月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市、生駒市

 生駒山の東麓に近い奈良市西部は、大阪のベッドタウンとして閑静な住宅街が広がる中に、美術館や赤膚焼の窯元がある。都市の喧騒の中にあるミュージアムとは違い、静かな雰囲気の中で美術品の観賞ができる。また、大阪府との府県境に近い生駒市の茶筌の里は、今も静かなたたずまいを残し訪れる人を迎えてくれる。


 
松伯美術館(奈良市)  放送 9月19日(月)
 奈良市登美ケ丘2丁目の大渕池のほとりの閑静な住宅街に平成6年(1994)に開館した松伯美術館は、上村松園(うえむらしょうえん)・松篁(しょうこう)・淳之(あつし)の作品と資料など、日本画の上村家3代にわたる画業を紹介している。松園は昭和23年(1948)女性で初めての文化勲章を受章、松篁も昭和59年(1984)文化勲章を受章、親子での受章となった。
 この美術館は上村松篁、淳之両画伯からの作品の寄贈と近鉄からの基金提供により、近鉄名誉会長・故佐伯勇氏の旧邸内に建設された。松伯美術館では2005年10月19日まで企画展 「松園の縮図帖」を開催している。その後、
2005年10月25日から11月27日まで特別展「上村松園展」を予定している。

「楊貴妃」上村松園

(写真は 「楊貴妃」上村松園)

「真鶴」上村松篁

 松園(1875〜1949)は京都の茶商に生まれ育った生粋の京女で、本名は津禰(つね)と言った。父は松園が生まれる2ヶ月前に死去しており、父の顔をまったく知らず、姉とともに母の手で育てられた。
 幼少時から尋常でない画才を発揮、母は「お前は一生懸命絵をかきなされや」と言い、当時としては珍しく娘に好きな道を歩ませた。松園も「私を生んだ母は、私の芸術まで生んでくれた」と、好きな絵の道に歩ませてくれた母の理解に感謝している。3人の優れた師にも恵まれてその画才を伸ばし、若くして名声を得た。「女性の美に対する理想や憧れを描き出したい」と言う気持ちで描かれた松園の美人画は、艶麗でありながら気品があり、格調高い。

(写真は 「真鶴」上村松篁)

 松園の代表作には「花がたみ」「焔」「楊貴妃」「序の舞」「鼓の音」など数多いが、今回の展示会では謡曲に取材した「花がたみ」と絶世の美女を柔和な美貌に仕上げた「楊貴妃」を紹介している。「花がたみ」は狂った女性を舞う姿を描いたもので、その表情を描くのに苦労したようだ。「楊貴妃」は美女中の美女と言われた濃艶な楊貴妃を、独特のタッチで描いている。
 松篁(1902〜2001)は松園の長男で、自然への畏敬を愛情に満ちた花鳥画で京都画壇に大きな足跡を残し、代表作に「雁金」「真鶴」などがある。
 淳之は松篁の長男で花鳥画に新しい展開を求め研さんを積んでおり、松伯美術館長でもある。作品には「晴れ間」「檳榔樹」などがある。

「檳榔樹」上村淳之

(写真は 「檳榔樹」上村淳之)


 
松伯の風景(奈良市)  放送 9月20日(火)
 故佐伯勇近畿日本鉄道名誉会長の旧邸敷地内に建てられた松伯美術館は、旧佐伯邸と明るい雰囲気の美術館を取り巻くように大渕池畔に広がる庭の百数十本の松林の中にたたずみ、絵のような眺めを作っている。日本画家・上村3代の絵を観賞するだけだなく、周囲の豊かな自然の雰囲気の中にもひたれる。
 館名の「松伯」の「松」は、上村松園、松篁両画伯の松と美術館の周囲の庭の松にちなみ、「伯」は佐伯氏の伯、画伯の伯、邸内の茶室「伯泉亭」の伯から取られている。

「娘」上村松園

(写真は 「娘」上村松園)

上村松園の縮図帖

 美術館の館名にも引用された大渕池の北側に広がる松林は、街中の喧騒を忘れさせ、くつろぎのひとときを与えてくれる。裏山にある「逍遥の小径」は、緑豊かな庭の散策が楽しめる。小径は美術館周辺を見渡せる小高い丘へと続いており、春には枝垂れ桜やモモ、フジなど色とりどりの花が咲き乱れ、秋には紅葉が美しい。
 美術館の東に隣接する茶室の「伯泉亭」には、裏千家15世宗匠直筆の扁額がかけられており、美術館周辺に和みの雰囲気を醸し出している。

(写真は 上村松園の縮図帖)

 今開かれている松伯美術館の企画展「松園の縮図帖」の縮図帖は、松園が「生命にも等しく大切なもの」と言ったもので、小さな紙に筆で克明に花鳥、山水、人物、風俗、絵巻物、能面など、松園がいいなあと思ったものを貪欲なまでに写し取っている。
 松園が絵を習いはじめたころからの縮図帖数十冊が残っており、この縮図帖を観賞するだけでも楽しい。「苦労して写し取っているので、微妙な線の1本まで覚えている。絵は最終的には筆で描くので、縮図やスケッチは鉛筆を使わずに筆を使った。
これも修業のひとつ」と言った松園の勉強の激しさと真剣さが、この縮図帖に込められている。

伯泉亭

(写真は 伯泉亭)


 
赤膚山元窯(奈良市)  放送 9月21日(水)
 赤膚焼は赤膚山(現在の五条山)の土で作られる陶器で、戦国時代の天正年間(1573〜92)に大和郡山の城主だった豊臣秀長が、尾張の陶工・与九郎を招いて窯を開かせたのが起こり。後に江戸時代前期の茶人・小堀遠州や同じく江戸時代の陶工・野々村仁清(にんせい)が、この地を訪れて指導にあたったと言われ、小堀遠州七窯のひとつにもあげられている。
 赤膚山の土が鉄分を含んでいるため、赤膚焼はほんのりと赤い地肌をしており、そこに釉薬をかけて焼き上げたもので、茶器、花器、壺、皿、置物などがある。乳白色の柔らかな焼き色と、東大寺大仏殿の蓮弁図に由来する奈良絵と呼ばれる絵柄が特徴となっている。

赤膚焼

(写真は 赤膚焼)

赤膚山元窯

 現在の赤膚山元窯は、江戸時代中期の天明年間(1781〜89)に京都から入山した治兵衛が、茶人としても高名な郡山城主・柳沢保光(号・堯山)の意向を受けて再興した窯が受け継がれている。その後、治兵衛が開いた窯は、東と西の二つの窯に分かれ、中間にあった登り窯を共同窯として使っていたため、この窯を「中の窯」と呼ぶようになった。
 赤膚山の三窯は昭和時代初めに「中の窯」を残すのみとなり、元祖・治兵衛の正統を継ぐ窯として「赤膚山元窯」の記念碑が建てられた。これを契機に「中の窯」を改め「赤膚山元窯」と名乗るようになり、「中の窯」の窯元は柳沢堯山候の「堯」の字にちなみ「堯三」を名乗るようになった。

(写真は 赤膚山元窯)

 治兵衛の流れを汲む赤膚山元窯の7代目の窯元・古瀬堯三さんは隠居名・治兵衛を名乗っている。古瀬さんは「伝統の赤膚焼の美を追求する使命をまっとうしたい」と作陶に取り組んでいる。この窯元にある「中の窯」と呼ばれていた登り窯は、訪れた人たちに一般公開され見学できる。
 この地方は古くは赤膚山から菅原にかけて渡来人の土師氏の根拠地で、祭器や埴輪、土器などを作っていたと伝えられている。菅原には奈良時代に建立された喜光寺と言う古刹があり、「新続古今和歌集」に赤膚山を詠んだ歌が2首があることから、この付近は古くから人の往来が多かったことを物語っている。

奈良絵

(写真は 奈良絵)


 
大和文華館(奈良市)  放送 9月22日(木)
 近鉄奈良線学園前駅の南東の丘陵地に建つ大和文華館は、土蔵や城郭をイメージしたなまこ壁、竹林の中庭のある数寄屋風の展示室といった日本的建築の美術館で、昭和35年(1960)近鉄創業50周年記念事業として建設され開館した。約2000点の所蔵品は日本、中国、朝鮮を主とした東洋の古美術、工芸品で、国宝4点、国指定重要文化財31件が含まれている。
 大和文華館は昭和21年(1946)に近鉄の文化事業の一環として美術館構想が発案され、美術品の収集が始まった。私立美術館の多くは個人のコレクションを展示する目的のものが多いが、大和文華館の所蔵品は初めから美術館での展示を目的として集められた。

石造二仏・供養者像

(写真は 石造二仏・供養者像)

金銅如来坐像

 このため収集活動は美術品としての価値観を重視し、観賞的な美術品が中心となった。建物も美術品の美しさを十分発揮できるように留意されており、美術館の周囲は野趣に富んだ自然園の文華苑に囲まれ、四季折々の花に彩られ、小鳥のさえずりが、訪れる人の目と耳を楽しませてくれる。
 2005年10月2日まで「神仏−信仰と造形−」展が開かれており、敬虔な信仰から生み出された宗教美術の「石造二仏・供養者像」「金銅如来座像」「一字蓮台法華経(国宝)」「常暁請来目録(重文)」「竹生島祭礼図」など54点が展示されている。インドで起こった仏教が東アジアへ伝わる過程で、各地の民族と調和しながら華を咲かせた仏教美術の逸品が鑑賞できる。

(写真は 金銅如来坐像)

 「石造二仏・供養者像」は、2〜3世紀のパキスタン・ガンダーラの寺院の壁画装飾の一部と見られ、釈迦ともう1体の仏を中央にして、5人の男女の僧が取り囲む珍しいもので、女性像はギリシャ風の髪形と衣装、男性は古代イラン風の衣装で手に蓮華を持っている。
 国宝の「一字蓮台法華経」は、平安時代に制作された華麗な装飾の経巻。経文の一字、一字を仏身と見なして蓮台に乗せて金輪で囲い、法華経信仰と貴族の洗練された美意識が生み出した経巻である。「金銅如来座像」は5世紀後期の中国・北魏のものと見られている。「竹生島祭礼図」は現存する社殿が描かれているので、江戸時代前期の作と見られ、装飾的な傾向が強い絵で、在野の絵師が描いたものと思われる。

竹生島祭礼図

(写真は 竹生島祭礼図)


 
高山・茶筌の里(生駒市)  放送 9月23日(金)
 奈良県の最北端、生駒市高山町は茶筌の里として知られ、国内で作られる茶筌の約9割を生産している。その発祥は約500年前の室町時代中期。当時、この地の城主だった鷹山頼栄の次男・宗砌(そうぜい)が、近くの称名寺の住職として住んでいた茶の湯の祖・村田珠光と親交を深め、珠光から茶道にふさわしい茶を攪拌する道具の製作を依頼され、苦心の末に作り出したものが茶筌の始まりとなった。
 その後、珠光は京都に移り、後土御門天皇に宗砌の茶筌を見せたところ、天皇はその着想と精巧さに感心して「高穂」の名を与えた。宗砌は感激して茶筅の製作に励み、その技術を鷹山家の秘伝とし、家名を「高穂」に因んで鷹山から高山に改めた。

味削り

(写真は 味削り)

高山茶筌

 すべてが手作業の茶筌作りの技は、高山家の秘伝として代々「一子相伝」として継承されてきた。高山家が京極家に仕官することになり、丹波・宮津へ赴任する時、家臣の主だった者16名に秘伝の茶筌作りと販売を許し、今日まで受け継がれてきた。現在では茶筌作りの秘伝は一般に公開されるようになり、国の伝統的工芸品に指定されている。
 茶筌の里・高山には多くの茶筌師が茶筌作りに励んでいるが、竹茗堂の当主・久保左文さんは、代々続いた茶筌師の家に生まれた。久保さんは国の伝統工芸師の認定を受けていて「日本に茶道がある限り、子々孫々まで茶筌作りを手放すことはありえない」と茶筌師の意気込みを語っている。

(写真は 高山茶筌)

 茶筌の形は茶道の各流派ごとに異なり、その種類は60種以上にのぼり、最近はさらに増えて100種類近くになっているようだ。10工程ほどの茶筌作りは、そのほとんどが小刀とヤスリを用いての作業で、長年の経験によって磨かれた技術と精神力が必要とされる。高山では茶筌のほかに茶道具の茶杓、柄杓、花器、茶合なども作っている。
 高山竹林園には、茶道各流派のさまざまな茶筌が資料館に展示されており、匠の技で微妙な違いに仕上げられた茶筌に驚かされる。園内の茶室は有料で利用できるほか、日曜、祝日には抹茶コーナーも設けられ、日本庭園を眺めながらおいしいお茶がいただける。第1、第3日曜日には茶筌作りの実演も行われ、熟練の技と精神力を要する茶筌作りにふれて見ると、お茶の味わいもまた深くなる。

高山竹林園

(写真は 高山竹林園)


◇あ    し◇
松伯美術館 近鉄奈良線学園前駅からバスで大渕橋下車すぐ。 
赤膚山元窯近鉄奈良線学園前駅からバスで赤膚山下車徒歩3分。 
大和文華館近鉄奈良線学園前駅下車徒歩7分。 
高山茶筌・竹茗堂近鉄奈良線富雄駅からバスで高山八幡宮前下車徒歩5分。
高山竹林園近鉄奈良線富雄駅からバスで上大北下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
松伯美術館 0742−41−6666 
赤膚山元窯0742−45−4517 
大和文華館0742−45−0544 
高山茶筌・竹茗堂0743−78−0034 
高山竹林園0743−79−3344 

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