月〜金曜日 18時54分〜19時00分


橿原市・大和三山 

 藤原宮を守るかのように北に耳成山(139.7m)、南西に畝傍山(199.2m)、南東に香久山
(152.4m)が位置する大和三山は、今年7月、国の名勝に指定された。飛鳥時代から天皇や宮廷人、万葉歌人らが歌に詠んだ大和三山は、古代から神聖な山として崇められ、最近は万葉ロマンを駆り立てる山として、観光客らの人気を集めている。


 
耳成山  放送 11月7日(月)
 奈良盆地に美しい山容を浮かび上がらせている耳成山(みみなしやま)、香久山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)の大和三山。万葉集にある「三山の歌」は「香久山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」と詠んでいる。
 耳成と香久の二人の男が、一人の女・畝傍をめぐって相争うと見立てた中大兄皇子(後の天智天皇)の歌として有名だが、中大兄皇子自身も弟の大海人皇子(後の天武天皇)と一人の女性・額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐって争った事実がある。

耳成山

(写真は 耳成山)

耳成山口神社

 中大兄皇子は「三山の歌」で自分をどの山に例えたのだろうか。また、この歌を大海人皇子はどのように受け止めたのだろうか。こうしたことから三山の歌は、万葉集の中でもいろいろと取りざたされたり、その解釈をめぐって議論された歌である。
 大和三山はいずれも標高200m以下の低い山だがその姿は美しい。耳成山と畝傍山は死火山、香久山は多武峯山系からの尾根が浸食されて残った山。ことに最も低い耳成山はたおやかな感じで、古代から人びとは神の山として崇めており、藤原宮の北方を鎮める山とされた。耳成山は耳梨山、梔子(くちなし)山とも呼ばれ、くちなしはみみなしに引っかけたと言われ、山にはクチナシの木が多い。

(写真は 耳成山口神社)

 山腹に鎮座する耳成山口神社は、地元の人たちの雨乞いの信仰を受けていた。明治時代以前は天神社と呼ばれていた。大和盆地のどこからでも見える美しい姿の耳成山は、古代から神が座す山として敬われ、人びとは麓から拝んでいたのであろう。
 神社には雨乞いを祈願した絵馬が奉納されており、平安時代には雨乞の神事が行われたことが記録に残っている。大和盆地は大きな川がなく、近年までは農業用水の確保が課題であった。雨が降らず旱魃(かんばつ)になると農民たちは、宮司を先頭に松明をかざして「雨たんもれ、雨たんもれ」と神社へ登って祈願した。神社への参道の「火振り坂」の名はこの雨乞い祈願の慣わしに由来している。

雨乞いの絵馬

(写真は 雨乞いの絵馬)


 
藤原宮跡  放送 11月8日(火)
 壬申の乱(672)を制して皇位に就いた天武天皇は、安定した中央集権国家を実現するため、次々と新しい政策を打ち出した。さらにこの中央集権国家の象徴として飛鳥の北に新しい都・藤原京を築こうとした。
 しかし新都の実現を見ないで朱雀元年(686)に天武天皇は崩御し、その妃が持統天皇となって夫の遺志を継いで都を造営、持統8年(694)に藤原京遷都を実現した。和銅3年(710)までの16年間、持統、文武、元明の三代の天皇の都となり、この間に大宝律令を発布するなど律令体制を固めていった。この都は中国の唐の都城を模し、都市計画に基づいて建設され、わが国で初めての条坊制を敷き、道路は碁盤の目状に作られた。

醍醐町環濠跡

(写真は 醍醐町環濠跡)

藤原宮跡

 藤原京の正確な位置と規模は長く判明しなかったが、奈良文化財研究所の発掘調査で京域はかつての観測よりもはるかに広く、東西5.3km、南北
4.8kmにもおよんでいた。平城京、平安京より大きく、大和三山をすっぽりと収めるものであることがわかった。また、大極殿、朝堂院、内裏などがあった藤原宮は、京域の中央北端に配置されていた平城宮、平安宮と異なり、京域の中央に配されていたことも発掘調査が進むにつれて明らかになった。
 国の特別史跡に指定されている藤原京からは木簡、樋、板人形、櫛のほかに弥生式土器、須恵器、土師器など多数が出土し、藤原京の中央集権制度や都の全容、その背景を裏付ける資料となっている。

(写真は 藤原宮跡)

 藤原京跡からの出土品は、藤原京の全体像を紹介したパネルや映像などとともに、藤原京の東にあたる奈良文化財研究所資料室に展示されている。
 持統天皇の後を継いだ孫の文武天皇は若くして没し、次に即位した持統帝の妹で文武帝の母・元明天皇は、平城京への遷都を断行した。藤原京はわずか16年で放棄され、宮跡は今はのどかな緑の野となっている。藤原京がなぜ短命の都だったかは謎の部分が多い。都市計画の失敗、都城のモデルとした唐の長安とは異なっていたからとか、頭角を現してきた藤原不比等の政治的な思惑がからんでいたなどの諸説がある。

奈良文化財研究所

(写真は 奈良文化財研究所)


 
香久山  放送 11月9日(水)
 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天香久山」。持統天皇が藤原宮から望んで詠んだ歌で名高い香久山(かぐやま)は、香山、賀久山とも書く。 耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)が火山によってできた独立峰であるのに対し、香久山は多武峯方面から続く山系の一部が浸食によって生まれた山で、三山の中では形が最もわかりにくい姿をしている。
 大和の山の中で「天の」と美称がつくのはこの山だけで、天の香久山は天から降ってきた神聖な山とされていた。古来から国の変事、重要な儀式に関わりを持つ山とされ、大和三山の中でもとりわけ尊崇を集めていた。舒明天皇はここで雄大な国見をしてその歌を詠んでいる。

香久山

(写真は 香久山)

天香山神社

 舒明天皇が国見をした山と言われるだけに、中腹からは藤原宮跡、大和国原、耳成山、畝傍山、二上山方面までが見渡せる。山頂には国常立(くにとこたち)神社、山腹には天香久山神社、畝尾都多本(うねびつたもと)神社、天照大神が隠れた岩穴を神体とする天岩戸神社などが鎮座する。
 香久山には神武天皇の東征に関わる伝承もある。京都市の清水焼で有名な五条坂にある陶器神社の祭神は、陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)。椎根津彦命が神武天皇の臣下として、天皇が東征で大和にはいった時に「大和の賊を平定するには、天香久山の土で祭祀土器を造り祈願せよ」との夢のお告げがあった。神武天皇は椎根津彦命に「天香久山の土を取ってくるように」と命じた。

(写真は 天香山神社)

 椎根津彦命は敵中を通り抜け、天香久山まで行きこの土を持ち帰り祭祀土器を作らせた。このことから陶祖神とされ陶芸家らから崇められている。後世になって椎根津彦命は香久山のどのあたりの土を持って行ったのかが議論された。日本書紀の記述からは山頂の国常立神社付近の土と見られており、今もこの付近では粘土質の土が採取できる。
 その山容からはあまり感動を与えない香久山だが、神話時代からの伝承が残る神秘と謎に包まれた山に魅かれて香久山を訪れる人が多い。今は東側中腹に奈良県立万葉の森公園が設けられ、万葉植物などが植えられ訪れる人たちを楽しませている。

畝尾都多本神社

(写真は 畝尾都多本神社)


 
本薬師寺跡  放送 11月10日(木)
 大和三山の圏内に藤原京の栄華をしのばせるものはわずかしか残っていない。
香久山南麓と飛鳥川の中間点にこじんまりと広がる草原に紀寺跡がある。せん仏や軒瓦、礎石などが出土したが、寺の姿は謎のままである。
 ここから西へ飛鳥川を越えて畝傍山(うねびやま)へ向かう道の傍らの民家の裏に巨大な礎石群が見られる。天武天皇9年(680)天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のために薬師寺建立を発願し、創建に着手したが完成を見ずに天武天皇は崩御した。持統天皇がその遺志を継ぎ、発願から17年後の文武天皇2年(698)に完成をした薬師寺の跡はここである。

紀寺跡

(写真は 紀寺跡)

本薬師寺跡

 当時は飛鳥大寺のひとつに数えられ藤原京の右京にあり、左京の大官大寺と対峙する位置にあった。ところが和銅3年(710)の平城遷都に伴って薬師寺も平城京西の京に移され、ここは本(もと)薬師寺(国指定特別史跡)と呼ばれるようになった。
 周囲はは水田が広がり、夏には休耕田にホテイアオイの花が咲き乱れている静かな田園地帯にある。北に耳成山(みみなしやま)、東に香久山(かぐやま)、西に畝傍山が望め、藤原京時代の往時をしのぶことができる。寺跡には金堂の巨大な礎石や東西の両塔の土檀と東塔の塔心礎が残るだけで、史跡めぐりの人たちもうっかりすると見過ごしてしまうほどだ。

(写真は 本薬師寺跡)

 本薬師寺跡に残る金堂の礎石や東西両塔の土檀から伽藍の配置や規模は、平城京西の京の薬師寺とほぼ同一のものであったと考えられる。また、藤原京の京内に大寺が計画的に配置されたのは、初めて条坊制を敷いた計画的な都市づくりの一端と見ることができる。この寺は藤原京が完成したのと同じ時期に建立されたので、藤原薬師寺とも呼ばれていた。
 なお最近になって平城京西の京の薬師寺への移転説に対し、平城京の薬師寺と本薬師寺は別々に建立されたとの説も唱えられるようになっている。

東塔跡

(写真は 東塔跡)


 
畝傍山  放送 11月11日(金)
 標高199.2mの畝傍山(うねびやま)は三山の中で最も高い。その山の姿はみる位置によって違うが、藤原宮跡付近からの姿が一番美しい。
 その南東麓に橿原神宮が鎮座している。日本書紀によると第一代の天皇・神武天皇は、紀元前660年ごろ畝傍山の麓で即位し、橿原宮を造営したと言う。この記述に基づいて明治23年(1890)橿原宮の跡地に創建されたのが橿原神宮で、神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っている。17世紀ごろから小さな祠があったと言われる所に、社殿造営に当たって明治天皇が京都御所の賢所と神嘉殿を下賜され、本殿などが造営された。

深田池

(写真は 深田池)

橿原神社

 50万平方mの広大な神域を持っており、昭和15年(1940)の紀元2600年を祝賀して、全国から延べ120万人の建国奉仕隊の人びとの勤労奉仕によって、15万本のシラカシ、クス、ウバメガシ、松などの献木が植樹された。これらの樹木が今は大きく育ち橿原神宮の森を形成している。この橿原神宮外苑には奈良県立橿原球場、陸上競技場、体育館などのスポーツ施設があり、公式戦などのスポーツが行われている。
 畝傍山の東北麓には神武天皇陵(畝傍山東北陵)があり、掃き清められた玉砂利の参道が御陵に続いている。御陵は直径100m、高さ5.5mの八陵円形で、広い植え込みと柵、周濠が巡らされている。

(写真は 橿原神社)

 畝傍山の東麓と西麓には古墳が多い。神武天皇陵のほかに綏靖(すいぜい)天皇陵、イトクの森古墳、西麓には懿徳(いとく)天皇陵、安寧(あんねい)天皇陵、スイセン塚古墳などが点在している。またその周辺には久米、忌部、曽我など古代氏族と同じ地名の集落があり、古墳はこれらの豪族との関わりを示している。
 広大な神域の北神門を出て少し進むと畝傍山登山口があり、ゆるやかな登り坂が始まる。登山道周辺はアラカシ、クス、クリなどの樹木がおおい茂る原生林状の植生を見せている。山頂からは展望が開け大和盆地が一望でき、耳成山(みみなしやま)の美しく姿も眺められる。畝傍山は散歩がてらに登れる手ごろな山として、近隣の人たちには親しまれており、体力維持、健康増進のために毎日のように登っている人が多い。

畝傍山登山口

(写真は 畝傍山登山口)


◇あ    し◇
耳成山近鉄大阪線耳成駅下車徒歩15分。 
香久山近鉄大阪線耳成駅下車徒歩30分。 
JR桜井線香久山駅下車徒歩25分。
畝傍山近鉄橿原線畝傍御陵前駅徒歩45分。 
近鉄橿原神宮前駅下車徒歩40分。
藤原宮跡近鉄大阪線耳成駅下車徒歩30分。 
JR桜井線畝傍駅下車徒歩25分。
近鉄橿原線畝傍御陵前駅、八木西口駅下車徒歩30分。
奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
近鉄大阪線耳成駅下車徒歩30分。
近鉄橿原線畝傍御陵前駅、八木西口駅下車徒歩35分。
JR桜井線畝傍駅下車徒歩30分。
本薬師寺跡近鉄橿原線畝傍御陵前駅徒歩10分。 
橿原神宮近鉄橿原神宮前駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
橿原市役所商工観光課0744−22−4001 
橿原市観光協会0744−28−0201 
奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部
0744−24−1122
橿原神宮0744−22−3271 

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