月〜金曜日 18時54分〜19時00分


三重・美杉村 

 三重県の中西部に位置し、奈良県と隣接する美杉村は、古代から大和と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道が、村内を東西に通じ、伊勢への鉄道が開通するまでは、伊勢参りの旅人で美杉の各宿場町はにぎわった。今も街道筋には旅籠だった建物や常夜燈、自然石の道標などが残り、往時の宿場町の面影をしのばせている。また、南北朝時代から戦国時代まで北畠氏の城下町として栄え、はなやかな文化の華が開いた時期もあった。


 
伊勢本街道  放送 7月11日(月)
お伊勢参りの街道は数多くあるが、奈良県榛原から南東へ進む伊勢本街道は険しい道だったが、大和と伊勢を結ぶ最短ルートとして多くの人びとが往き来した。
奈良から県境を越えるとスギの美林におおわれた美杉村・杉平の集落に入る。
 美杉村の伊勢本街道筋には常夜燈が今も数多く残っている。この常夜燈に「太一(たいいつ)」の文字が刻まれていることに気がつく。「太一」とは中国では天を主宰する神を意味し、日本では天照大神のこと指し、伊勢神宮御用の印を意味する。
初めは伊勢神宮御用材に印され、その後、伊勢神宮の御用をする船や幕、のぼりなどに用いられた。

伊勢地

(写真は 伊勢地)

中垣内の庚申さん

 このように美杉村の伊勢本街道筋の各所に道標や常夜燈、庚申堂、古い民家の町並みが残り、かつての宿場町の面影を今に伝えている。往時にはこれらの風景を目にした旅人たちは、伊勢へ入ったことを実感したことであろう。
 江戸時代から明治時代末まで宿場町として栄えた奥津(おきつ)には、当時、旅籠(はたご)だった
20軒ほどの家々の軒先に、昔の屋号を入れたのれんがかけられ揺れている。各家のお母さんたちの手作りののれんを土曜、日曜日に、玄関にかけ美杉村を訪れる観光客をもてなしている。大洞山を描いたものや招き猫をあしらったものなど、独創的なデザインののれんを見て歩くのも楽しい。

(写真は 中垣内の庚申さん)

 伊勢本街道は飛鳥、藤原京時代には伊勢神宮への重要なルートだったが、都が平安京へ遷都してからは初瀬街道や鈴鹿峠越えが主流となり本街道は一時期は衰退した。だが、南北朝時代に美杉村多気が、伊勢国司の北畠氏本拠地となってからは再び伊勢本街道が重要なルートとなり、お伊勢参りの旅人たちが増えた。北畠氏滅亡後も宿場町の機能は残り、明治時代まで旅籠が存在していた。
 記紀神話の垂仁天皇時代に天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座地を求めて各地を巡行した時、この伊勢本街道を通っており、巡行に関わる伝承が街道筋に残っている。このため伊勢参りの人びとは「神の御心に叶う道」として、このルートを尊んで利用した。

旧奥津宿

(写真は 旧奥津宿)


 
三多気の里  放送 7月12日(火)
 美杉村・杉平の北方、奈良県との県境に雄姿を見せる標高985mの大洞山(おおばらさん)は、美杉村のシンボルとも言える。伊勢、伊賀、大和の三国にまたがっていたことから昔は三国山と呼ばれてこともあった。村内の各地や奈良県側から眺める大洞山の山容がそれぞれ異なり、大洞山頂上からの眺めがまた素晴らしい。
 伊勢本街道から大洞山へ向かう道は、麓の真福院の参道となっており、1km余りの坂の両側には「三多気(みたげ)の桜」と呼ばれる千本余りの山桜の古木の並木が続いており、吉野山の桜と同じように千年以上の歴史がある。

三多気

(写真は 三多気)

真福院

 春にこの千本もの山桜が一斉に咲き競いその眺めは絶景。各地に桜の名所は多いが、山桜の並木は珍しく「さくらの名所100選」「全国ふれあいの並木道30選」にも選ばれ、国の名勝地にも指定されている。北畠氏が真福院を祈願所としていたころは、北畠氏の保護を受けて三多気から上多気までの沿道にも山桜の並木が続いていたと言う。
 真福院は京都の醍醐寺を開いた理源大師・聖宝が昌泰2年(899)に開基したと言われ、伊勢国司・北畠氏の祈願所でもあった。真福院の山門近くの参道には、国の天然記念物に指定されているケヤキや杉の老樹が覆い茂っている。

(写真は 真福院)

 街道沿いで「まちかど博物館・伊勢型紙工房・坂本館」を開いているのが坂本為一さん。着物の柄の型染めに使う伊勢型紙を素材に、村の歴史や風景を細やかなテクニックで切り絵に仕立てあげて展示している。
 伊勢型紙は現在の鈴鹿市を中心に発達したもので、和紙を柿渋で加工した型紙、型地紙とも呼ばれる渋紙に、手彫りの技法でまざまな模様を彫り抜いたものである。
坂本さんは伊勢型紙教室を開き、地元の人たちにも手ほどきしており、坂本さんの制作テクニックと巧みな話術で、生徒たちを切り絵の世界へ引き込んでいる。生徒たちの手先の器用さもなかなかのもので、優れた作品を次々発表している。

伊勢型紙教室

(写真は 伊勢型紙教室)


 
飼坂峠を越えて  放送 7月13日(水)
 旧奥津宿から東へ進み、重厚な山門の正念寺を過ぎると道はやがて飼坂(かいさか)峠へとかかっていく。「お伊勢参りして怖いとこどこか、飼坂、櫃坂(ひつさか)、鞍取坂、津留の渡しか宮川か」と道中歌に歌われたように、飼坂峠越えは伊勢本街道中の最大の難所だった。
 今も残っている旧伊勢本街道の飼坂峠は道幅も狭く、勾配は急でスギやヒノキが生い茂って昼なお暗い。現代の車社会に対応して新設された国道368号でも、急カーブの山道が続き「怖いとこ」には変わりない。

飼坂峠

(写真は 飼坂峠)

首切地蔵

 かつては峠付近で山賊が出没し、所持品を奪われたり、殺傷された旅人も少なくなかった。峠にかかる街道端に、山賊の犠牲になった旅人の供養のために建てられたと思われる、首が切られた首切地蔵、腰が切られた腰切地蔵が立っており、思わず手を合わせ旅人たちの成仏を祈ってしまう。
 松阪生まれの本居宣長が江戸時代中期の明和
9年(1772)大和・吉野へ旅した折、帰り道に伊勢本街道越えを指示したところ、供の者たちが「本街道を通るなど考えただけでも恐ろしい」と震えあがったと菅笠日記に記されており、多くの人たちから恐れられていたことがわかる。

(写真は 首切地蔵)

 飼坂峠を下ると上多気宿があった谷町の集落に出る。左右に並ぶ旧家や土蔵が街道筋の風情を漂わせている。上多気は伊勢国司・北畠氏が居城を構えた城下町だった所で、南伊勢の都として最盛期には人口が1万人を超えていた。上多気は宿場町であると同時に城下町でもあり、旅籠(はたご)のほかにあらゆる商売を営む商人や職人が店を構えていた。今もこうした風情が街道筋には残っており、観光客らが往時をしのんでいる。
 このあたりにも大きな常夜燈があり、自然石の道標には「すぐいせ道」「すぐはせ道」とある。この「すぐ」は「もうすぐ」と言う意味ではなく「まっすぐに進め」との意味である。

上多気

(写真は 上多気)


 
伊勢国司・北畠氏  放送 7月14日(木)
 飼坂峠の東、多気の里は伊勢国司・北畠氏の本拠地。南北朝時代の公家・北畠親房(ちかふさ)の三男・顕能(あきよし)が初代伊勢国司となり、興国3年(1342)標高560mの霧山に山城を築き、麓にも館を構えて城下町を形成した。
 以後、各地で戦国大名が滅ぼされる中で、北畠氏はこの天害の地の利に守られ240年間、伊勢の国司として君臨、多気の地は南伊勢の中心として栄え、伊勢本街道の重要度も増していった。

北畠顕能像

(写真は 北畠顕能像)

北畠神社

 だが、天正4年(1576)顕能から数えて9代目伊勢国司・具教(とものり)の時、織田信長勢に攻められ、難攻不落と言われた霧山城も落城して北畠氏は滅亡した。美杉ふるさと資料館にはこの地に君臨した北畠氏のゆかりの鎧、刀、古文書などが保存、展示されている。
 今に残る北畠神社は、寛永20年(1643)に北畠氏の末裔・鈴木家次が創建した八幡社に始まり、顕能を主神にその父・親房、兄・顕家(あきいえ)を合わせて祀り、明治14年(1881)北畠神社に改められた。また、八幡社創建の時、北畠氏先祖供養のため真善院を八幡社の神宮寺として創建している。

(写真は 北畠神社)

 北畠氏の城下町として栄えたこの多気の地は、京都の影響を受けが高貴な文化が華を咲かせ、伊勢の「小京都」とも呼ばれた。北畠御所と呼ばれた館跡の北畠神社境内に残る北畠館跡庭園(国・名勝、史跡)は、山側に米の字形の林泉庭園、谷側に石組みの枯山水を配し、武家の庭園らしく質素で豪放、野性的な趣がある。
 作庭者は7代目伊勢国司・北畠晴具(はるとも)の義父で、室町幕府の管領となった細川高国とされているが、ほかに相阿弥の作とも言われたり、作庭の時期も諸説がある。

北畠氏館跡庭園

(写真は 北畠氏館跡庭園)


 
本街道の宿場町  放送 7月15日(金)
 美杉村の町屋、谷町地区は、伊勢本街道の難所だった飼坂(かいさか)峠と櫃坂(ひつさか)峠のちょうど中間にあり、古くから伊勢と京、大和を結ぶ街道の宿場町として栄えた。明治時代中ごろまではお伊勢参りの旅人でにぎわい、飼坂峠を下ってきて旅人たちをホッとさせたのが、谷町にある高さ5m、伊勢本街道最大級の常夜燈からもれる灯りだっただろう。
 この宿場町には旅籠(はたご)ばかりでなく、さまざまな品を扱う商人や職人が屋号を掲げて店を並べ、町は活気にあふれたいた。

宿札

(写真は 宿札)

坂向場

 今もそのころの面影を伝える建物があちこちに残り、宿の宣伝に使われていた「宿札」や伊勢参り講の「講札」などが残っている旧旅籠がある。明治時代中ごろまで営業していた旅籠・車屋は、建物の一部が改造されているが、今も当時の旅籠の風情をよく残している。
 こうした宿場町を東へ出外れたところに、多気の伊勢講の人たちが2泊3日の伊勢参りを終えて帰ってくるのを、家族や子供たちが出迎えた「坂向(さかむかい)場」がある。出迎えた子供たちの楽しみは何と言ってもお土産で、あめ玉や菓子の入った袋をもらって大喜び。大人たちはこの場で無礼講の酒宴を催して無事を喜んだと言われている。

(写真は 坂向場)

 伊勢本街道沿いには昔ながらの甘味処がたくさんある。そのひとつが上多気で手作りのゆず入り練羊羮(ねりようかん)を作って販売している東屋。昔の製法をそのまま引き継ぎ、かまどで羊羹に入れる小豆を煮たり、羊羹の材料の寒天と小豆を煮立てる燃料はすべて薪。この製法が今や美杉名物になっており、薪を燃やして作られた練羊羮として観光客らの人気を集めている。
 このように美杉村の旧宿場町には、当時の文化が語り継がれ、形として伝承されている。山間地に伝わる素朴な伝統文化が見直され、観光客を招く素材ともなってきている。

東屋

(写真は 東屋)


◇あ    し◇
旧奥津宿JR名松線奥津駅下車。 
近鉄大阪線名張駅からバスで奥津駅前下車。
三多気の桜JR名松線奥津駅からバスで杉平下車徒歩10分。
近鉄大阪線名張駅からバスで杉平下車徒歩10分。
真福院JR名松線奥津駅からバスで杉平下車徒歩約40分。
近鉄大阪線名張駅からバスで杉平下車徒歩約40分。
伊勢型紙工房・坂本館JR名松線伊勢奥津駅下車徒歩20分。 
近鉄大阪線名張駅からバスで奥津駅前下車徒歩20分。
飼坂峠JR名松線奥津駅下車徒歩約1時間。 
近鉄大阪線名張駅からバスで奥津駅前下車。
北畠神社、北畠氏館跡庭園JR名松線伊勢竹原駅からバスで北畠神社前下車。
美杉ふるさと資料館JR名松線勢竹原駅からバスで資料館前下車。 
旧上多気宿、東屋(羊羹)JR名松線竹原駅からバスで上多気下車。 
◇問い合わせ先◇
美杉村役場産業振興課059−272−8084 
美杉村観光協会059−272−8085 
美杉ふるさと資料館059−275−0240 
三重歴史街道語り部研究会059−275−0017 
真福院059−274−0716 
北畠神社、北畠氏館跡庭園059−275−0615 
東屋(練羊羹)059−275−0026 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会