月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井市 

 北陸地方への玄関口でもあった越前国は、古くから人の往来がひんぱんで多様な歴史を刻んできた。特に越前の中心地・福井は室町時代には一乗谷に朝倉氏が居城を構え、戦国時代には織田信長の家臣、柴田勝家が北ノ圧に城を築き、江戸時代には徳川家康直系の松平氏の居城が築かれた。今週はこうした歴史に彩られた福井市を訪れた。


 
養浩館  放送 5月2日(月)
 福井市で桜の名所と言えば、まず足羽(あすわ)川の堤防2.2kmの600本の桜並木。一方、市の中心部では福井城趾の桜が城跡の石垣や堀の水に映えて美しい。
 福井城は徳川家康の次男・結城秀康が、関ヶ原の戦功によって慶長5年(1600)68万石を与えられて入部、翌年から築城かかり、6年後に雄大な城を完成させた。
明治維新まで松平氏17代、270年間にわたる居城となった名城で、築城当時は高さ約37mの天守閣がそびえていたが、寛文9年(1669)の火災で焼失した。城内にあった名水の井戸「福の井」から城の名称を「福居」と改め、さらに元禄年間に「福井」に改めた。

福井城址

(写真は 福井城址)

福の井

 福井城の外堀に面していた養浩館は、旧藩主・松平氏の別邸で、江戸時代には「御泉水(おせんすい)屋敷」と呼ばれていた。養浩館と呼ばれるようになったのは明治時代になってからで、福井市民は古くから「御泉水」と呼び親しんでいた。
 養浩館とその庭園のある場所は、2代藩主・松平忠直に誅伐された家臣・永見右衛門の屋敷があった所で、3代藩主・忠昌が水を引き込んで泉水屋敷にした。7代藩主・吉品(よしのり)が元禄12年
(1699)現在の規模に近い建物と回遊式林泉庭園を作った。

(写真は 福の井)

 養浩館庭園は舟遊びができる広大な池を中心に、庭園を望むように周囲に数寄屋風書院造りの建物が配されており、江戸時代中期を代表する名園のひとつとして知られていた。書院造の建物から眺める庭園は格別で、藩の迎賓館として使われ、福井の華やかな文化を反映していた。
 この名庭園と建物は昭和20年(1945)7月
19日の第二次世界大戦の福井大空襲で焼失してしまった。昭和57年(1982)に国の名勝に指定されたのを機に、建物と庭園の復原事業が始まり
平成5年(1993)半世紀ぶりに名庭園がよみがえった。

養浩館庭園

(写真は 養浩館庭園)


 
大安禅寺  放送 5月3日(火)
 福井市の西のはずれ、国見岳の麓の大安禅寺は、万治元年(1658)福井藩4代藩主・光通(てるみち)が、歴代藩主の廟所として建立した臨済宗妙心寺派の禅寺。
 光通は徳川家康の曽孫で、文教政策をはじめ数々の善政を行って名君と慕われた人であった。代々の藩主の墓石が並ぶ廟所は、福井の名石、笏谷(しゃくだに)石の石畳が1360枚敷き詰められているところから、日本一の名墓「千畳敷」と通称されている。正面に藩祖・結城秀康、右に3代・忠昌、そして代々の藩主の墓石が建てられている。

松平光通像

(写真は 松平光通像)

松平家永代廟所

 大安禅寺が建立された地は、奈良時代に越前の大徳と言われ、山岳修行僧だった泰澄が創建した田谷寺があったが、織田信長の越前攻略で全山焼失して荒れはてていた。ここに大愚宗築禅師を開山に迎えて、光通が大安禅寺を建立した。光通は大愚禅師の薫陶を受け、毅然とした人格者に育ち名君の名にふさわしい善政を敷いた。
 大安和尚の呼び名で親しまれている現住職・高橋友峰さんは、わかりやすく楽しい「禅」をモットーにしており、体験座禅大歓迎で座禅堂「枯木堂」では座禅宿泊研修ができる。またユーモアたっぷりの説法で仏の心、禅の心を教える法話はなかなかの人気。

(写真は 松平家永代廟所)

 大安和尚の法話のテーマは「一に掃除、二に笑顔、三四に元気でおかげさま」。
われを捨て、感謝の気持ちの貴さを知れば、笑顔で生きるための解放感と元気がわいてくると言うのがその教え。食を通して仏の教えを垣間見て食に感謝し、心と体を癒す精進料理も用意して参詣者に勧めている。
 大安禅寺ではビデオによる座禅体験の「おもしろ拝観コース」、ビデオによる座禅体験と和尚の生き生き法話の「生き生き法話コース」、座禅と法話の「ミニ座禅修練コース」、本格的な座禅の「座禅参籠修練コース」、精進料理をいただき参籠修練コース以外のコースを選ぶ「精進料理拝観コース」を用意している。いずれも予約と拝観料が必要。

大愚宗築禅師像

(写真は 大愚宗築禅師像)


 
おさごえ民家園  放送 5月4日(水)
 福井市の西南、兎越(うさごえ)山の麓の「おさごえ民家園」は、雪深い山村から海岸近くの村まで、福井県内各地の古民家を移築、復原している。昔の人びとの生活を知り、われわれの生活の今と未来を考えて見ようと言う施設だ。民家の中に置かれた家具や生活道具は当時のままで、江戸時代にタイムスリップしたように、当時の人びとの暮らしをリアルに感じ取ることができる。「おさごえ」は兎越山の古称。
 移築、復原された民家は、江戸時代中期の18世紀前後に建てられた豪農や庄屋の古民家5棟のほか、土蔵、灰小屋、便所などで、それぞれの家屋内へは自由に入って見学することができる。

旧城地家住宅

(写真は 旧城地家住宅)

旧岡本家住宅

 おさごえ民家園に移築、復原された古民家は嶺南・若狭の上中町の旧岡本家住宅と土蔵、灰小屋、嶺北・大野市の旧城地家住宅と便所、金津町の旧土屋家住宅と便所、今立町の旧蓑輪家住宅、福井市の旧梅田家住宅、勝山市の旧山下家の板倉などで、いずれの住宅も茅葺きで福井市の指定文化財。
 気候や風土、生活習慣にあわせた特徴がそれぞれの建物によく表れている。どの住宅にも冬には暖を取ったり、一家団欒の場となった囲炉裏がある。嶺北地方の民家でよく見られる主棟から直角に突き出たような「つの」と呼ばれる棟が特徴的で、真宗王国だった嶺北では、仏壇や仏間が特に大切にされていた様子がわかる。

(写真は 旧岡本家住宅)

 福井の名物と言えば「越前そば」。その中でも人気が高いのが、ピリッと辛い大根おろしを混ぜただし汁をぶっかけ、ネギやカツオ節を添えて食べる「おろしそば」。
冬の寒い時期でも冷たいおろしそばを食べるのが通だとか言われている。
 おさごえ民家園の西方の「越前そば道場」では、ベテランそば職人の指導で名物「おろしそば」作りが1人1000円で体験でき、自らの手作りそばが味わえる。越前そばは、一乗谷に城を構えた朝倉孝景が戦時の非常食として栽培したのが始まりで、当時はそばがき、そば餅として食べた。

越前おろしそば(越前そば道場)

(写真は 越前おろしそば(越前そば道場))


 
一乗谷朝倉氏遺跡  放送 5月5日(木)
 福井市中心部から東南へ10km、緑濃い6kmにわたる一乗谷は、約500年昔、戦国大名朝倉氏が治めた越前の中心として栄えた城下町があった。朝倉氏は元は但馬の豪族で、南北朝時代に越前に入った。応仁の乱で戦功をあげた7代・孝景が、文明3年(1471)一乗谷に築城して初代一乗谷当主となった。
 孝景はここを本拠地として越前を平定、以後、5代103年間にわたってその城下町として繁栄、1万人を超える武士や町民が住み、京の華やかな文化が取り入れられてにぎわった。5代・義景が天正元年(1573)天下統一を目指す織田信長との戦いに敗れ、一乗谷は火を放たれて103年の繁栄の歴史に幕を下ろした。

朝倉義景

(写真は 朝倉義景)

朝倉義景館跡

 一乗谷朝倉氏遺跡は昭和42年(1967)からの発掘調査で、遺跡のほぼ全容が判明したほか、生活用具など多くの遺物が出土した。遺跡は国の特別史跡、遺跡内の四つ庭園は国の特別名勝にそれぞれ指定されている。
 一乗谷朝倉氏遺跡は一乗谷川に沿った狭い平地と両側にそびえる山地からなる要害の地で、東西の山には山城が築かれ、南北にも城が配され厳重に守られていた。平地には5代当主・義景が住んだ朝倉館跡と館跡庭園、義景の側室・小少将の館である諏訪館跡と庭園、朝倉館跡を見下ろす山腹の湯殿跡庭園、3代当主・貞景が娘のために再興した尼寺の南陽寺跡庭園などや寺院、武家屋敷、町家、職人屋敷などが狭い地域に建ち並んでいた。

(写真は 朝倉義景館跡)

 朝倉館跡は三方を土塁に囲まれた6500平方mの敷地に、常御殿を中心に主殿、会所などの建物が整然と配されていた。また花壇跡が出土して注目された。当時、貴族や武家屋敷に花壇が造られていたことは、文献などで明らかになっていたが、実物が発見された例は初めてで、現存する日本最古の花壇ではないかとされている。
 朝倉館跡の唐門は義景の菩提を弔うため、豊臣秀吉が松雲院の寺門として寄進したと伝えられている。門の上部に朝倉家の「三ツ木瓜」の紋と豊臣家の「五三の桐」の紋が刻まれている。諏訪館跡庭園は遺跡内の庭園の中で最も大きく、高さ4mを超す石など大小100個以上の自然石を配した池泉回遊式庭園。

諏訪館跡庭園

(写真は 諏訪館跡庭園)


 
一乗谷復原町並  放送 5月6日(金)
 天正元年(1573)織田信長の焼き討ちで、灰燼に帰した一乗谷朝倉氏の城下町跡は長く地中に埋もれていたが、昭和42年(1967)から発掘調査が進められ、約500年の眠りから覚めてよみがえった。広範囲の一乗谷朝倉氏遺跡全体が、昭和46年(1971)国の特別史跡に指定された。
 一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査で、一乗谷には朝倉氏の館や庭園、寺院、武家屋敷、町家、職人屋敷など、整然と建ち並ぶ町並があったことがわかった。

一乗谷町並復原模型

(写真は 一乗谷町並復原模型)

一乗谷復原町並

 発掘調査で判明した建物の遺構、出土した柱や柱跡、壁、生活用品などを学術的に検証した結果に基づき、南北約200mの道路を中心に武家屋敷、職人らの町家が、朝倉館跡や庭園の西向かいの一乗谷川を隔てた一角に城下町の町並として復原された。
 復原作業は出土した建物の礎石などに基づいて行い、建物の中には生活用品も置かれ、当時の野武士や町人、職人の生活の様子がうかがえるようになっている。

(写真は 一乗谷復原町並)

 武家屋敷は土塀を巡らし、大きな門が道路に面して建ち、屋敷内には多くの建物が建てられていた。一方、町人や職人の住居は建物が直接、道路に面しており、住宅内の調度品や建物の造りも武家屋敷と比べ見劣り、階級の差が歴然としている。家屋内では将棋を指す武士や紺屋で染め物をする職人、商家の店先で客の応対をする商人などの姿が人形を使って再現されている。
 この復原町並の通りを歩くと戦国時代の一乗谷へタイムスリップしたような錯覚に襲われる。この一乗谷朝倉氏遺跡は、昨年7月の福井豪雨の被害を受けたが、復旧作業が順調に進み今は見学できるようになった。

復旧作業

(写真は 復旧作業)


◇あ    し◇
養浩館庭園、
福井市立郷土歴史博物館
JR北陸線福井駅下車徒歩15分。 
福井城跡JR北陸線福井駅下車徒歩5分。 
大安禅寺JR北陸線福井駅からバスで大安禅寺前
下車徒歩15分。
おさごえ民家園JR北陸線福井駅からバスでおさごえ民家園前下車徒歩5分。
JR北陸線福井駅からバスで藤ケ丘団地入口
下車徒歩7分。
越前そば道場JR北陸線福井駅からバスで福町下車徒歩5分。
一乗谷朝倉氏遺跡JR越美北線一乗谷駅下車徒歩20分。 
JR北陸線福井駅下車、京福バスターミナルから
バスで一乗谷朝倉館前下車。
◇問い合わせ先◇
福井市役所観光課0776−20−5346  
養浩園庭園(福井市郷土歴史博物館)0776−21−0489 
大安禅寺0776−59−1014 
おさごえ民家園管理事務所0776−34−3794 
越前そば道場0776−36−3538 
福井市一乗谷朝倉氏遺跡管理事務所0776−41−2173 
福井県立朝倉氏遺跡資料館0776−41−2301 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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