月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山〜奈良・すずかけの道 

 弘法大師・空海が開いた真言密教の聖地・高野山。修験道の開祖・役行者が開いた修験道の聖地・大峰山。この二大聖地を結ぶ道を「すずかけの道」と呼ぶ。昨年「紀伊山地の霊場と参詣道」が、ユネスコの世界遺産に登録され、こうした修行にまつわる道が一躍クローズアップされた。今回は「すずかけの道」沿いの歴史遺産と文化財、地元に残る伝承地を訪ねた。


 
すずかけの道
(高野町〜野迫川村) 
放送 8月29日(月)
 弘法大師・空海が開いた真言密教の聖地・高野山と修験道の開祖・役行者が開いた修験道の聖地・大峰山の二大聖地を結んで、高野町から野迫川村、大塔村、天川村と東西に走る街道が「すずかけの道」と呼ばれている。この街道の名は、この街道をにぎわわせていた修験者たちの持つ錫杖(しゃくじょう)の頭部の輪の音と、修験者の装束である篠懸(すずかけ)からきていると言われている。
 高野山で修行を積んでいた空海は、このすずかけの道を通って高野山と大峰山麓の天河大弁財天社や大峰山の間を往き来して、更なる修行を積み重ねていたと伝えられている。

弘法大師

(写真は 弘法大師)

野川弁財天(妙音院)

 紀伊半島の中央、標高約850mの山地に広がる真言密教の聖地・高野山は、空海が平安時代前期の弘仁7年(816)に開いた真言密教の道場である。30歳で中国・唐に留学していた空海は、唐からの帰途、中国・明州の浜で「伽藍(がらん)建立の地を示したまえ」と仏具の三鈷(さんこ)を宙に投げた。
 帰国した空海はこの三鈷を探し求めていたところ、神が化身した女性に導かれ高野山の松の枝に留まっていた三鈷を見つけた。この地を嵯峨天皇から下賜され、大塔、金堂など伽藍を建立した。この高野山開創の地を壇上伽藍と言い、高野山奥の院とともに高野山の二大聖地で、今もこの地に「三鈷の松」が植えられている。

(写真は 野川弁財天(妙音院))

 弘法大師はこの高野山の地で、手に大日如来の印を結び、口に真言を唱え、結跏趺坐(けっかふざ)で生身のまま仏になり、62歳の生涯を閉じた。高野山は大師信仰の地として栄え、現在も総本山金剛峯寺を中心に117寺院があり、比叡山とともに仏教の一大聖地である。
 高野山のある高野町から「すずかけの道」を野迫川村にはいると、道沿いに弘法大師が建てたと伝わる財宝の神様・野川弁財天が妙音院と言う寺の境内にある。厳島神社とも呼ばれ、本尊の大弁財天女像は弘法大師の手になると言い伝えられている。

大弁財天女像

(写真は 大弁財天女像)


 
非運の史跡(大塔村)  放送 8月30日(火)
 高野山から歩を進めてきた「すずかけの道」は、野迫川村から険しい山々を越えて大塔村へ入る。南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王(1308〜35)が、この地に身を潜めていた。この時親王と村の娘とのロマンスが残されている。
 父・後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕を助けて成功、建武の中興の成し遂げた。だが倒幕後、後醍醐天皇や足利尊氏らと反目し、皇位簒奪(さんだつ)などの疑いをかけられ鎌倉に幽閉され、その後、尊氏の弟・足利直義に殺害された。こうした非運の皇子の最期をしのび、倒幕に立ち上がったゆかりの地が村名になって今日に語り継がれている。

大塔宮護良親王馬上像

(写真は 大塔宮護良親王馬上像)

大塔村郷土館

 大塔村は幕末の文久3年(1863)前侍従中山忠光卿を総大将として、吉村寅太郎らが尊王攘夷の天誅組を旗揚げ、徳川幕府を倒そうと挙兵、五條代官所を襲撃して大和政権を樹立した天誅組にもゆかりが深い。
 天誅組は五條代官所襲撃後、五條の桜井寺に本陣を置いたが、時同じくして朝廷の実権が一夜にして長州藩の尊王攘夷派から薩摩・会津藩の公武合体派に移った。
天誅組は討伐軍に包囲され大塔村の天辻に本陣を移した。土地の豪族・鶴屋治兵衛らが天誅組を助けたが、討伐軍の追撃に持ちこたえられず、激戦を繰り返しながら転々とした。ついに東吉野村で壊滅したが、これが明治維新の先駆けとなった。旧天辻小学校の校地となった鶴屋治兵衛の屋敷跡が天誅組本陣跡で、今、天辻峠維新歴史公園となり、天誅組本陣跡の石碑や鶴屋治兵衛の頌徳碑が立っている。

(写真は 大塔村郷土館)

 この天誅組本陣跡を南に下った所に大塔村郷土館がある。茅葺き屋根の民家風の郷土館と白壁の土蔵造りの歴史の蔵があり、入口には郷土館のシンボルとして、鎧兜姿の大塔宮護良親王馬上像が建立されている。
 大塔村の歴史と文化を正しく後世に伝え、郷土の歴史や民俗資料を展示して山村の食文化を実演、体感できる場、都会の人たちと村民とのふれあいスペースにしようと民家風に建物を建設、平成12年(2000)にオープンした。歴史の蔵には大塔宮の刀(複製)や火縄銃、天誅組・吉村寅太郎の襦袢(じゅばん)(複製)のほか、農具や山仕事の道具などの民具類が展示されている。郷土館の囲炉裏のある部屋では、郷土料理の清流定食や美山定食が味わえる。

天誅組総裁 吉村寅太郎の襦袢(複製)

(写真は 天誅組総裁 吉村寅太郎の襦袢
(複製))


 
大自然と仏たち(天川村)  放送 8月31日(水)
 大峰山系の山々の山懐に抱かれ、大自然に恵まれた天川村。高野山からの「すずかけの道」は大峰山を源流とする天の川に沿いながら進み、終点の修験道の聖地までは目前。
 村名の由来ともなっている天の川は、大峰山系の深い渓谷から流れ出る清流を集めて太平洋へ流れる熊野川(新宮川)へとそそぐ。天の川へそそぐ深い渓谷には双門峡、神童子峡、みたらい峡など風光明媚な峡谷が数多くあり、その峡谷には美しい滝が連なっている。「すずかけの道」沿いの不動滝もそのひとつで、こうした美しい自然の景観が、街道沿いに次々と展開するのが天川村。

広目天(永豊寺)

(写真は 広目天(永豊寺))

聖観世音菩薩立像(栃尾観音堂)

 「すずかけの道」沿いの天川村和田の永豊寺には釈迦如来、多聞天、広目天の3体の仏像が安置されている。かつてこの地方では日照りが続くと、村人が真夜中に寺から広目天像をこっそり持ち出し、天の川の平らな仏岩の上に安置した。裸になった村人たちが「雨たもれ、雨たもれ」と水をかけて雨乞いをした。こうしたことからこの広目天像は「洗い仏」と呼ばれた。この時、住職に見つかると雨乞いのお祈りの効き目がなくなるので、村人たちは背中合わせになって広目天像を背負い住職に内緒で持ち出したとか。
 このお祈りをすると3日以内に必ず雨が降ったと言う。戦前まで行われていたこの雨乞いも戦後はすたれ、広目天像を安置した仏岩も護岸工事で取り壊され姿を消してしまっている。

(写真は 聖観世音菩薩立像(栃尾観音堂))

 永豊寺から北東に「すずかけの道」を進んだ天の川沿いに栃尾観音堂がある。
このお堂に円空仏の聖観音菩薩立像、大弁財天女立像、金剛童子立像、護法神像の4体が安置されている。いずれも円空仏の特徴をよく表しており、穏やかな微笑みが印象的だ。特に護法神像は数多く存在する円空の護法神像の中で、初期に彫られたものとして注目されている。
 円空は江戸時代初期の寛文年間らか延宝年間(1661〜1681)の間に、2度にわたって山上ヶ岳や大峰山の山中で修行しており、冬も山中で修行すると言う厳しいものだった。この修業中に残して円空仏が天川村には、栃尾観音堂の4体も含め16体残っている。

護法神像(栃尾観音堂)

(写真は 護法神像(栃尾観音堂))


 
天河大弁財天社(天川村)  放送 9月1日(木)
 天河大弁財天社は厳島、竹生島と並ぶ日本三弁財天のひとつで、その草創は飛鳥時代にまで遡る。大峯修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、山上ヶ岳で修行中に感得した弁財天を大峰山系の弥山の頂上に大峯の鎮守として祀った。この弁財天を天武天皇が現在地に社殿を建立して移したのが天河弁財天社の起こりで、弥山神社は天河弁財天社の奥宮として今も信仰を集めている。
 天河弁財天社では中国・唐から帰国した弘法大師・空海が、高野山を開く前に天河弁財天社で修行しており、空海が唐から持ち帰った密教の法具「五鈷鈴(ごこれい)」など、空海の遺品が天河弁財天社に伝わっている。

天河大弁財天社

(写真は 天河大弁財天社)

神宝・五十鈴

 天河弁財天社は別名・妙音天と言って早くから芸能の神として崇められており、とりわけ能楽とのゆかりが深い。本殿前には能舞台があり、毎年7月
17日の例大祭には観世流やその他の流派の能が奉納される。世阿弥の時代以来、能楽の家元などから奉納された室町時代から桃山時代、江戸時代にかけての貴重な能面31面、能装束30点のほかに、謡本、小道具類などが社宝として保存されている。
 室町時代に能楽を大成した世阿弥と長男十郎元雅父子は将軍足利義教から冷遇され不遇だった。元雅は能面を天河弁財天社に奉納し、家運の繁栄を祈願して以後、能楽関係者からの能面、能装束などの奉納が盛んになった。

(写真は 神宝・五十鈴)

 天河弁財天社には「神宝(かんだから)・五十鈴(いすず)」が社宝として伝わっている。この鈴はその形から他の鈴とは違い、楽器でも単なる鈴でもないと言う。神へ願いを届けたり神意をうかがう時に振り鳴らす聖なる神具とされている。
 旧暦7月7日(今年は8月11日)に七夕祭が催される。奉納舞や供養祭が行われた後、夕闇迫るころに天の川の河原で、先祖の供養の込めた灯籠流しが行われる。
天の川の清流にいくつもの灯籠が静かに流れ、幻想的な雰囲気を醸し出している。

七夕祭

(写真は 七夕祭)


 
大峯への道(天川村)  放送 9月2日(金)
 高野山から出発すれば「すずかけの道」の終点であり、大峰山から出発すればもう一方の起点である修験道の聖地・大峰山は、標高1719mの正式名称・山上ヶ岳。その山麓の洞川(どろがわ)温泉は、大峯修験道と大峰登山の拠点として多くの旅館が軒を連ね、昔ながらの行者宿の雰囲気を残している。
 山上ヶ岳頂上にある修験道の根本道場・大峯山寺は、毎年5月3日の戸開式から9月23日の戸閉式までが参拝のシーズンで、大勢の山伏姿の行者たちが大峯山寺を目指して登る。この間の洞川温泉は行者たちや林間学校の児童、生徒、避暑客らでにぎわう。

本尊 弥勒菩薩

(写真は 本尊 弥勒菩薩)

水行場

 山上川をはさんで旅館街の北側に位置する龍泉寺は、役行者(えんのぎょうじゃ)が、湧き出る泉のほとりに八大龍王尊を祀って修行をしたのが始まりと伝わる大峯山寺の護持院。八大龍王の龍と役行者が見つけた泉にちなんで龍泉寺の名がつけられた。
 この泉が湧き出ているところを竜の口と言い、この水が流れ込む水行場では行者たちが般若心経を唱えながら水行をして身を清める第一の行場。水行を終え、心を新たにして八大龍王尊に道中の安全を祈願、山上ヶ岳の大峯山寺へ登る。

(写真は 水行場)

 龍泉寺から大峯山寺へ向かう登山道の途中にある母公堂は、役行者の母・白専女(しらとうめ)を祀っている。大峰山で修行するわが子を案じで洞川まで来たものの、女人禁制の大峰山には登れずこの地に庵を結び、修行が終わり下山してくる役行者を待った。その間、里の人たちに仏の道を説いたり、出産の手助けをして里人から慕われていた。この庵跡に建てられたのが母公堂で、安産祈願所として古くから知られている。
 今も大峰山は女人禁制となっており、一部の女性たちから「国立公園の山に女性を登らせないのは女性差別だ」と女性への開放の声が高まっており、今後の成り行きが注目されている。

白専女(役行者の母)

(写真は 白専女(役行者の母))


◇あ    し◇
高野山南海電鉄高野線極楽橋駅で高野山ケーブルに乗り換え高野山駅
下車、山内を巡回する南海りんかんバスでそれぞれの目的地で下車。山内一日フリー乗車券(800円)が便利でお得。
野川弁財天(妙音院)高野山駅からすずかけラインバス(毎年5月〜8月までの土、日、祝日運行)で、上中村下車徒歩30分(1日2便)。
JR五條駅からバスで柞原下車徒歩5分(小代下乗り換え1日1便)。
天辻峠維新歴史公園JR五條駅からバスで星の国下車徒歩3分。 
大塔村郷土館JR五條駅からバスで星の国下車徒歩すぐ。 
永豊寺近鉄吉野線下市口駅からバスで天川和田下車徒歩5分。
栃尾観音堂近鉄吉野線下市口駅からバスで栃尾下車徒歩10分。
天河大弁財天社近鉄吉野線下市口駅からバスで坪内下車徒歩5分。 
龍泉寺近鉄吉野線下市口駅からバスで洞川温泉下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
高野山観光協会0736−56−2616 
野迫川村役場企画課0747−37−2101 
野川弁財天(妙音院)0747−37−2150 
大塔ふる里センター0747−36−0058
大塔村郷土館0747−36−0085 
天川村総合案内所0747−63−0999 
永豊寺0747−65−0057 
天河大弁財天社0747−63−0558 
大峰山洞川温泉観光案内所0747−64−0333 
龍泉寺0747−64−0001 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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