月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・谷町〜上町〜空堀界隈 

 かつては難波宮があった上町台地。台地の北端には大阪城、南端には聖徳太子建立の四天王寺があり、古代から中世にかけては難波の中心地だった。この上町台地の西側、地下鉄谷町6丁目駅付近の空堀界隈には、戦前に建てられた町家や長屋が残り、石畳の細い路地などが昔の情緒を伝えている。「えっ、大阪市のど真ん中にそんなところがあるの?」と、思うようなこの一帯を訪ねた。


 
直木三十五  放送 3月14日(月)
 大衆文学の登竜門として多くの人に知られている直木賞。その知名度の高さに反して、賞に名を冠する作家・直木三十五(なおき・さんじゅうご=
1891〜1934=本名・植村宗一)の作品やその人物像を知る人は少なく、簡単に著作を読むことすらできない。
 これではいけないと、関西の直木賞作家の難波利三、藤本義一両氏らや多くの作家、地元の有志らが「直木三十五記念館」設立に奔走、今年2月、中央区谷町6丁目の直木の母校・桃園小学校跡地に隣接した複合文化施設「萌(ほう)」の中に記念館がオープンした。
記念館は直木が晩年に設計した自宅をモチーフに、内部の壁や天井は黒く塗られ、彼が寝ころんで執筆するのが好きだったので、室内の大半が畳敷きになっている。

複合文化施設「萌」

(写真は 複合文化施設「萌」)

直木三十五記念館

 愛用していた文机や長火鉢などが置かれ、直木の遺品や作品、直木賞受賞作などが並べれている。地元では「大衆作家・直木三十五を知ってもらうと同時に、空堀のまちづくりにも役立てば…」と期待をかけている。
 直木は現在の大阪市中央区安堂寺町の古物商の長男としで明治24年(1891)に生まれた。生家近くの石畳の坂道に代表作「南国太平記」の一節を刻んだ文学碑が建っている。桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校を卒業して早稲大学に入学したが、学費が払えず中退した。その後、出版事業を興したり、雑誌「苦楽」の編集を川口松太郎としたり、マキノ省三と共同で映画制作も手がけた。週刊誌や新聞に連載小説を執筆するようになり、薩摩藩のお家騒動を題材にした「南国太平記」がヒットし、一躍、流行作家の地位を確保した。

(写真は 直木三十五記念館)

 時代小説、大衆小説のほか文芸評論や随筆など、持ち前の旺盛な筆力で幅広い作品をを次々に発表した。しかし、病気と借金を抱えた破天荒な直木の生涯は、昭和9年(1934)43歳の若さで終わった。直木が亡くなった翌年、友人の菊池寛らが「直木三十五賞」を設立、新人作家の登竜門の「芥川賞」とともに、現在まで文学界の大賞として続いている。
 直木三十五のペンネームの由来は、本名の植村の「植」の字を左右に分解して「直木」とし、その時、31歳だったので「直木三十一」とし、年齢に合わせて「三十二」「三十三」とし「三十三」で留め置いた。だが「三十三」は姓名判断上から極悪と言われたので、35歳の時に「三十五」と改めた。彼の茶目っ気ぶりがうかがえる。

直木三十五文学碑

(写真は 直木三十五文学碑)


 
空堀・坂と路地と商店街 放送 3月15日(火)
 空堀商店街は上町台地を東西に800m、上町筋から谷町筋を挟んで松屋町筋まで延びている人情味あふれる温かな雰囲気の商店街。このあたりは江戸時代中ごろから市街化し、空堀に面して店が軒を連ね明治時代にはにぎやかな商店街に発展した。
 大正5年(1916)ごろから空堀通りには、地元の延命地蔵の縁日に当たる4の日に夜店が出てにぎわい、年々盛んになり戦前まで続いた。第二次世界大戦の空襲の被害も軽かったので戦後はいち早く復興し、大阪市内で初めて福引売出し(ガラポン)を始め、これが大人気となった。

空堀商店街

(写真は 空堀商店街)

路地と猫

 織田作之助の「わが町」はこの界隈が舞台で、戦災の被害が少なかったため昭和時代初期の長屋の建物が多く残り、縦横に細い路地が通じ懐かしさをかきたてる。大阪市内でこれほど多くの長屋が残っているのは珍しく、昔ながらのたたずまいがそこかしこに見られる。何代にもわたって続く商店や懐かしい商品を売る店が軒を連ね、この商店街で手に入らない品はないとも言われている。
 たが、建築基準法などの規制で、路地にしか面していない土地には新たな家が建築できず、老朽化した長屋が解体され空き地になっている所が目立つ。こうしたことがネックになって、土地の売買も行き詰まっており、空堀商店街一帯の都市再生をどのように進めるかが今後の課題となっている。

(写真は 路地と猫)

 古代の大阪は上町台地の西まで海が迫っていた。上町筋から谷町筋までは台地で平らだが、谷町筋から松屋町筋へかけては海へ落ち込む形となっていた。このあたりには今も坂道や崖が多く、空堀商店街も西へ向かって下り坂となっており、坂道と細い石畳の路地がこのあたりの風景を特徴づけている。
 空堀の名は豊臣秀吉が天正11年(1583)から石山本願寺跡に大坂城を築き、三の丸の外側に大坂城の守りとして掘った水を入れない外堀に由来している。この空堀に沿って発展した空堀商店街の南北の土地が、グッと低くなっていることが、商店街の起源を表している。

坂

(写真は 坂)


 
瓦屋町探訪  放送 3月16日(水)
 空堀商店街の西端から南へ、松屋町筋に沿う一角が瓦屋町。このあたりは土質がよかったので、豊臣秀吉が大坂城の築城を始めたころから、城の屋根瓦を焼くために地面が掘られた。御用瓦師が住みつき代々瓦を製造していたのが町名の由来となった。
 大坂夏の陣で大坂城が落城、豊臣家が滅亡した後、徳川の天下になってからも西国への守りとして城を強固なものにするため大坂城の改築、修復が行われ、屋根瓦の生産は江戸時代になっても続いた。

長屋

(写真は 長屋)

祠

 メインストリートの空堀商店街から下り坂の路地をたどって行くと、かつては防火用水に使われていた井戸が残っている。このあたりにも長屋が多かったが、表通りにあるのが表長屋、その裏の路地に面して並ぶのが裏長屋と言われていた。裏長屋は表長屋の半分ぐらいの広さで、当然、家賃が安かった。
 裏長屋の特徴として長屋の前の路地に共同井戸があり、ここで長屋のかみさんたちが洗い物をしながら井戸端会議を楽しんだ。今も残っている路地の井戸は、こうした長屋の情報交換の場でもあった。

(写真は 祠)

 築100年を超えている格子戸の長屋の屋根の上には洗濯物の干し場があり、今どきなかなかお目にかかれない造りである。路地には植木鉢が当然の居場所と言わんばかりに並んでいるが、誰も文句を言わない。このような状態は長屋の住人たちの暗黙の了解事項になっているのであろう。
 長い年月を経た痕跡が残る石畳や石段が続く路地には、お地蔵さんやお稲荷さんが祀られている小さな祠が目につく。路地ごとに祀られていることが多く、住民が月当番制で管理しており、毎年、夏の地蔵盆や初午の祭が盛大に行われ、地域住民の親睦と連帯感を強める役目を果たしてきた。

地蔵

(写真は 地蔵)


 
谷六・長屋と石畳  放送 3月17日(木)
 戦災をまぬがれた谷町6丁目界隈は、昔のままの町並みに木造瓦葺きの長屋や石畳の風景が残り、独特の雰囲気を醸し出している。
 しかし、こうした長屋もいろいろな問題点を抱えている。建築基準法をクリアする道路幅がないところは、老朽化した長屋を取り壊して新しい住宅を建築することができない。
取り壊した跡地が空地になったままだったり、駐車場になっている所も多い。空き家になったまま朽ちつつある長屋や傾きかけている長屋も目につき、危険な状態で放置されている。

長屋再生複合ショップ「惣」

(写真は 長屋再生複合ショップ「惣」)

しめなわ本舗

 「古い良いものを今の時代にも大切にしなければ」と、建築家たちのグループが中心になって「からほり倶楽部」を結成、町の再生に取り組んだ。からほり倶楽部は「住みやすい魅力ある町とは、歴史のある町並みや長屋を中心とした環境や趣から来ている。それらを保存、再生することは町の持つ魅力を保存、再生することである。この町並みを生かしさらに住みやすい魅力ある町を創造する」と、活動趣意書にうたっている。
 その成果のひとつが複合ショップ「惣」。「惣」とは、江戸時代の上方の町衆の組織のことを言う。解体されようとしていた二軒長屋を借りて内装を一新、ユニークな五つの店舗が入って、若い人たちの人気を呼んでいる。

(写真は しめなわ本舗)

 日本の伝統文化である「しめなわ」をアートにして、一年中飾ってはいかがですかと言う「しめなわ本舗」や小さな箱にアクセサリー、ガラス工芸、陶芸など、さまざまなアーティストが作品を並べた「あーとぼっくす」のほか、カフェ・雑貨・ギャラリーの店、ヘアメーク・アンティークアクセサリーの店などが、肩を寄せ合うように入っている。
 こうしたユニークな発想に基づく店舗の展開が、若者の感性をくすぐったのかも知れない。この谷町6丁目界隈には「惣」のほかに「練」や直木三十五記念館が入っている「萌(ほう)」など、同じような趣旨で開店したショップがある。

あーとぼっくす

(写真は あーとぼっくす)


 
安堂寺町、竜蔵寺町  放送 3月18日(金)
 上町筋と長堀通が交差する北西側の一角が安堂寺町、竜造寺町。安堂寺町は「あんどうじまち」、竜造寺町は「りゅうぞうじちょう」と読む。「まち」と「ちょう」の違いのいわれはわからない。自動車がビュン、ビュン走り、通行量も多い表通りの長堀通には近代的な高いビルディングも並ぶが、安堂寺町の裏通りへ一歩入ると細い路地、懐かしい雰囲気の町家、棟割長屋が並び、大都会の中心部とは思えないほど静かだ。
 この安堂寺町、竜造寺町も戦禍にあわず、昔ながらのたたずまいが残っており、格子窓や出格子窓、虫籠窓(むしこまど)があったと思われる2階の窓、屋根の棟に取り付けられた煙出しなどが、今もところどころに残っている。

本堂

(写真は 本堂)

開山堂

 このあたりも路地が多い。その路地には路面電車の市電の軌道に敷かれていた石を再利用した石畳が続く。そんな安堂寺町の路地を歩いていると、いつしか竜造寺町に入っている。同じような町家、長屋が軒を連ねており気がつかない。谷町筋から安堂寺町、竜造寺町にかけては工作機械を扱う問屋や小さな部品工場が多かったが、今は東大阪市の機械団地などへ移転してしまい、古い看板だけが町家にかかっており昔をしのばせる。
 竜造寺町の名は、豊臣時代に肥前国・佐賀の戦国大名・竜造寺氏の屋敷があったことに由来し、このあたりが豊臣秀吉の家臣団の武家屋敷であったことを物語っている。

(写真は 開山堂)

 竜造寺町にある宝泉寺は、このあたりの一帯の町家としっくり馴染んでいる尼寺である。推古天皇8年(600)聖徳太子の創建と伝えられ、創建当時は四天王寺の西門の外にあった。慶長年間(1596〜1615)に兵火で焼失、寛文8年(1668)この地に移され再建され、聖徳太子自らが彫ったと言われる聖観世音菩薩像が本尊として安置されている。
 聖徳太子の創建後、蘇我稲目の娘・月増姫(つきますひめ)が得度して長蔵尼(善蔵尼とも言う)、小野妹子の娘・日増姫(ひますひめ)が得度して善信尼、大伴金村の娘・玉照姫(たまてるひめ)が得度して恵善尼となってこの寺に入った。わが国比丘尼発祥の寺とも言われ、この3人の尼僧の像が安置されている。

三尼公像

(写真は 三尼公像)


◇あ    し◇
直木三十五記念館地下鉄谷町線、長堀鶴見緑地線谷町6丁目駅下車
徒歩3分。
空堀商店街地下鉄谷町線、長堀鶴見緑地線谷町6丁目駅下車
徒歩5分。
地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅下車徒歩5分。
複合ショップ「惣」「練」「萌」地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅下車徒歩5〜7分。 
地下鉄谷町線6丁目駅下車徒歩3〜10分。
宝泉寺地下鉄谷町線、長堀鶴見緑地線谷町6丁目駅下車
徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
直木三十五記念館06−6767−1906 
空堀商店街振興組合06−6762−8540 
長堀再生複合ショップ「惣」
しめなわ本舗06−6761−5287
le muse・Bonbon06−6762−6668 
からほり貸あーとぼっくす06−6764−0470 
クーデリーカフェ06−6762−5664 
宝泉寺06−6762−0468 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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