月〜金曜日 18時54分〜19時00分


茨木市 

 茨木市は継体天皇陵や藤原鎌足古廟など近畿地方でも有数の古墳地帯で遺跡や古刹も多く、古くから発展した地域だった。かつては豊臣秀吉の重臣・片桐且元の城下町として栄え、江戸時代には幕府の天領となった。現在は大阪のベッドタウン、工業地帯としての地位を占める茨木市の文化遺産を訪ねた。


 
文豪の故郷  放送 6月20日(月)
 茨木市はノーベル文学賞作家・川端康成(1899〜1972)が、3歳から旧制茨木中学校を卒業する18歳までの多感な少年期を過ごした地。康成は大阪・天満の大阪天満宮の東向かいの料亭・相生楼のある敷地内の南端にあった家で、明治32年(1899)開業医の長男として生まれた。今、この地には「川端康成生誕之地」の石碑が立っている。
 康成は誕生後間もない2歳で父を胸の病で亡くし、翌年3歳で母を父と同じ病で亡くした。3歳年上の姉と二人っきりになり、姉は母方の叔母の家に、康成は茨木市宿久庄の祖父母に引き取られ、幼い姉弟は離れ離れの生活を送らなければならない非運な境遇に見舞われた。

川端康成旧跡(茨木市宿久庄)

(写真は 川端康成旧跡(茨木市宿久庄))

大阪府立茨木高等学校

 康成は庄屋で村長を務める祖父母の家で慈しみながら育てられたが、康成にとって3人のわび住まいは孤独な日々で、その境遇が物事を深く見つめる素養を身につけさせた。
 小学校に入学した康成に再び非運が待っていた。1年生の時、祖母が亡くなり、その3年後に姉の芳子が亡くなった。ひ弱な体質だったうえに学校へ行くの嫌がり、3日に1日の割で休んでいた。運動場では友だちが遊んでいるのを、片隅で眺めているような児童だった。だが、1.6kmの道を歩いて通学しているうちに体力がつき、5年生では欠席は1日、
6年生は皆勤となった。本が好きで自宅の庭のモッコクの木に登り、枝にまたがって読書にふける子供で、小学校の図書室の本は1冊残らず読んだと言う。

(写真は 大阪府立茨木高等学校)

 旧制茨木中学校(現・大阪府立茨木高校)へ一番の成績で入学、学業成績は優秀だった。この時期、文学への思いが深まり、図書館での読書や近くの本屋で立ち読みしたり、新しい本を買い込んでその支払いに苦労しながら内外の文学を読破した。毎日、長時間にわたって立ち読みする康成に店主も目をつぶっていたと言う。
 旧制中学時代すでに随筆や詩、短歌などの創作活動を始め、地元の新聞社や雑誌「団欒」に投稿して掲載された。病に倒れ死の床にあった祖父を看病しながら、冷徹な目で観察した記録をノートに残した。後年、この日記に手を加え、発表したのが「十六歳の日記」である。康成はノーベル賞受賞を記念して母校の茨木高校に論語の中の「以文会友(文を以て友を会す)」の揮毫を贈り、この石碑が校庭にある。

以文会友の碑

(写真は 以文会友の碑)


 
川端康成文学館  放送 6月21日(火)
 文豪・川端康成の人間性が形成される時期を過ごした茨木市は、昭和60年(1985)彼の偉大な業績を記念して「川端康成文学館」を開館した。また、ノーベル文学賞を受賞した昭和43年(1968)の翌年に「茨木市名誉市民」の称号を贈った。
 川端康成文学館に展示されているのは、小学校時代の習字にはじまり、自筆原稿、著作の初版本、遺品、書簡、墨書のほか、祖父母と過ごした家の模型、旧制中学校時代の写真など、康成ゆかりの資料や品々が約400点展示されている。また、ビデオで康成を紹介しており、世界的な作家になるまでの康成の生涯を見つめることができる。

川端康成文学館

(写真は 川端康成文学館)

康成と祖父母が暮らした屋敷

 文学館に展示されている模型の茨木市宿久庄の家屋敷は、康成が幼・少年時代を祖父母と過ごし、彼の人生に大きな影響を与えたところである。今、この家屋敷は康成の親戚の人が買い取り住んでおり、康成が生活していたころの家は鉄筋の住宅に改築されているが、庭や生け垣のたたずまいは当時の面影を残している。
 康成が登って枝にまたがり、本を読んだと言うモッコクの木はなくなっているが、カシの木の木陰の石の上で仰臥して、セミの声を聞きながらひと時の静寂を楽しんだと言う大きな庭石は今もある。故郷・茨木の先祖伝来の土地などは処分したが、先祖代々の墓は康成が守り、墓所の中央に五輪塔形式の石碑を建てて整備、故郷への執着を示している。

(写真は 康成と祖父母が暮らした屋敷)

 旧制中学校時代から創作活動を始めていた康成は、東大在学中の大正10年(1921)に同人誌・新思想に「招魂祭一景」を発表して文壇に登場した。東大卒業後、作家への道を歩みはじめ新感覚派の作家として注目されるようになった。
続いて「十六歳の日記」「伊豆の踊子」「浅草紅団」「雪国」「故園」、戦後には「山の音」「千羽鶴」「古都」などの名作を相次いで発表した。これらの著作の初版本が文学館に展示されている。
 茨木で祖母の没後、7歳から16歳まで、目の不自由な祖父との2人きりの生活が続いた。病で死の床にあった祖父を看取る少年・川端康成の冷徹な眼で記録したノートに加筆して生まれたのが「十六歳の日記」。目の悪い祖父に手紙を読んでやったり、代筆してやったりしている。また、体が不自由になった祖父のし尿の世話をするのが嫌だったとも書いている。

小学校時代の習字

(写真は 小学校時代の習字)


 
西国三十三カ所第22番札所
・総持寺 
放送 6月22日(水)
 大阪のベッドタウンや工業地として、住宅や工業用地の開発が進んだ茨木市。
その住宅や工場が間近に迫る高台に建つ総持寺は、平安時代中期の仁和2年(886)中納言藤原山蔭(政朝)が創建した。本尊の秘仏・千手観音菩薩像は亀の甲羅の上に立っており、台座に蓮弁がない珍しい姿である。
 その由来が総持寺縁起絵巻に描かれている。山蔭がまだ幼いころのこと。父・高房が九州・太宰府に赴任途中、淀川で漁師に捕らえられていた1匹の亀を見て「今日は観音さまの縁日だから…」と言って、漁師に着物を与えその亀を助け川に放してやった。

本尊 千手観世音菩薩(お前立ち)

(写真は 本尊 千手観世音菩薩(お前立ち))

総持寺 縁起絵巻

 その翌日、幼子の山蔭が継母の策略で川に落とされ行方不明になった。嘆き悲しんだ高房は観音さまに「いま一度、わが子の姿を…」と祈ったところ、昨日助けた亀が山蔭を背に乗せて水中から浮かび上がってきたと言う。観音さまのご恩に感謝して寺の建立を発願、遣唐使に中国で観音像を彫る香木の入手を依頼した。しかし、香木は持ち出し禁止となっていたため、遣唐使は「高房卿の求めに応じて海に渡す」と記して海中に投げ入れた。
 高房は寺院建立の志なかばで没したが、山蔭が父の寺院建立の遺志を継いだ。後に太宰府につとめていた山蔭が、海に投げ入れられた香木が海岸に流れ着いているのを見つけた。太宰府の任を終えて京の都に帰り、大和・長谷寺の観音に造仏を祈願した。観音の化身なのか童子があらわれ千日をかけて、この香木に刻んだのが本尊の千手観音菩薩像と言われている。

(写真は 総持寺 縁起絵巻)

 総持寺は元亀2年(1571)織田信長の兵火で堂宇は焼失したが、本尊の千手観音像は下半身は焼け焦げたが無事に残ったことから「火防(ひぶせ)観音」としても信仰されている。現在の諸堂は慶長8年(1603)豊臣秀頼が再建したものである。
 西国三十三カ所第22番札所の総持寺は、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場のひとつとしても信仰されており、巡礼姿の観音信仰の信者たちの参拝が続いている。総持寺を創建した山蔭は料理の名手で包丁の祖とも言われていた。毎年4月18日には山蔭流包丁式が行われ、魚に手を触れず包丁と火ばしだけを使って活け造りをして奉納する。秘仏の本尊は毎年4月15日から21日まで開扉され、下半身が黒く焦げたままの観音さまを拝むことができる。
 御詠歌は「おしなべて おいもわかきも そうじじの ほとけのちかい たのまぬはなし」。

ぼけ封じ観音

(写真は ぼけ封じ観音)


 
大門寺  放送 6月23日(木)
 茨木市北部の小高い山上の木立の中に建つ真言宗大門寺は京都・仁和寺の末寺。
宝亀2年(771)桓武天皇の兄、開成皇子の開基と伝えられている。その後、弘法大師・空海がこの地へ来て籠もり、金剛、蔵王の二像を刻み寺の守護神にした。
 平安時代中期の貞観年間(859〜77)には、本堂、三重塔、御影堂などの諸堂が建ち並び、寺運は隆盛を極めていた。これらの諸堂は鎌倉時代初めの建久の地震、鎌倉時代末期の元弘の兵火などで焼失、荒廃していたが、江戸時代初めの寛永19年(1642)に中興開山の快我上人によって再建されたのが現在の諸堂宇である。

持国天

(写真は 持国天)

本尊 聖如意輪観世音菩薩(お前立ち)

 本尊の聖如意輪観世音菩薩像(国・重文)はクスノキの一木造りで、岩座に半跏思惟(はんかしい)の形で座す姿は、開成皇子の自刻と言われ秘仏となっている。
 江戸時代中期、西行を慕って各地を遍歴し、今西行と言われた歌人・似雲(じうん)法師は、第8世住職・守詮和尚と親交があり、寺をたびたび訪れ逗留して歌を詠んでいた。そのひとつが「時鳥(ほととぎす) をのが五月は さもなくて おちかえりなく 水無月の空」であり、今も静かな境内にはホトトギスの鳴き声が響いている。自然に恵まれた境内は春には新緑、秋には紅葉と四季折々に訪れる人たちに安らぎの場を提供している。特に大門寺は隠れた紅葉の名所と言われ、毎年11月中旬に紅葉祭が開かれている。

(写真は 本尊 聖如意輪観世音菩薩
                                   (お前立ち))

 平安時代末から鎌倉時代中期までの約100年間に、経尊と長賢と言う二人の僧が願主となって、大門寺一切経の写経大事業が行われた。この間に北摂を中心として近隣諸国の善男善女が数千巻の写経をしたと言う。現在、大門寺にはその一部の77巻が伝わり保存されており、他は近隣諸家に散在しているようだ。
 境内南西の高塚の頂上に常陸大明神と書かれた木村常陸介の墓がある。豊臣秀吉の甥・秀次の重臣で越前国・武生の城主にもなったが、主君・秀次が謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後を追って、大門寺で切腹した。その時の血染めの経帷子(きょうかたびら)や刀、槍などが大門寺に保存されている。

一切経 写し

(写真は 一切経 写し)


 
竜王山の古社寺  放送 6月24日(金)
 大門寺よりさらに北、京都府との府境に近い竜王山の麓にある忍頂寺は、平安時代初めの仁寿元年(851)僧・三澄が神岑山寺(かぶさんじ)を建立したのが始まりで、その後、貞観2年(860)清和天皇から忍頂寺の寺号を賜り勅願寺となった。
 摂津名所図絵などによると忍頂寺は初め竜王山の頂上にあり、荘厳を極めていたとされている。兵火で堂宇が焼失したと伝えられているが、創建当時の場所や現在地に移転した年代は定かでない。だが、境内に鎌倉時代末期の元亨元年(1321)の銘が刻まれた高さ1.3mの花崗岩の五輪塔(大阪府指定文化財)があることから、この時代にはすでに現在地に移転していたと見られる。

忍頂寺

(写真は 忍頂寺)

織田信長朱印状

 戦国時代には兵火もこうむったが、織田信長から朱印状をもらって保護を受けた。その後、高山右近がキリシタン布教のため堂宇を焼き、寺領を没収して聖堂としたとの記録もある。本堂前に火袋の格子が十字になっているキリシタン灯籠が残っていることからも、キリシタンの聖堂の存在がうかがえる。
 江戸時代初めの寛永年間(1624〜44)に僧・栄尊が寺の再興をはかり、最盛期には23もの寺坊があったと伝えられている。現在の忍頂寺は当時の子院のひとつであった寿命院の後を継いだものである。竜王山には忍頂寺の本尊・薬師如来が出現したとされる岩刀山(いわたちやま)や岩中から出現した薬師如来を浴したと言う医母水、兵火を避け本尊の薬師如来像を安置した穴仏と呼ぶ岩穴など、忍頂寺にまつわる伝承が多い。

(写真は 織田信長朱印状)

 竜王山の山頂近くにある八大龍王宮は、奈良時代末の宝亀年間(770〜81)に畿内が大干ばつに見舞われた時、光仁天皇の皇子で桓武天皇の兄・開成皇子が、竜王が住むと言うこの山に登ったことに由来する。皇子は池を掘り、護摩を焚き、八柱の龍神を勧請して慈雨を降らせた。その祠の跡に八大竜王宮の社殿が建立されたと言われている。
 豊かな自然が残っている竜王山は大阪府立北摂自然公園に指定されており、東海自然歩道や茨木自然歩道が整備され、格好のハイキングコースとなっている。山頂の展望台からは大阪平野が一望でき、遠く生駒、金剛・葛城の山並みが望め、東麓には奇岩、怪石が点在する竜仙峡があり、渓流の景勝が楽しめる。

八大龍王宮

(写真は 八大龍王宮)


◇あ    し◇
川端康成旧跡JR茨木駅からバス宿川原下車徒歩5分。 
茨木市立川端康成文学館JR茨木駅、阪急電鉄京都線茨木市駅下車徒歩20分。
総持寺阪急電鉄京都線総持寺駅下車徒歩7分。 
大門寺JR茨木駅からバス大門下車徒歩5分。 
忍頂寺JR茨木駅からバス寿命院前下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
茨木市立川端康成文学館072−625−5978 
総持寺072−622−3209 
大門寺072−649−2027 
忍頂寺072−649−3261 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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