月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市〜亀岡市 

 京都の渓谷美を代表するのが保津峡。その保津峡沿いにトロッコ列車が走り、京都市嵯峨と亀岡市を結んでいる。また、亀岡市から京都嵐山までは、峡谷美を満喫できる保津川下りがある。こうした自然美が楽しめる観光地・保津峡と亀岡市の名所、旧跡を訪ねた。


 
嵯峨野・トロッコ列車
(京都市嵯峨〜亀岡市) 
放送 3月21日(月)
 京都に春の到来を告げる風物詩のひとつとして、すっかりおなじみになっているのがトロッコ列車。このトロッコ列車は、京都市のトロッコ嵯峨駅から亀岡市のトロッコ亀岡駅まで7.3kmを、保津峡の渓谷美を楽しみながら走る観光列車。所要時間は25分だが、途中で眺めのよい保津峡駅付近では一旦停止して、乗客に渓谷美を楽しんでもらうなどサービス満点。
 少しぐらい列車が遅れても、スピードアップして遅れを取り戻すことはせず、ゆっくりと沿線の自然を楽しんでもらうのが、列車運行の基本となっている。途中にあるトンネルは8カ所、最も長いトンネルは499.1mもある。

嵯峨野トロッコ列車

(写真は 嵯峨野トロッコ列車)

保津川との立体交差

 平成元年(1989)JR山陰線の複線電化工事による新ルートが完成、廃線になった旧山陰線を2年後の平成3年(1991)にトロッコ列車の線路として甦らせた。
 旧山陰線は明治32年(1899)に亀岡生まれの京都政財界の重鎮・田中源太郎氏が、京都鉄道会社を興して鉄道敷設に取り組み、その熱意と財力によって開通した。旧山陰線の京都〜園部間
35.2kmのうち、最大の難工事は現在、トロッコ列車が走っている嵯峨〜亀岡間だった。保津川沿いの崖っぷちを通さなければならず、トンネルと鉄橋の連続だった。建設工事には嵐山付近の景観をそこねてはならないと、簡易線路を使わず小舟で建設資材を運んだ。明治40年(1907)京都鉄道は、資金難から旧国鉄(現JR)に買収され、山陰線は国鉄の管理下になった。

(写真は 保津川との立体交差)

 田中氏は山陰線の開通に合わせて、亀岡市の生家をトンネルや鉄橋工事に使った同じレンガで、豪壮な和洋折衷住宅に改築した。鉄道の開通で来客が多くなるのを見越し、迎賓館的な役割を果たそうとしたようだ。現在は、田中氏の縁者が、この建物を活用して料理旅館「楽々荘」を営んでいる。書院造などの日本建築(国登録有形文化財)や洋館、庭園などは、改築当時のままの姿で大切の保存されている。
 大正11年(1922)田中氏が乗り合わせた京都へ向かう列車が、山陰線保津川鉄橋上で転覆事故を起こし、保津川へ投げ出された。事故の2日後に田中氏は遺体で発見された。心血を注いで建設した山陰線の事故によって69歳で生涯を閉じると言う数奇な運命だった。

楽々荘(田中源太郎旧邸)

(写真は 楽々荘(田中源太郎旧邸))


 
湯の花温泉(亀岡市)  放送 3月22日(火)
 亀岡は明治時代以前は丹波亀山と呼ばれ、明治2年(1869)三重・亀山との混同を避けるため亀岡と改められた。亀岡市内の中心部にある木々の緑に覆われ、こんもりとした丘が亀山城跡である。
 織田信長の命で丹波を平定した明智光秀が、天正5年(1577)から同7年にかけて亀山城を築いた。亀山城は3層の天守閣を持った平山城で、山陰道の交通の要衝を占めていた。江戸時代になってもその重要性は変わらず、譜代大名が城主に命じられた。明治維新後に城は取り壊され、今は石垣と堀の一部が残り、城の面影をわずかにしのばせている。
城跡は紆余曲折を経て、現在は宗教法人・大本教の所有となっている。

亀山城跡

(写真は 亀山城跡)

露天風呂(湯の花温泉 すみや亀峰庵)

 天正10年(1582)信長から中国出陣を命じられ光秀は、この城を出て中国路へ向かわず京都へ向かった。途中、京都の愛宕山の愛宕神社に参籠し、戦勝祈願をしている。
光秀がどの時点で信長打倒を決意したかは定かでないが、桂川近くまで進んだところで「敵は本能寺にあり」の号令をかけたと伝えられている。その後の光秀の運命を左右し、日本の歴史に大きな影響を与えた本能寺の変へと展開して行った。
 主君・信長を討ったことで逆臣とされる光秀だが、亀山では善政を敷き、亀山城と城下町を整備して亀山発展の基礎を築いたとして、地元では名君として慕われた。今も市民の信望は篤く、亀岡市内の谷性寺に光秀の首塚がある。

(写真は 露天風呂
(湯の花温泉 すみや亀峰庵))

 この光秀をはじめ戦国の武士たちが戦の傷を癒しに訪れたのが、市の中心から西方の静かな山あいにある湯の花温泉で、四季折々の自然の景観、山里の味覚が現代人を癒してくれる。昭和30年代に亀岡市が関西の奥座敷として売り出すため、本格的に開発に取り組んだ。
 車で大阪から約1時間、京都からなら約40分ほどの距離にあることから、自然あふれる温泉地としてにぎわうようになった。近くには古社寺や史跡なども多く、文化財巡りの散策も楽しめる。湯の花温泉の各旅館の食卓には、春は山菜、夏はアユ、秋はマツタケ、冬はボタン鍋などを中心に、四季を通じて自然の味覚がのぼり、グルメ客も大満足なようだ。

料理(湯の花温泉 すみや亀峰庵)

(写真は 料理(湯の花温泉 すみや亀峰庵))


 
西国三十三カ所第21番札所・穴太寺(亀岡市)  放送 3月23日(水)
 亀岡市街地の南西の静かな田園の中にある穴太寺(あなおじ)は、慶雲2年(705)文武天皇の勅願で創建されたとされる古刹。本尊の聖観世音菩薩立像(国・重文)には、邪心を持った者に襲われた仏師の身代わりとなって、矢傷を受けたと言う伝説がある。
 寺が創建されてから約250年後の応和2年(962)丹波国曽我部の里に、評判の悪い郡司・宇治宮成がいた。夫の邪心を改めさせようと妻の妙智は、京都の仏師・感世に頼んで聖観世音菩薩像を彫ってもらった。できあがった観音像を見た宮成は像に手を合わせて喜び、仏師に謝礼として自慢の名馬を与えた。だが、すぐに名馬が惜しくなり、仏師を待ち伏せて弓で射殺し、馬を取り返した。

秘仏 聖観音菩薩像(お前立ち)

(写真は 秘仏 聖観音菩薩像(お前立ち))

釈迦涅槃像

 馬を取り戻して自宅に帰った宮成が目にしたのは、左胸に矢が刺さり、血も流れていた観音像だった。馬屋には連れて帰ったはずの馬はおらず、驚いた宮成が仏師のもとへ使いをやると、仏師は元気で馬も仏師の家にいた。悔い改めた宮成は僧になり、お堂を建てて観音像を祀ろうとしたところ「穴太寺へ行って薬師様とともに人びとを助けたい」と夢で告げられので、穴太寺に堂を建て安置した。今も本尊の聖観世音菩薩像の胸には傷が残っており、ここから身代り観音とか矢傷の観音とか呼ばれるようになった。
 穴太寺には、山椒太夫に酷使された安寿と厨子王の物語で知られる安寿姫が、厨子王を逃がす際に与えた高さわずか5cmの肌守り観音像も伝わっている。

(写真は 釈迦涅槃像)

 この寺で特筆すべきは、本堂内陣右手の大きな釈迦涅槃(しゃかねはん)像。鎌倉時代後期の作と言われ、蓮を枕に右手をほほの下に置き、右膝を心持ち曲げた姿でゆったりと横向きに寝たお釈迦様の像である。本堂の天井裏にあったが、明治29年(1896)孫の病気平癒を願う老女のお参りに応えて存在を知らせ、本堂内へ下ろされたとの伝えがある。自分の体の悪い所と同じ涅槃像の部分をなで、病気回復を祈る信仰が今も根強く、大勢の信者に祈りを込めてなでられ黒光りをしている。
 寺の周囲の山を借景として取り込んだ穴太寺の庭園は、丹波地方有数の名園として知られており、夏に庭園の池に咲く蓮の花は、訪れた人びとの目を楽しませている。
 御詠歌は「かかるよに うまれあふみの あなうやと おもはでたのめ とこえひとこえ」。

庭園

(写真は 庭園)


 
佐伯灯籠(亀岡市)  放送 3月24日(木)
 稗田野(ひえだの)神社は亀岡市へ合併する前の旧稗田野町の鎮守社で、藤原京から平城京へ都が遷される前年の和銅2年(709)食物や野山の神霊を祀って創建されたと言う古社。
 毎年8月14日には稗田野神社のほか、近郷の御霊神社、河阿(かわくま)神社、若宮神社との
4社合同の祭礼で行われる「佐伯灯籠(国・無形民俗文化財)」は、盂蘭盆会(うらぼんえ)の風流灯籠行事と祭事が結合した貴重な民俗文化。室町時代には有名な祭として広く知られ、江戸時代中期に現在の祭の原形が確立していたようだ。

稗田野神社

(写真は 稗田野神社)

佐伯灯籠

 平安時代中期の貞観元年(859)清和天皇が稲の生育を祈って 田野神社へ勅使を遣わした。鎌倉時代中期の寛喜元年(1229)には、後堀河天皇が御所灯籠5基を下賜して、豊作を祈らせたことが、佐伯灯籠祭の始まりとされている。
 佐伯灯籠には風流灯籠5基、台灯籠1基に切子灯籠などが加わって、神輿の渡御、巡行に供奉する。5基の風流灯籠にはそれぞれ年間の農作業を表した人形が飾られている。1番灯籠が「御能」、
2番灯籠が「種まき」、3番灯籠が「田植え」、4番灯籠が「脱穀・臼摺り」、5番灯籠が「石場搗」となっている。

(写真は 佐伯灯籠)

 祭に参加する台灯籠は1基だけで、間口1m66cmの舞台の上で人形浄瑠璃が各所で上演され、祭はクライマックスとなる。台灯籠で演じられる人形浄瑠璃の人形は、高さ30cmほどの小さな京雛の人形で、背中に刺した竹串で人形を操る一人遣いの人形浄瑠璃。この串人形による人形浄瑠璃は、文楽人形以前の古い形式とされ、貴重な存在となっている。
 佐伯灯籠保存会の人たちが佐伯灯籠の行事を継承しているが、人形浄瑠璃を上演する義太夫、三味線、人形遣いの後継者不足に頭を痛めている。市からの補助で後継者育成を兼ね、毎週土曜日の夜を練習日と定めて、子供たちに三味線などを教え後継者育成に努力している。

人形浄瑠璃

(写真は 人形浄瑠璃)


 
保津川下り
(亀岡市〜京都市嵐山) 
放送 3月25日(金)
 嵯峨野からトロッコ列車で亀岡へ行ったら、帰りは保津峡の急流を嵐山まで下りたい。
保津川下りは亀岡から嵐山まで、V字渓谷を縫う16kmの急流を船頭さんが巧みな棹さばきで操る船に身をまかせ、2時間で下るスリル満点の船旅。
 保津川下りは内外に知られる観光の目玉で、時には水しぶきを浴びながら、春は桜、夏は緑深い自然、秋は川面を染める紅葉、冬はお座敷暖房付きの船から眺める雪景色など、四季それぞれの渓谷美を楽しんだところで、嵐山の優しい風景が迎えてくれる。難工事を克服して敷設され、今はトロッコ列車が走る旧山陰線と保津川下りの船が並走する所もあり、それぞれの乗客が手を振り合って挨拶を交わす光景も見られる。

不動明王

(写真は 不動明王)

保津川下り

 全長110kmの保津川のうち、特に険しい急流が続くのが保津峡で、人びとはこの保津峡と、ある時は闘い、ある時は支えられながら生きてきたことから「怒れる川」「母なる川」とも呼んでいる。
 保津川は古くから京都の御所や城郭、社寺の造営などに必要な木材を、保津川上流の丹波地方から筏を組んで京都・嵯峨まで運んだ重要な木材の運搬ルートだった。流れが急で浅瀬が多い保津川は、船運には適さなかった。この難関を、慶長11年(1606)豪商・角倉了以が、浅瀬の巨岩を除くなど苦心して船の航行ルートを開削して解消、丹波の木材や物資を京へ運ぶ底の浅い船が航行できるようになり重要な産業水路となった。鉄道や道路が整備されてからは、保津川下りの観光ルートとして生かされている。

(写真は 保津川下り)

 保津川下りの船は現在約50隻が運行、予備船を加えると90隻になる。保津川下りの船には船頭が3人一組で乗る。船尾で舵を取るのが船長格の年長者、船先で棹を操る船の進む方向を定めているのが中綱と言うベテランで、ここから船頭と言う言葉が生まれた。
年少者は先綱と言って櫂を漕ぐ役。
 嵐山まで下った船は今はクレーンで引き上げ、トラックで亀岡へ運んでいるが、昭和23年(1948)ごろまでは、船に綱をつけて川を引っ張って亀岡までのぼった。当時の乗組員は4人だったが、それでも流れに逆らって船を引っ張る作業は重労働で、亀岡まで3時間半から4時間を要した。だがこうした苦労は、昭和天皇や外国の王室、皇室の賓客をはじめ、乗客の観光客らが渓谷美に満足してくれ、船を安全に航行させた満足感が吹き飛ばしていたようだ。

嵐山

(写真は 嵐山)


◇あ    し◇
トロッコ嵯峨駅JR山陰線嵯峨嵐山駅下車。 
楽々荘JR山陰線亀岡駅下車徒歩7分。 
亀山城跡JR山陰線亀岡駅下車徒歩5分。 
湯の花温泉JR山陰線亀岡駅からバスで湯の花下車。 
穴太寺JR山陰線亀岡駅からバスで穴太口下車徒歩10分。
田野神社JR山陰線亀岡駅からバスで佐伯下車徒歩5分。 
保津川下り乗船場JR山陰線亀岡駅下車徒歩10分。
トロッコ亀岡駅からバスで乗船場前下車。
◇問い合わせ先◇
亀岡市役所商工観光課0771−25−5034 
亀岡市観光協会0771−29−5152 
JR亀岡駅前観光案内所0771−22−0691 
嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)075−861−7444 
楽々荘0771−22−0808 
湯の花温泉観光旅館協同組合0771−22−5645 
すみや亀峰菴0771−22−0394 
穴太寺0771−24−0809 
保津川遊船企業組合
(保津川下り)
0771−22−5846 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会