月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・鷹ガ峯〜西賀茂 

 京都・洛北に鷹ガ峯、鷲ガ峯、天ガ峯の三つの山があり、この一帯は鷹ガ峯と呼ばれ朝廷の狩場だった。三山の麓を流れる紙屋川は平安時代の昔、天皇の綸旨に用いる紙を漉いたと言われる清流。江戸時代に入って人が住みはじめ、丹波、若狭へ通じる周山街道が通り、洛中への京七口のひとつとなったところで、本阿弥光悦がここに芸術村を出現させてから一挙ににぎわった。


 
芸術村の大庭園  放送 10月10日(月)
 京都市の中心部とは風情も異なる洛北の鷹ガ峯。この地に江戸時代初期、本阿弥光悦が一族をあげて移り住み、彼を慕う豪商、芸術家たちが集まって「鷹ガ峯芸術村」が形成された。
 豊臣秀吉が京都の町を外敵から防ぐために築いた御土居(おどい)跡の西側一帯に、着物地メーカーのオーナーが3万5000坪におよぶ「しょうざん日本庭園」を、戦後間もない時期から作りあげた。戦後、消失しようとしていた京都市中の邸宅や茶室を移築し、自然との見事な調和を見せている。ほかに各種のレストランや料亭などもあるが、染織ギャラリーでは着物作りの工程、手描き友禅などの見学ができ、予約しておけば型染友禅の体験もできる。染織工芸館ではしょうざんのオリジナルな商品から京都ならではの土産品を展示、販売している。

しょうざん 光悦芸術村

(写真は しょうざん 光悦芸術村)

型染友禅体験

 大庭園は北庭と南庭にわかれ、北庭には北山台杉と紀州石を贅沢に使い、カエデと梅が巧みに配置されている。北山の美しい台杉の庭をそぞろ歩くことは、一般にはなかなか味わえるものではなく、苔の庭と台杉の茂みについ見とれてしまう。
普通の杉は枝を切り落とし1本の真っすぐな杉に育てるが、台杉は逆に枝を残してそれを大きくするもので、350年から500年以上の歳月をかけて育てられたものもある。1本の台杉から何本もの垂木が取れると言うほどの巨木の台杉もある。
 南庭は紙屋川の西岸に沿って広がり、紙屋川の水が淵を作り、滝を作っており、自然と人工の造形が見事な調和を見せている。

(写真は 型染友禅体験)

 庭園には京都市街地から移築された邸宅が木立の中にたたずんでいる。鈴木松年画伯の山荘だった千寿閣、日本画家・榊原紫峰の書院造り屋敷の紫峰邸、材木商の邸宅だった涌泉閣、西陣織の豪商の山荘にあった酒樽茶室など、それぞれに贅を尽くした名建築や茶室8棟が集められている。
 園内には京料理や中国料理、焼き肉料理などの料亭、レストラン、カフェテラスなど7店があり、お好みの料理が自然豊かな庭を眺めながらいただける。ほかにボウリング場、ビリヤード、夏の屋外プールなどのスポーツゾーン、四季折々の花が楽しめる花園もあり、一日たっぷり費やしても回り切れないほどの大庭園である。

楼蘭

(写真は 楼蘭)


 
正伝寺  放送 10月11日(火)
 洛北・西賀茂の静寂な船山の南麓に建つ臨済宗南禅寺派の正伝寺は、鎌倉時代の文応元年
(1260)に来朝した中国・宋の名僧・兀庵普寧(ごつたんふねい)を開山として、兀庵に師事して「正伝」の額を与えられた東巌慧安(とうがんえあん)が文永10年(1273)に創建した禅寺である。
 創建当時は烏丸今出川にあったが、天台宗の迫害を受けて破壊された後、弘安5年(1282)現在地に再建された。後醍醐天皇の勅願寺、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願所となり隆盛だったが、応仁の乱で焼失するなどの非運にあい堂宇は見る影もなくなった。

獅子の児渡し庭園

(写真は 獅子の児渡し庭園)

血天井

 その後、豊臣秀吉が再興を図ろうとしたが果たせず、江戸時代に入って徳川家康の援助でやっと再建された。この時、南禅寺塔頭の金地院の小方丈を移築したのが現在の方丈(国・重文)で、もともと伏見桃山城の御成御殿の遺構が移築されていたものである。
 方丈各室の障壁画は狩野山楽の筆により、中国杭州西湖の風景が連続的に展開して描かれている。この障壁画は山楽の数少ない作品の中での傑作とされ、美術史上で特筆される存在である。方丈広縁の天井は徳川家康の武将・鳥居彦右衛門が石田三成に攻められ、割腹した際の敷板が用いられた血天井。今も残る血痕の斑点は最近、血液学者の鑑定で血液であることに間違いないと証明された。

(写真は 血天井)

 小堀遠州の作庭と伝えられる白砂を敷きつめた枯山水の方丈庭園は龍安寺の石庭とは対照的。龍安寺が一木一草も使わずに石を配した枯山水に対し、正伝寺は一石も使わずサツキ、ヒメクチナシを主体にした刈り込みが、7・5・3に配されている。
 龍安寺の庭が「虎の児渡し」と称しているのに対し、正伝寺の庭は「獅子の児渡し」と称している。作庭したころはこの付近は森林地帯で、借景を意図していなかったが、今は比叡山が借景となっている。この庭が作庭された当時は石組みを主にした庭が主流で、石をいっさい使わずに庭園美を創出した非凡な才能が高く評価されている。

障壁画(狩野山楽筆)

(写真は 障壁画(狩野山楽筆))


 
伝統の味わい     放送 10月12日(水)
 鷹ガ峯の街道沿いには昔ながらの家構えで、京都ならではの伝統の味を地道に守り続けている老舗が見られる。
そのひとつ「万湯葉」は厳選した国産大豆と北山を源とする井戸水を用い、湯葉鍋から一枚一枚竹串で引き上げて生湯葉を作る。京料理や精進料理、中華料理などいろいろな料理の素材として使われている湯葉は、平安時代に中国から伝えられた。
 殺生を禁じられていた僧侶たちの貴重な蛋白源で、寺院の多い京都ならではの食材として京湯葉が盛んに作られるようになった。生湯葉はそのまま適当な大きさに切ってワサビ醤油、ショウガ醤油、からし醤油など好みの薬味でいただける。また、煮物、鍋物、吸い物などにもよく合う。

万湯葉

(写真は 万湯葉)

京湯葉

 もう一つの老舗「松野醤油」の松野家は、安土桃山時代からこの地に住み、その7代目が御所に仕えるかたわら江戸時代中期の文化2年(1805)に醤油の醸造を始めた。以来、松野醤油は昔の醤油と同様に代々の製法を継承している。今日なお、醸造蔵の中で昔からの手作りに徹して天然の香りと風味を育み、秘伝の醤油、味噌、もろみを生み出している。
 2年の歳月をかけて熟成させ、コクがあり塩分の少ないさしみ醤油、昔ながらの本醸造で作りあげるこいくち醤油、食材に色が着かず持ち味を生かすうすくち醤油は京料理にはかかせない存在。

(写真は 京湯葉)

 また、松野醤油の手作りの「もろみ」もなかなかの人気だ。大麦を炒って砕き、蒸した丹波大豆を混ぜ、種麹を入れて麹を作るところから始まる。
 この麹を塩水に仕込んで自然発酵させ、夏を過ごさせると秋には風味豊かなもろみが生まれる。さらにこのもろみにナス、キュウリ、土ショウガなどの京野菜に、秘伝の下味をつけてもろみと一緒に漬け込む。こうして1年をかけて作りあげられたもろみは、生野菜やキュウリ、セロリ、レタスなどに添えて酒の肴に。また、炊きたてのご飯に乗せていただくのもよい。

松野醤油

(写真は 松野醤油)


 
常照寺  放送 10月13日(木)
 常照寺は江戸時代初めの元和2年(1616)本阿弥光悦が土地を寄進し、その子・光瑳が発願して日蓮宗中興の祖・日乾上人を迎えて開創した。寺が栄えたころは30余棟の堂宇が建ち並び、旧山城六檀林のひとつである僧の学問所・檀林が設けられ、数百人の学僧が学んでいた。
 しかしこの寺は何よりも寛永5年(1628)に吉野門と呼ばれる朱塗りの山門を寄進した島原の名妓・2代目吉野太夫とのゆかりで知られている。吉野太夫は光悦の縁故で日乾上人に帰依し、わずか23歳の時、巨財を投じてこの山門を寄進した。

吉野太夫

(写真は 吉野太夫)

日乾上人像

 吉野太夫は天性の美貌にくわえて和歌、連歌、茶道、書、香道、音曲、囲碁など諸芸に秀でた女性で、その名声は中国にまで響いていたと言う。吉川英治は小説「宮本武蔵」で武蔵に人間が生きてゆくうえの心構えを悟らせる重要人物として彼女を登場させている。
 38歳の若さで病没した吉野太夫は、遺言により日乾上人の開山廟の裏手にある墓地に葬られ、太夫を身請けした豪商・灰屋紹益の墓もある。江戸時代初期の元和年間初めから約10年間に、鷹ガ峯の繁栄の基礎を築いた日乾上人、本阿弥光悦、吉野太夫が相次いで亡くなり、いずれも常照寺に葬られ眠っているのは、信仰で結ばれた絆の強さを感じさせる。

(写真は 日乾上人像)

 また、昭和46年(1971)に歌舞伎俳優・片岡仁左衛門らによって、吉野太夫と灰屋紹益の比翼塚と歌碑が建立され、歌舞伎や演劇でも上演された太夫と紹益の当時のロマンスをしのばせている。
 茶席「遺芳庵」では毎月、吉野太夫をしのぶ茶会が催されており、遺芳庵の丸窓は太夫が好んだことから吉野窓とも呼ばれている。太夫をしのんで植えられた桜が満開になるころの4月第3日曜日には「吉野太夫花供養」があり、島原の太夫道中や野点などが行われる。 境内には春は桜、初夏はサツキ、アジサイ、ハス、秋は紅葉と四季を通じて自然を楽しむことができる寺でもある。

遺芳庵

(写真は 遺芳庵)


 
京見峠  放送 10月14日(金)
 鷹ガ峯から北へ九十九折れの坂道を登ってゆくと、南北朝時代に京にいる足利尊氏を攻めるために南朝の軍が陣を張ったと言う京見峠に出る。ここはかつて丹波や若狭からさまざまな物資を、京の都へ運ぶ人たちが通った街道でもある。
 京見峠の名の通り、峠に立つと比叡山や東山の峰々、そして京の町が一望できる。
京見峠から京都市街の素晴らしい夜景を望むことができる。京都市街地から車で簡単に登ってこられるアクセスがよさから、デートコースのスポットとして親しまれている。

京見峠茶屋

(写真は 京見峠茶屋)

京見峠からの眺望

 自動車がない時代に一歩、一歩と歩を進めた昔の旅人は、この峠からの眺めにホッとひと息つき、峠の茶店での一服の茶で疲れを癒したことであろう。
 峠にある「京見峠茶屋」は、今もかままどや囲炉裏など農家の造りをそのまま生かした昔ながらの茶屋で、渋茶とひなびた甘味、そばなど軽食が足の疲れを癒してくれる。特にこの茶屋の手作りぜんざいはお勧めだと多くの人が言う。

(写真は 京見峠からの眺望)

 京都市側から登って京見峠を越えて少し下ったところの三差路を右に進むと氷室の里に出る。延喜式にはこのあたりに栗栖野氷室をはじめ愛宕氷室など五つの氷室があったことが記され、冬からここに貯えておいた氷が、夏に朝廷へ献上されていた。
 氷室の里にはこの地域を治めていた清原氏が勧請したとされる氷室神社がある。仁徳天皇時代に氷を献上したと伝えられる稲置大山主神を祀っており、(こけら)葺きの拝殿は後水尾天皇の中宮・東福門院(徳川秀忠の娘)の御殿内にあった鎮守の建物を移築したと言う。

氷室神社

(写真は 氷室神社)


◇あ    し◇
しょうざん・光悦芸術村京都市バスで土天井町下車すぐ。 
正伝寺京都市バスで神光院前下車徒歩15分。 
万湯葉京都市バスで鷹峯上ノ町下車徒歩すぐ。 
松野醤油京都市バスで土天井下車徒歩すぐ。 
常照寺京都市バスで鷹ガ峯源光庵前下車徒歩3分。 
京見峠茶屋京都市バス源光庵下車徒歩約1時間。 
◇問い合わせ先◇
しょうざん・光悦芸術村075−491−5101 
正伝寺075−491−3259 
万湯葉075−491−2181 
松野醤油075−492−2984 
常照寺075−492−6775 
京見峠茶屋075−491−6710 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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