月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・紀ノ川沿いの町 

 日本有数の多雨地帯と言われる大台ケ原を水源とする紀ノ川は、奈良・和歌山の流域の人たちから「母なる美しい川」と呼ばれ、魚や水棲昆虫などを育み、飲料水やかんがい用水、工業用水にと川の恵みを分け与えてきた。石器時代から人が住みつき、その時代ごとに文化が発展してきた紀ノ川沿いの町を訪ね、その文化と歴史を探訪した。


 
根来寺(岩出町)  放送 5月23日(月)
 大阪、和歌山の府県境の和泉山脈の南麓の木々に囲まれた自然の中にある根来寺は、桜と紅葉の名所としても名高い。正式には一乗山大伝法院と号し、興教大師・覚鑁(かくばん)を開祖とする新義真言宗の総本山。
 高野山で修行を重ねた覚鑁は、仏法の興隆は僧侶が学問することであるとして、まず大治5年(1130)学問の場として伝法院を興し、さらに修行所として密厳院を高野山に建立したのが、根来寺の始まりの遠因とされる。鳥羽上皇の厚い信任のもとに多くの荘園の寄進を受けて大伝法堂を建て、大日如来像を中尊とした三尊像を安置した。さらに覚鑁は長承3年(1134)に伝法院と高野山・金剛峯寺の座主を兼任するようになり、高野山における勢力が拡大した。

大伝法堂三尊像

(写真は 大伝法堂三尊像)

根本大塔

 この覚鑁の勢力拡大が高野山内の衆徒や金剛峯寺らの反感を買って対立が生まれる。ついに覚鑁の自坊でもあった密厳院や大伝法院、僧坊の焼き打ちにまでエスカレートした。覚鑁は弟子や衆徒ら約700人を連れて高野山から下山して根来に逃れた。覚鑁は康治2年(1143)に49歳で生涯を閉じたが、覚鑁没後も長い間、根来と高野山の対立は続いた。没後145年を経過した正応元年
(1288)高野山から伝法院、密厳院の両院が現在地の根来寺に移され、これを契機に寺運は盛んになった。室町時代末期の最盛期には堂塔、僧坊
2700余、根来衆と呼ばれた僧兵1万余人を擁する大勢力に発展した。

(写真は 根本大塔)

 織田信長と対立していた根来寺は天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めで、大師堂と多宝塔など数棟を残し堂塔はことごとく焼き払われ、江戸時代に入って紀州初代藩主・徳川頼宣らの援助で再建が始まった。
 根来寺のシンボルとも言える国宝の多宝塔の根本大塔は、高野山の根本大塔を模して作られたと言われる。67年の歳月を費やし、天文16年(1547)に完成した高さ40mの根本大塔は、木造の多宝塔としてはわが国最古で最大のものである。根来寺の本堂でもある大伝法堂には、覚鑁が高野山の伝法堂に安置したと同じ大日如来像を中尊とした三尊像が安置されている。国の名勝に指定されている大伝法堂奥御殿の根来寺庭園は、池泉式庭園の池庭と枯山水庭園の平庭からなる名園で、参詣者の目を楽しませてくれる。

大日如来

(写真は 大日如来)


 
桃源の郷・宮折耕心院
(桃山町) 
放送 5月24日(火)
 北に紀ノ川、西に貴志川のふたつの流れに囲まれたような桃山町は、町名の由来にもなっているように日本有数の桃の産地して知られている。3月下旬から4月上旬にかけて「ひと目10万本」と言われる桃畑にピンクの花が咲き誇り、桃の実のなる夏には甘い香りに包まれる文字通りの桃源郷である。
 桃山町の桃の栽培は江戸時代後期から始まり、明治時代以降に栽培面積が一挙に拡大し、今では「あら川桃」のブランド名で全国に出荷している。

長屋門

(写真は 長屋門)

洋間

 桃山町で江戸時代からの大地主・庄屋で400年以上続いていた旧家の津田家屋敷が改修され「桃源の郷・宮折耕心院」として公開されている。「宮折」は津田家の屋号で、約6000平方mもの広大な敷地には、江戸時代の蔵、明治時代の長屋門、母屋、昭和時代初めの洋間など、匠の技と大庄屋の風格を見せた建物が建ち並び、大庄屋の面影を今に伝えている。
 昭和41年(1966)の映画「紀ノ川」のロケ地となり、ヒロイン・紀本花に扮した女優・司葉子の嫁入りシーンが撮影された。

(写真は 洋間)

 津田家は明治2年(1869)泥棒の放火で東蔵を残して全焼したが、2年後から昭和初めにかけてそれぞれの建物が再建され、今日まで伝えられている。屋敷内の庭も建物との調和が取れ、訪れた人たちの心を和ませており、四季折々の花が彩りを添えている。
 「桃源の郷・宮折耕心院」は建物の一般公開だけでなく、法話と座禅、琴や胡弓の演奏などの音楽会などのイベントも行っている。

全景

(写真は 全景)


 
西国三十三カ所第3番札所
・粉河寺(粉河町)
放送 5月25日(水)
 粉河寺の創建は鎌倉時代初期に描かれた「粉河寺縁起絵巻(国宝)」によると次のようだ。奈良時代末の宝亀元年(770)この地の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)が、山中で異様な光を発する場所を見つけ、日ごろの殺生を悔いてこの地に草庵を建てた。ある日、ひとりの童子が訪ねて宿を乞い、その礼に千手千眼観世音菩薩像を刻みいずことなく立ち去った また、河内国の長者・佐太夫の娘の重病を治した童子が「用あらば粉河を訪ねよ」と言って去った。翌年、粉河を訪ねた佐太夫が、孔子古の草庵に安置されている千手千眼観世音菩薩像が、娘が礼として童子に与えた小刀と緋の袴を手にしているのを見た。娘の病を治してくれたのは観音様だと知った佐太夫は観音に帰依して孔子古と共に寺を大きくした。

粉河寺縁起絵巻

(写真は 粉河寺縁起絵巻)

千手千眼観世音菩薩(千手堂)

 平安時代に西国三十三カ所を定めた花山法皇が粉河寺に巡行、第3番札所と定めた。以来、朝廷や貴族らの信仰を集め、親子で関白になった藤原頼通、師実父子ら藤原一族、平重盛、維盛、足利義持、義教ら貴人や武将の参詣が続き寺運は隆盛を極め、清少納言の「枕草子」にもその名が見える。
 広大な寺域に七堂伽藍(がらん)や550余坊が建ち並び、紀州では高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇っていたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで多くの堂塔が焼失した。現在の堂塔は江戸時代に入って紀州徳川家などの保護と援助で再建されたもので、享保5年(1720)再建の本堂は、本尊を安置する二重屋根の金堂と参詣者が土足で入れる一重屋根の礼堂がひとつに結合された珍しい形を取っている。

(写真は 千手千眼観世音菩薩(千手堂))

 総ケヤキ造りの本堂は西国三十三カ所霊場の中で最も大きな建物である。寺域への入口の壮大な大門(国・重文)や「風猛山」の扁額がかかる中門(国・重文)など、大小20余の堂塔が甍(いらか)を連ねる様子は平安時代の隆盛時をほうふつさせる。
 本堂前の紀州の名石を集めて作られた石庭「粉河寺庭園」は国の名勝に指定され、枯山水の石組が力強い美しさを見せている。この庭は本堂前とその下の広場の間の土留めの役目を果たし、本堂を仰ぎ見る前景も兼ねている。石組の中は蘇鉄を主にサツキなどの刈り込みで埋めている。
御詠歌は「ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや」。

粉河寺庭園

(写真は 粉河寺庭園)


 
医聖・華岡青洲(那賀町)  放送 5月26日(木)
 和歌山市から紀ノ川を30kmほどさかのぼった那賀町は、医聖と称される華岡青洲(1760〜
1835)の故郷。青洲は曼荼羅華(まんだらげ=別名チョウセンアサガオ)の花を主成分とする麻酔薬「通仙散」を完成させ、江戸時代後期の文化元年(1804)世界初の全身麻酔による乳がん摘出手術に成功した。一躍その名が全国に知られ、難病に苦しむ人たちが治療を求めて青洲のもとを訪れたり、医学を志す人たちが青洲に教えを乞うてこの地に集まった。
 那賀町の青洲の里にある春林軒は青洲の住居兼診療所。同時に全国から集まった門人のための医塾であった建物で、主屋と蔵は当時のままのものである。

春林軒

(写真は 春林軒)

華岡青洲

 青洲は代々続いた医者の家に生まれ、23歳の時、京都へ出て医学を学んだほか、儒教などの勉学にも励んだ。3年後、郷里に帰った年に父が亡くなり、父の後を継ぎ患者の診察にあたった。青洲は「人の治せない病気を治すのが自分の役目」との目標を掲げ、医療の研究、手術道具の考案など医療技術の研究と開発に努めていた。
 京都での勉学中に、中国の華陀(かだ)と言う医者が麻酔薬を使って手術をしていたことを知り「自分も日本の華陀になりたい」と麻酔薬の研究に取り組んだ。暇さえあれば山野をかけめぐり薬草や木の皮を集め、動物を使って麻酔効果の実験を重ねていた。苦節20年、ようやく曼荼羅華を主成分とした麻酔薬「通仙散」を完成させた。

(写真は 華岡青洲)

 動物実験は成功したが、人体への効果や副作用は未知だった。この人体への実験台になることを申し出たのが、妻の加恵(かえ)と母の於継(おつぎ)だった。
二人の献身的な協力で人体への投薬の量などがわかり、初の全身麻酔による乳がん摘出手術が成功した。この人体実験のために妻の加恵は失明しており、二人の青洲への献身と確執は、有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」に描写されている。
 青洲の里の春林軒には人形を使って手術の様子や青洲の生活を再現している。隣接するフラワーヒルミュージアムの展示室には、青洲が使っていた医療器具やメガネなどの遺品、資料が展示されている。また、干ばつに苦しむ農民のために青洲が私財を投じて掘った垣内(かいと)池のほとりには「水みたば 心をこめて田植えせよ 池の昔を思いわすれず」の自筆の石碑が立っている。

華岡青洲墓碑

(写真は 華岡青洲墓碑)


 
丹生都比売神社(かつらぎ町)  放送 5月27日(金)
 高野山の山麓、高野参詣の玄関口の町として栄えたかつらぎ町の天野の里に、土地の豪族・天野氏が奉じていたことから天野大社の通称がある丹生都比売(にゅうつひめ)神社はある。高野山の総鎮守社として平安時代に開創されたと考えられ、高野山参詣道のかたわらに鎮座している。
 祭神は主祭神の丹生都比売大神(丹生明神)ほかに高野御子大神(狩場明神)、大食都比売(おおつげひめ)大神(気比明神)、市杵島比売(いちきしまひめ)大神(厳島明神)の四祭神。明治維新の神仏分離令が出るまでは、神社の周りには寺院の堂塔が建ち並び、神仏混淆(しんぶつこんこう)の信仰の神域だった。

楼門

(写真は 楼門)

本殿

 丹生都比売神は天照大神の妹で、空海に高野山を提供した神とされ、丹生都比売の子の高野御子大神は、猟師の姿になって白黒2頭の犬とともに空海を高野山まで案内した神との伝説がある。
 室町時代の明応5年(1496)の火災で社殿や付近の寺院の堂塔が焼失したが、社殿内で御神体が祀られていた内宮殿(国・重文)は運び出され無事だった。楼門(国・重文)は3年後に再建され、4祭神を祀る現在の4社殿(国・重文)は、10年あまりの歳月をかけて再建された。古社にふさわしく文化財も多く、平安時代の作である銀銅蛭巻太刀拵は国宝。

(写真は 本殿)

 朱も鮮やかな太鼓橋が架かる鏡池は、その昔、不老不死の八百比丘尼が水面に映る自分の姿に「800歳にしてはあまりに若々しい」と嘆き、懐中の鏡を投げつけたと言う伝説が残っている。この太鼓橋は淀殿の寄進とする史料もあると言う。
 天野の里には女人禁制の高野山に入山できなかった女性の悲話が残っており、丹生都比売神社の近くにはその墓や塚などがある。世を捨て放浪の旅に出た歌人・西行の妻と娘が尼になってこの地で生涯を終えたその墓と傍らの西行堂。出家して高野山に入った平家の武士・斎藤時頼(滝口入道)を慕う横笛が草庵を結んだ場所の恋塚。父母の菩提を弔うため髪の毛を売って一燈を献じ、高野山復興の原動力となった貧女の一燈のお照の墓がある。

西行堂

(写真は 西行堂)


◇あ    し◇
根来寺JR阪和線紀伊駅またはJR和歌山線岩出駅からバスで根来寺
下車徒歩10分。
桃源の郷・宮折耕心院JR和歌山線下井阪駅から桃山町巡回バスで高嶋下車徒歩2分。
JR和歌山線船戸駅からタクシーで5分。
粉河寺JR和歌山線粉河駅下車徒歩15分。 
青洲の里(春林軒)JR和歌山線名手駅下車徒歩20分。 
丹生都比売神社R和歌山線笠田駅から町営コミュニティーバスで丹生都比売神社前下車。
◇問い合わせ先◇
岩出町観光協会0736−62−7101 
根来寺0736−62−1144 
桃山町観光協会0736−66−1100 
桃源の郷・宮折耕心院0736−66−0587 
粉河町観光協会0736−73−3311 
粉河寺0736−73−3255 
那賀町役場産業課0736−75−3111 
青洲の里(春林軒)0736−75−6008 
かつらぎ町観光協会0736−22−0300 
丹生都比売神社0736−26−0102 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会