢だれでいただく、しゃぶしゃぶ風のボタン鍋を名物にしている。

しゃぶしゃぶ風ぼたん鍋(ひろや)

(写真は しゃぶしゃぶ風ぼたん鍋(ひろや))


 
妙満寺(岩倉)  放送 2月4日(金)
 鞍馬街道を岩倉まで下ったところの妙満寺は、康応元年(1389)日什(にちじゅう)上人開創の顕本法華宗の総本山。その後、応仁の乱など幾度かの兵火で焼失、そのつど寺域を移して再建されたが、天正11年(1583)豊臣秀吉の命令で寺町二条に移された。以来400年間にわたって「寺町二条の妙満寺」として親しまれてきたが、昭和43年(1968)都市化による喧騒と環境悪化を嫌って現在地の岩倉に移った。
 日什上人は天台宗の僧で、比叡山三千の学頭にまでなった人物だったが、故郷の会津で日蓮上人の書を読み、その教えに感服して日蓮宗に改宗、京に上り日蓮宗の妙満寺を創建した。

仏舎利大塔

(写真は 仏舎利大塔)

雪の庭

 境内にそびえる仏舎利大塔は日本ではほかに見られないインド・ブッダガヤ型の塔で、釈迦が悟りを開いたブッダガヤの聖地に建てられた大塔をイメージして、昭和48年(1973)全国の檀信徒の写経浄財で建立された。1階には釈迦牟尼座像を安置、最上階には妙満寺に伝わる仏舎利が奉安されている。
 妙満寺の庭園は借景にした比叡山の冠雪の眺めが見事なことから「雪の庭」と呼ばれている。俳諧の祖と仰がれた松永貞徳(1571〜1653)の造営で、豪壮な石組みを中心にした枯山水の庭。貞徳は同時に清水に「月の庭」、北野に「花の庭」を造り、これが「雪・月・花」の三名園と言われた。妙満寺の雪の庭は、岩倉に寺を移転した時、成就院にあった庭を移築した。

(写真は 雪の庭)

 妙満寺で有名なのが紀州・道成寺にあった安珍・清姫伝説の霊鐘。安珍・清姫伝説は長唄、舞踊、能楽、歌舞伎、文楽などで演じられる「娘道成寺」となって広く知られている。思いを寄せていた安珍に裏切られて清姫は、大蛇に身を変え道成寺の鐘の中に隠れていた安珍を鐘もろとも焼き殺し、自分も日高川に身を投じた。
 その後、道成寺に新しい鐘が寄進され、鐘供養の席に一人の白拍子が現われ、蛇身になって鐘を引き下ろし、日高川へ身を隠した。新しい鐘はなぜかその音がおかしく、近隣に悪病災厄が相次いだため「清姫の怨霊」と恐れられ、鐘は山林に埋められた。約200年後、根来攻めをした羽柴秀吉配下の武将・仙石権兵衛が、この鐘を京に持ち帰って妙満寺に納め、時の貫首が供養して清姫の怨念を解いたと言う。

安珍・清姫伝説の鐘

(写真は 安珍・清姫伝説の鐘)


◇あ    し◇
鞍馬寺叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車徒歩25分。
ケーブル利用の場合は多宝塔駅下車徒歩5分。
由岐神社叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車徒歩15分。 
鞍馬温泉叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車徒歩12分。鞍馬駅から送迎バスあり。 
貴船神社叡山電鉄鞍馬線貴船口駅下車徒歩30分。 
叡山電鉄鞍馬線貴船口駅からバスで貴船下車徒歩5分(冬季運休)。
妙満寺地下鉄烏丸線国際会館駅からバスで妙満寺下車。 
◇問い合わせ先◇
鞍馬寺075−741−2003 
由岐神社075−741−1670 
鞍馬温泉・峰麓湯075−741−2131 
貴船神社075−741−2016 
ひろや075−741−2401 
妙満寺075−791−7171 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
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