月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・南座 

南座の「吉例顔見世興行」の「まねき」に「坂田藤十郎」の名が231年ぶりに登場する。人間国宝の三世・中村鴈治郎が坂田藤十郎を襲名し、この顔見世興行で坂田藤十郎の襲名披露の演技をする。歌舞伎ファンには見逃せない興業で、藤十郎ブームが起こりそうだ。


 
歌舞伎発祥の地  放送 11月21日(月)
 「かぶき」は「歌(うた)」「舞(まい)」「伎(わざ)」と書いて「かぶき」と読ませているが、これは後世に漢学者が漢字を当てはめたものとされている。江戸時代には単に「かぶき」と表現していた。その「かぶき」とは、そもそも織豊時代の天正年間(1573〜92)ごろに流行した俗語「傾(かぶ)く」が変化した言葉である。「かぶく」とは人の目を引く異様な身なり、突飛な振る舞いをする「かぶき者」を指しており、当時はかぶき者の中に暴れ者、ならず者がおり、犯罪者として捕らえられたとの記録もある。
 慶長8年(1603)四条河原で出雲大社の巫女であったと言われる阿国(おくに)が、若い女性を中心とした一座を率いて踊りの興業をしたのが、歌舞伎の始まりとされている。

阿国歌舞伎図屏風(京都国立博物館蔵)

(写真は 阿国歌舞伎図屏風
      (京都国立博物館蔵))

阿国歌舞伎草紙(大和文華館蔵)

 阿国たちは派手な男の衣装をまとい、茶屋の女たちと戯れる様を演じたり、踊り子たちが群をなしてエロティックな踊りを見せたりして、都の人たちに絶大な人気を博した。この芸能は「かぶき踊り」「阿国かぶき」と呼ばれるようになり、出雲の阿国は歌舞伎の元祖となった。
 阿国が演じたものは、室町時代末期に流行したきらびやかな衣装を身に着け、飾り物を中心に踊る集団舞踊の「風流」と呼ばれた芸能を舞台化したものと言われている。風流の中には念仏を歌のように歌いながら踊るものがあり、阿国は初めこの念仏踊りを演じ、その後かぶき踊りに変化していったと言われている。

(写真は 阿国歌舞伎草紙(大和文華館蔵))

 阿国歌舞伎に端を発した歌舞伎はその後、江戸や京、大坂で流行して爆発的な人気を得るようになった。しかし、演じる姿態がエスカレートして、風俗上の問題で徳川幕府から何度か上演禁止になるなど、紆余曲折を経て、役者の演劇表現中心の今日の歌舞伎へと発展していった。
 阿国が初めて歌舞伎を演じた四条河原付近には、江戸時代初めの元和年間(1615〜24)には、公認された歌舞伎小屋が七座あった。その後、火事で焼失したり、廃座になるなどして現在まで続いているのは南座だけになった。現在の南座は関西歌舞伎・演劇の殿堂としての伝統を持っており、その楽屋口に「阿国歌舞伎発祥地」の碑が立っている。

南座

(写真は 南座)


 
南座の意匠  放送 11月22日(火)
 出雲の阿国が京の都の四条河原で演じた踊りが歌舞伎の起こりとなり、その四条河原に江戸時代初期の元和年間(1615〜24)に現在の南座を含む七つの歌舞伎小屋が公認された。その伝統を今に伝えている唯一の劇場は南座だけになったが、その南座は明治39年(1906)以来、松竹株式会社が経営に当たっている。
 この京都で最古の劇場が、桃山風破風造りの現在の意匠で新築されたのは昭和4年(1929)のことで、さらに平成3年(1991)京都の街にふさわしい外観をそのまま残し、最新設備の近代劇場に内部が全面改修された。

櫓

(写真は 櫓)

正面ロビー

 近代劇場に生まれ変わった南座のロビーに足を踏み入れた瞬間から観客は、その華やかな雰囲気に上演される芝居への期待をいやがうえにも高められる。
さらに劇場内の照明器具や調度の細部の装飾に目を凝らせば、その見事さに驚かされる。
 照明器具は日本の古典芸能を演じる劇場にふさわしいデザインの器具が使われている。シャンデリア風の器具にも場内の雰囲気にマッチするように配慮されており、花道には提灯を使った照明が施され、歌舞伎を演ずるのにふさわしい雰囲気をかもし出している。

(写真は 正面ロビー)

 場内の灰皿、くず入れ、玄関のもぎり台にまで高級な調度品が配置されており、階段手すりの擬宝珠(ぎぼし)も日本独特のものと言える。さらに2階、3階客席のてすりや場内いたる所の柱などの細部にまで気を配り、凝ったデザインの飾り金具が取りつけられている。
 客席のフロアとイスは同色の素材で統一されており、落ち着いた雰囲気の中で観劇することができる。ロビーに配置されているチェアーは、すべてイタリアの家具デザイナーがデザインした高級ななめし皮を張ったもので、観劇で満たされた感動の余韻を壊さないような配慮がいたる所にみえる。

客席

(写真は 客席)


 
桧舞台の裏側  放送 11月23日(水)
 役者が歌舞伎や芝居を演じる舞台にはさまざまな装置や仕掛けがあり、これらを巧みに活用することで演劇の効果があがり、観劇の趣向もグンと高まってくる。
 歌舞伎の舞台で日本独特のものとされたのが「花道」と「廻り舞台」である。花道は江戸時代初めの元禄年間(1688〜1704)から享保年間
(1716〜36)にかけて設けられたようだ。元は観客がひいきの役者に祝儀の金銭や品物を贈る通路となっていたものが、やがて花道に発展したと言われている。

花道

(写真は 花道)

廻り舞台

 この花道が舞台の一部として役者の登場、退場の場であると同時に、芝居の中での通路や川、海の表現の場として用いられている。歌舞伎役者が六方の演技をするのも花道である。花道の舞台の付け際から三分、花道の出入り口の揚幕の所から七分の所を七三と呼び、この位置で演技をすることが多く、花道は歌舞伎の演出効果を高めることに大いに役立っている。
 廻り舞台は暗転なしでスムーズに舞台転換ができるばかりでなく、同じ時間に異なる場所で起こったことを見せる演出ができ、幕間の時間短縮以外にも演出効果をあげるのに役立っている。

(写真は 廻り舞台)

 大掛かりな装置として「せり」がある。このせりを使って役者や大道具を舞台に上げ下げでき、せりをうまく使うと一段とスペクタクルな舞台効果が得られる。
役者が特に注目を浴びる花道の七三に設けられているせりに似た装置が「すっぽん」と呼ばれる。亡霊や妖精、忍者など超人間的な登場人物の出入りや、井戸や池に飛び込むシーンなどに使われる。
 廻り舞台やせり、すっぽんなどの舞台装置は、昔は何人もの人たちの人力で動かしていたが、今はボタンひとつで動かすことができるようになり、奈落での作業も楽になった。

せり

(写真は せり)


 
観劇のお楽しみ  放送 11月24日(木)
 「芝居を見物しながらおいしいものをいただいて…」とこれを楽しみにしている人も結構多い。そもそも昔は芝居見物や相撲見物では、芝居や相撲を見ながら飲食するのが慣わしになっていたようだ。今の大相撲でも桟敷席で、飲食する風景が見られる。
 日本料理の「花吉兆」は南座内にも出店があり、豪華な松花堂弁当を出している。
この弁当を客席や桟敷席へ持ち込んでの芝居見物は、眼福と口福がともども味わえる趣向である。

花吉兆の弁当

(写真は 花吉兆の弁当)

にしんそば (松葉)

 四条大橋から南座へ向かって行くと、芝居の看板より先に目に入ってくるのが「にしんぞば松葉」の看板。江戸時代後期の文久元年(1861)創業の老舗で、この店の看板メニューの「にしんそば」は、この店の二代目・松野与三吉が明治15年(1882)に発案したもので、以来120余年にわたり京を代表する味として親しまれてきた京名物。
 南座での芝居見物の行き帰りにこの「にしんぞば」を楽しむ人が多い。にしんそばで腹ごしらえをする役者さんもあり、楽屋への出前も多いと言う。

(写真は にしんそば (松葉))

 南座の隣に軒を並べる「祇園饅頭」も江戸時代中期の文政2年(1819)創業の京菓子「志んこ」の老舗。「志んこ」はキビやアワでなく、米の粉(真粉)で作ることから名付けられた素朴な京菓子で、ほどよい歯切れと口の中でとろけるようなまろやかさが、芝居見物の幕間のおやつやお土産に最適と人気がある。
 江戸時代には天秤棒をかついで「しんこ、しんこ、いいしんこ…」と太鼓を打ち鳴らしながら歌って歩くしんこ売りが町衆の人気で、京の人たちのおやつとして親しまれてきた伝統的な京菓子のひとつ。

しんこ (祇園饅頭)

(写真は しんこ (祇園饅頭))


 
坂田藤十郎  放送 11月25日(金)
 京の街に師走の到来を告げる南座の「吉例顔見世興行」が11月30日初日を迎えるが、その顔見せの「まねき」が11月25日に上がる。「まねき」とは、勘亭流書家が独特の筆使いで出演役者の名前を白木の板に書いて、南座正面に上げる恒例の行事。このまねきに江戸時代初期の上方歌舞伎の大名跡でありながら、これまで書かれたことのなかった役者名が平成17年に初めて書かれて上げられる。
 その名は歌舞伎ファン待望の坂田藤十郎。この顔見せで231年ぶりに坂田藤十郎を襲名する人間国宝の三世・中村鴈治郎は襲名披露記者会見で「この襲名で私はまた生まれ変わります」と言い、歌舞伎全体の活性化に願いを込めている。

「役者評判記」初世 坂田藤十郎(早稲田演劇美術館蔵)

(写真は 「役者評判記」初世 坂田藤十郎
           (早稲田演劇美術館蔵))

都万太夫座屏風(早稲田演劇美術館蔵)

 初世・藤十郎(1647〜1709)は、京都の座元・坂田市右衛門の子として生まれ、若い時から演技の修行を重ね、延宝6年(1678)30歳の時「夕霧名残の正月」で藤屋伊左衛門を演じて大当たりを取った。元禄6年(1693)京都の都万太夫座で近松門左衛門の作品を演じて好評を博し、以後、元禄年間(1688〜1704)に近松門左衛門と組んで多くの近松作品を上演、元禄期に上方を代表する名優となった。
 藤十郎は舞踊中心の歌舞伎を会話中心の写実劇に発展させ、零落した若殿や若旦那の様子を演じる「やつし事」や「濡れ事」「傾城(けいせい)買い」など「和事(わごと)」の演技に長じ、今に続く「和事」の創始者となった。江戸で荒々しい動きの演技をする「荒事(あらごと)」を始めた初世・市川団十郎に対し「和事」の藤十郎と言われた。

(写真は 都万太夫座屏風
      (早稲田演劇美術館蔵))

 坂田藤十郎は二世、三世と襲名されたが大成せず、三世後は坂田藤十郎の名は消えていた。平成17年、231年ぶりに中村鴈治郎が坂田藤十郎襲名、南座の顔見世興行の襲名披露の舞台で、初世・藤十郎の当たり役「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門を演じるほか「曾根崎心中」「本朝廿四孝」など、新・藤十郎の演技を歌舞伎ファンを前に披露する。
 新・藤十郎の中村鴈治郎(中村扇雀)は、昭和時代に扇雀ブームを巻き起こした俳優。近松への特別な思い入れを持っており、昭和56年(1981)に近松座を立ち上げ、数多くの近松作品を上演してきた。平成2年(1990)に三世・中村鴈治郎を襲名した。

坂田藤十郎供養塔(大阪・四天王寺)

(写真は 坂田藤十郎供養塔(大阪・四天王寺))


◇あ    し◇
南座京阪電鉄四条駅下車すぐ。 
阪急電鉄河原町駅下車徒歩2分。
京都市バス四条京阪下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
南座、花吉兆(日本料理)075−561−1155 
松葉本店(にしんそば)075−561−1451 
祇園饅頭075−561−2719 

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