月〜金曜日 18時54分〜19時00分


枚方市、交野市 

 枚方市と言えば菊人形と言われるほど、関西の人たちに親しまれてきた「ひらかた大菊人形」が
2005年秋限りで幕を閉じる。「関西からまたひとつ、名物が消える」と惜しむ人も多い。今回は
95年間続いた「ひらかた大菊人形」の歴史をひも解き、枚方市の南に隣接する交野市の古社寺と地酒の蔵元を訪ねた。


 
ひらかた大菊人形(枚方市)  放送 10月17日(月)
 関西の秋の風物詩「ひらかた大菊人形」は、明治43年(1910)に京阪電鉄が乗客誘致の手段として、寝屋川市の香里遊園地で開催したのが始まりで、2年後の大正元年(1912)からひらかたパークに会場が移された。
 この「ひらかた大菊人形」が、2005年秋をもって95年におよぶ歴史に幕を閉じる。長い歴史を持ち、日本の園芸文化の粋を集めた菊人形展の閉幕を惜しむ声が多いが、菊人形を菊の花で飾る菊師、その菊を栽培する人たちの高齢化と後継者不足のために、現在のような規模の菊人形展を開催することが困難になった。こうしたことから12月4日まで開かれる2005年の「ひらかた大菊人形」が最後の菊人形展になる。

第二場面 平家の隆盛

(写真は 第二場面 平家の隆盛)

第三場面 五条大橋

 菊人形は江戸時代末期の文化年間(1804〜
18)に江戸・麻布狸穴や巣鴨の植木屋が、黄菊や白菊を富士山や二見浦、帆掛け船、虎、鶴などの形に仕上げる“造形菊”が起こり。その後、巣鴨の霊感院で日蓮の「龍の口の御難」とか「蒙古襲来」などに菊人形が登場した。さらに安政3年(1856)ごろから団子坂(現東京都文京区)で、歌舞伎の場面を菊人形にしたものが人気を呼び、全国的に有名になった。
 明治時代にはいり団子坂の菊人形はますます盛んになり、その盛況ぶりを夏目漱石が「三四郎」に、森鴎外が「青年」に書いており、外国人も菊人形に美しさを母国に知らせていた。

(写真は 第三場面 五条大橋)

 明治42年(1909)に完成した両国国技館で、完成記念に本格的な菊人形展「忠臣蔵」が開かれた。これによって菊人形が、菊師、人形師、大道具師らの専門家たちによる総合芸術としての地位を確立した。両国国技館の菊人形展を成功させた菊人形の菊師たちが名古屋出身だったので、名古屋でも菊人形展が盛んになり、その後、全国各地で開かれるようにななった。
 両国国技館での菊人形展の翌年、京阪電鉄が第1回目の菊人形展を開催し、その後、毎年開かれる「ひらかた大菊人形」として定着、長い間、多くの人びとに親しまれてきた。平成11年(1999)にはアメリカでも菊人形展を開き、その芸術性は高く評価されていたが、季節労働的な菊師の労働環境から後継者不足となり、「ひらかた大菊人形」は幕を閉じることになった。

第六場面 夢の都「福原」

(写真は 第六場面 夢の都「福原」)


 
菊師の技(枚方市)  放送 10月18日(火)
 菊人形展は人形菊の栽培から始まり、人形師、菊師、大道具師、小道具師、背景師ら、多くの専門職の連携作業で創出される総合芸術と言える。一体の菊人形は頭(かしら)や手足などを作る人形師と、骨格になる胴殻(どうがら)を作って菊を飾りつける菊師によって、あの艶やかな姿ができあがる。江戸時代末期に起こった菊人形以来、その製法は100年以上変わっていない。
 こうした技術を完全に身につけるには10年以上かかると言われ、名人の域に達した菊師は全国に数少ない。菊師のほとんどが高齢で、菊人形展開催中は目が離せない重労働に耐えるのも大変である。「ひらかた大菊人形」の閉幕は、菊師らの後継者不足が引き金となった。

胴殻

(写真は 胴殻)

根巻き

 菊人形に使用される菊は小ぶりで、茎がよくしなる専用の「人形菊」と言う品種。菊師はその年の菊人形展のテーマに合わせた等身大の人形作りを進める。今年の「ひらかた大菊人形」は「義経」なので、義経ほか弁慶、静御前ら多くの人形が作られた。まず、人形の骨格が3cm角の木材で作られ、その骨格に竹ひごを芯にしてワラで包み、糸で巻いた巻きワラで人形の形の胴殻を作り上げる。
 菊を根のついたまま2、3株づつまとめて水苔で包み、い草かワラで根巻きをした「玉」を作る。この玉を花を下に向けて胴殻に挿し込み、茎を180度に曲げて上を向けて“菊の衣装”にしてゆく。

(写真は 根巻き)

 菊の茎を曲げることよって花が重ならず隙間もできず、滑らかな1枚の生地のように仕上げるには高度な技術を要する。菊を折らないように180度曲げるだけでもなかなかの技術が必要で、菊の衣装をつけた状態が、等身大になるよう、ひと回り小さな胴殻を作るのがコツ。菊人形の菊がしおれないように水をやるのも重要な仕事で、これらすべてが菊師の仕事になる。
 一方、菊人形の頭や手足を作る人形師は、テーマの主人公に似た頭を粘土で作って石膏で型を取る。前頭部と後頭部に分割して型の内側に和紙を何枚も張り、乾燥してからはがす。はがした前頭部、後頭部を合わせ、義眼を入れて胡粉(ごふん)を塗り磨き上げて眉や口を描き完成。この人形師も長年の経験と技が決め手となる仕事で、急ごしらえの人形師では務まらない。

第九場面 静の舞

(写真は 第九場面 静の舞)


 
磐船神社(交野市)  放送 10月19日(水)
 交野市を南北に流れる天の川の上流にある磐船神社の御神体は、高さ12m、横18mもある船形の巨岩「天磐船(あめのいわふね)」。祭神の饒速日命(にぎはやひのみこと)は天照大神の孫で、記紀などによれば饒速日命が「大和の国に入ろうと、天磐船に乗り、天翔てこの地に降った」と記されている。
 饒速日命はこの地を治め、その子孫が大和朝廷の有力豪族・物部氏となり、物部氏の祖先神として崇められていた。だが、わが国に伝来した仏教をめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が争い、物部氏は敗れて滅亡、磐船神社はその後、山岳仏教の影響を受けて生駒山系の修験道の一大行場に変貌した。

磐舟神社

(写真は 磐舟神社)

岩窟

 修験道の行場となったことなどから境内には神仏習合の形が多く残っており、今でも修験道の行者が修行のために訪れている。御神体のそばにある巨岩には、天の川に面して大日如来、観音菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩の4体の仏像が彫られ、川を隔てて拝むようになっている。
 拝殿に覆いかぶさるように迫る御神体の天の磐船の巨岩は、大坂城築城の際、加藤清正が運び出そうとしたが果たせず、岩の上部に「加藤肥後守清正」と刻んで断念したと言われている。その巨岩の下には岩窟が広がっており、多くの巨石が微妙なバランスを保ちながら重なり合っている。

(写真は 岩窟)

 その岩窟内を「白の浄衣(じょうえ)」を身につけて入り、航海の安全を祈願する慣わしがある。また岩窟内をくぐることは胎内に入ることを意味し、窟内から出た時は新たに生まれ変わったことになる。岩と岩との狭い隙間を抜けてゆく「胎内くぐり」はさすがに緊張を強いられ、探検気分を味わうこともできる。
 磐船神社近くの「府民の森ほしだ園地」には、人道吊り橋としてはわが国で最大級の全長280m、高さ50mの「星のブランコ」やロッククライミングが楽しめる高さ16.5mの「クライミングウオール」などがあり、磐船神社参拝と組み合わせたハイキングで体力作りもできる。

胎内くぐり

(写真は 胎内くぐり)


 
むくね村の地酒(交野市)  放送 10月20日(木)
 交野市を流れる天の川の清流とその流域の肥沃な土壌の交野が原は、弥生時代から農耕文化が栄えていた。稲作は飛鳥時代の大化の改新による条里制の実施で一段と進み、良質の米が獲れる米どころとして発展してきた。その良き米と清らかな水に恵まれた交野の村々で、江戸時代には多くの造り酒屋が生まれた。
 その中のひとつ、森地区の大門酒造は江戸時代末期の文政9年(1826)創業で、初代・酒屋半左衛門の名前から「酒半」の屋号で親しまれてきた。地酒「むくね残月」はこの地の古名「無垢根村」にちなんでつけられた。地酒はその土地で収穫された米とその土地で湧き出る清水から生まれ「いなかざけ」とも呼ばれていた。

酒半 大門酒造

(写真は 酒半 大門酒造)

交野山 清水が谷

 地酒はそれぞれの土地にしっかりと根を下ろし、その地方の風土、文化を吸収し、土地の人びとに愛される酒である。酒半も交野の地でこの鉄則を守り地酒造りを続けてきた。だが、近代化の波はこの交野の地にも押し寄せて農地の市街化が進み、昭和30年代以降は地元産米での酒造りが困難になった。
 やむを得ず近県から酒米を求めて酒作りを続けながら、農家を1軒、1軒回り酒米の栽培を依頼してきた。こうした努力が農家の協力につながり、平成16年(2004)には酒造好適米「雄町」の栽培、収穫ができ、生粋の交野の地酒を甦らせることができた。

(写真は 交野山 清水が谷)

 交野が原は清少納言が「枕草子」の中で「野はかた野」と讚えたところ。平安時代には「交野の御野」と呼ばれ、京の公達たちが狩や花見を楽しみ、自然に親しんで詩歌などに興じたところだった。
 酒半の6代目当主・大門康剛さんが、こうした雅な雰囲気を大切にしようと誕生させたのが無垢根亭。酒半の仕込み蔵を改装して「酒に酔い、人に酔い、夢に酔う」をテーマに、出会いの場を提供しようと平成10年(1998)に開店した。酒半の地酒と旬の料理がいただけるほか、コンサートや寄席、展覧会などのイベントも開かれ、酒好きの人たちのコミュニケーションの輪が広がっている。

無垢根亭

(写真は 無垢根亭)


 
獅子窟寺(交野市)  放送 10月21日(金)
 交野市私市の東、普見山(ふみさん・標高319m)の中腹にある獅子窟寺(ししくつじ)は、今から1300年前の昔、飛鳥時代の文武天皇のころに役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、奈良時代にはいって聖武天皇の勅願によって行基が堂宇を建立したと伝わる古刹。平安時代には弘法大師・空海が獅子窟で修行し、境内に残る井戸は水の不便をなくすために大師が掘ったと伝えられ、水が枯れたことがないと言う。
 一時は全山に12の塔頭があって栄えたが、大坂夏の陣で豊臣方への加勢を獅子窟寺が断ったために全山ことごとく焼かれ、寛永年間(1624〜44)に光影律師が中興した。

本尊 薬師如来像

(写真は 本尊 薬師如来像)

天福岩

 境内からは近くの交野平野、淀川河岸、遠くは大阪市街地、大阪城、淡路島、明石海峡大橋まで望める景勝の地で、交野八景のひとつ「獅子窟の青嵐」とされている。
 国宝の本尊・薬師如来座像は、寺の創立時期を物語る平安時代初期の作でカヤの一木造り。この薬師如来像は行基が一刀三礼し、3年3カ月を費やして刻んだと言われ、授乳の霊験があらたかと伝えられている。像高92cmのこの像は、相貌の眉、切れ目、唇などに慈愛が満ちたふくよかな顔、鋭い翻波(ほんぱ)様式の衣紋が特徴で、平安時代初期の弘仁年間(810〜24)の代表作とされている。

(写真は 天福岩)

 鎌倉時代後期に亀山上皇が、病気平癒を獅子窟寺の薬師如来像に祈願して全快した礼に、荒廃していた寺を再建した。嘉元3年(1305)に崩御された上皇に対し、その徳をしのんで仁王門跡を少しくだった所に上皇と皇后の供養塔の王の墓がある。
 普見山は全山花崗岩で、あちこちに怪石、巨岩が見られる。獅子の吼(ほ)える口に似た獅子窟は寺の名にもなっているもので、薄暗い窟内の岩洞くぐりや奇岩、巨石の岩場巡りなど、スリルに富んだポイントがハイカーたちを楽しませている。

獅子窟

(写真は 獅子窟)


◇あ    し◇
ひらかたパーク京阪電鉄枚方公園駅下車徒歩5分。 
磐船神社京阪電鉄交野線私市駅からバスで磐船神社前下車すぐ。 
京阪電鉄交野線私市駅下車徒歩2時間。
大門酒造JR片町線河内磐船駅下車徒歩5分。 
京阪電鉄交野線河内森駅下車徒歩6分。
獅子窟寺JR片町線河内磐船駅、京阪電鉄交野線河内森駅下車徒歩40分。
◇問い合わせ先◇
ひらかたパーク072−844−3475 
磐船神社072−891−2125 
大門酒造072−891−0353 
獅子窟寺072−891−6693 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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