月〜金曜日 18時54分〜19時00分


三木市・加東市 

 古くから開けた三木市は、戦国時代の三木合戦で知られる城下町だったが、その後は金物の町として発展した。高度経済成長期にはベッドタウンとして発展し人口が急増した。加東市は2006年3月20日に社町、滝野町、東条町の3町が合併して誕生したばかりの新しい市で、今後の発展が期待されている。


 
三木城攻め(三木市)  放送 3月20日(月)
 天正6年(1578)織田信長から中国攻めの命を受けた羽柴秀吉は、7500人の大軍を率いて播州に入った。今は城跡のみを残す三木城の城主は東播八郡の豪族・別所長治であった。両者の会談は不首尾に終わってここに秀吉の三木城攻めが始まった。
 自然の地形を利用した要害の三木城は容易に落ちず、秀吉は大軍で城を包囲して兵糧攻めに出た。これが秀吉の高松城(岡山市)の水攻めと並んで「三木の干殺(ひごろ)し」として知られる悲惨な戦いである。籠城は2年近くにおよび、城内の食料は尽き果て兵馬まで食べると言う悲惨な状態となった。

別所長治画像

(写真は 別所長治画像)

別所長治墓所

 餓死者が相次ぎ、特に婦女子の哀れな姿を見て、ついに長治は自分と一族の自害、兵士の助命と町民の安全を条件に城を明け渡すことを決意した。「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかはる 我が身と思へば」の辞世を詠み、妻子を刺し自害して城を明け渡した。戦国時代の若き武将・別所長治23歳であった。城跡にはこの辞世を刻んだ石碑や騎馬武者姿の長治の像がある。
 別所氏の菩提寺・法界寺には長治の墓所があるほか、長治夫妻の位牌、木像、画像が祀られており、城跡近くの雲龍寺には首塚がある。

(写真は 別所長治墓所)

 秀吉との2年近くにおよんだ戦いの様子を描いた「三木合戦絵図」が法界寺に残されており、毎年
4月17日の午前と午後の2回、この合戦絵図の絵解きが行われている。数年前までは長治の命日(旧暦1月17日)にちなんで2月17日に行われていたが、寒い時期なので暖かくなる4月17日に変更された。
 三木城築城の年代は明らかでないが、明応元年(1492)別所則治が三木城を修築して入城し、山陽道の入り口を守る要衝の地として重きをなした。三木城は江戸時代初めまで続いたが、元和元年(1615)の一国一城令で城は取り壊されて廃城となり、用材は明石城の築城に使われた。

三木合戦図(法界寺 蔵)

(写真は 三木合戦図(法界寺 蔵))


 
播州三木打刃物(三木市)  放送 3月21日(火)
 三木市は刃物の町として知られ、その鍛治の歴史は古く大和時代にまで遡る。古くから開けた三木市内に古墳が見られ、このころから大きな力を持つ豪族がこの地方に存在していた。古代国家が成立してからは都と密接なつながりを持ち、渡来人との交流もあって農耕機具や家庭用具などを生産していた。
 こうした三木の鍛冶の歴史や製法の資料、古い打刃物、金物の製品の散逸を防ぎ、展示するために校倉風造りの三木市立金物資料館が昭和51年(1976)にオープンした。資料館前庭には「しばしも休まず つち打つひびき」の歌で知られる唱歌「村のかじや」の記念碑が立っている。

三木市立金物資料館

(写真は 三木市立金物資料館)

山本鉋製作所

 播州金物は古くからの倭(わ)鍛冶の系統と大陸から渡来した韓鍛冶の系統が合流して、技術的な発展を遂げた。三木地方の鍛冶もこのような経過をたどって発展してきたが、古い記録を見ると韓鍛冶系統の技術者が多かったようだ。
 仏教の伝来によって寺院建築が盛んになり、武家の勃興、戦国時代の到来で武器、武具類の需要の増大などがあって、大工道具、建築道具、刀、槍などの注文が増え、三木の鍛治職はこれらの製品の製作に腕を振るい繁栄した。三木が全国屈指の金物生産地となったきっかけは秀吉の三木城攻めにある。

(写真は 山本鉋製作所)

 三木城攻めで三木城主・別所長治が城を明け渡して三木城は落城したが、この戦いの後、羽柴秀吉が三木の町の復興に力を入れたことから大工や鍛冶職人が城下町に多く集まった。やがて三木のノコギリ、ノミ、カンナなどの大工道具の素晴らしさが、京都や大阪にまで知られるようになった。
 三木市立金物資料館横の古式鍛練場では、毎月第1日曜日に三木の伝統的な鍛冶技術を伝える、三木金物古式鍛練技術保存会の人たちによって古式鍛練の技が公開されている。ふいごを使って真っ赤に焼けた鉄をカンナ、ノコギリ、ノミ、小刀などに鍛える様子が見学できる。

三木金物古式鍛錬技術保存会

(写真は 三木金物古式鍛錬技術保存会)


 
金物今昔(三木市)  放送 3月22日(水)
 三木の金物は徳川時代以降も発展を続け、その販路は全国に広がり全国ブランドとなってきた。江戸時代から大きく発展した三木の鍛冶は鍛冶組合を組織し、金物の特産地としての基盤を固めた。当時、三木の町には湯の山街道、ひめじ道、あかし道と呼ばれる街道が通っており、その街道筋には商家や鍛治職、造り酒屋などの町家が建ち並んでいた。
 羽柴秀吉が有馬温泉へ通った湯の山街道沿いには、今もノコギリの看板を掲げる江戸時代さながらのたたずまいの鍛冶屋さんが健在で、今日も鍛練の火花を散らしている。

黒田清右衛門商店

(写真は 黒田清右衛門商店)

岡田金属工業所

 明治時代にはいると三木の鍛冶にも技術革新の波が押し寄せた。明治維新までは和鋼、和鉄のみで製作していた打刃物にも洋鋼、洋鉄が導入され、製法にも改良が加えられ大きく進歩した。大工道具を中心とした打刃物の殻を打ち破り、ショベル、スコップなどの建設作業用具、農機具、園芸用具も製造するようになった。
 手工業から機械化に転換した三木の鍛冶工業は日清、日露戦争などで軍用の土木用具も大量生産するようになり大変な盛況を呈した。さらに進んで多種多様な一般家庭用の金物製造も手がけ、生産量は急増して国内での販売はもとより、海外への輸出も盛んになった。

(写真は 岡田金属工業所)

 第2次世界大戦後は物資不足とインフレによって国内需要が減り、三木の金物工業は窮乏期となったが、輸出に活路を見出し、インド、ハワイ、台湾、韓国などへ進出した。
 今は伝統の三木鍛冶の技術を継承しながら新しい技術、アイデアがどんどん取り入れ、伝統的な大工、左官道具は言うに及ばず、実に多種多様な金物製品が生産されている。その中でもノコギリ、カンナ、ノミなどの高品質な大工道具は「三木の刃物」として信頼されている。「肥後守」の名称で知られている昔懐かしい和式ナイフを作り続けている鍛冶屋さんも健在で、切れ味のよいナイフ求める人たちに根強い人気がある。

永尾駒製作所

(写真は 永尾駒製作所)


 
伽耶院(三木市)  放送 3月23日(木)
 三木市の東部、神戸市との市境に近い丘陵地帯にある伽耶院(がやいん)は、大化元年(645)孝徳天皇の勅願によってインドの僧・法道仙人が創建したと伝わる古刹。朝廷の勅願寺としてその帰依が篤く、花山法皇も行幸して納経するなどしており、平安時代には隆盛を極めた。
 古くは大谿寺(だいけいじ)と称していた。伽耶院の院号は天和元年(1681)に後西(ごさい)上皇から賜ったもので、インドの仏陀伽耶(ブダガヤ)にちなんでいる。羽柴秀吉の三木城攻めの時、伽耶院の僧が別所長治に味方したため、天正8年
(1580)の三木城落城後に秀吉によって諸堂宇すべてが焼き払われた。

本堂

(写真は 本堂)

毘沙門天立像

 秀吉に焼き払われた後、翌年から復興が始まり、ようやく寺観を整えたころの江戸時代初めの慶長
14年(1609)の火災で、再び全山が焼け落ちた。その後、姫路城主・池田輝政や明石城主・小笠原忠政らの援助を受けて現在の本堂、多宝塔(いずれも国・重文)、本堂と多宝塔の間にある鎮守社・三坂明神の本殿(国・重文)などの諸堂が再建された。
 本堂の本尊・毘沙門天立像(国・重文)は、日本に仏教を伝えた百済の聖明王の王子の作とも伝えれている。江戸時代には徳川幕府の将軍や姫路、明石など近隣の藩主の祈願所として寺運は隆盛を極めた。

(写真は 三坂明神社)

 中世以降は聖護院の末寺の修験道の寺として知られ、江戸時代に入ると天台系山伏を統率する寺のひとつとして修験道界に重きをなしていた。毎年10月10日には関西一円から200人余りの山伏が集まって採燈大護摩が執り行われ、全山にほら貝の音がこだまする。
 伽耶院を開いた法道仙人は播磨地方に多くの寺院を開いたと伝えられているが、瞬時に空を飛ぶことができる術を会得しているなど伝説的な部分が多い。架空の人物なのか、モデルとなる人物がいたのかなど、諸説があるが真相は分からない。

根本中堂

(写真は 毘沙門天立像)


 
西国三十三カ所第25番札所
・清水寺(加東市) 
放送 3月24日(金)
 丹波、摂津、播磨三国の境に位置する標高500m余の御嶽山(みたけさん)、別名五岳山(本丸、清応寺山、丹波山、東光寺山、西光寺山の五峰からなる)の本丸にある清水寺(きよみずでら)は、推古天皇
35年(627)法道仙人が根本中堂を建立、自刻の本尊・十一面観音像を安置したのが始まりとされる。その後、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が神亀2年(725)大講堂を建立し、自刻の千手観音像を本尊として安置した。
 この地は水の乏しい所だったが、法道仙人が水神に祈って霊泉を湧かせたところから清水寺と名づけられたと言う。この霊泉は枯れることがなく「おかげの井戸」と呼ばれ、今も根本中堂の裏にある。

大講堂

(写真は 根本中堂)

十一面千手観世音菩薩

 法道仙人は景行天皇の時代にインドから渡来してこの地に留まり、推古天皇の時代に十一面観音像を彫って安置したとされ、300年以上もこの地に留まったことになり、伝説上の人物との説が濃厚である。
 それはさておき、観音さまに深く帰依し、京都の清水寺ともゆかりのある坂上田村麻呂は、奥州征伐に向かう際、ここ播州の清水寺にも参詣して必勝を本尊に祈願、3振りの「騒速(そはや)」と言う太刀(国・重文)を奉納、この太刀は現在に伝わっている。全国に80ヵ寺あると言われる清水寺は、いずれも田村麻呂にゆかりの深い寺で、京都・清水寺、播州・清水寺、坂東三十三ヶ所三十二番の・清水寺は日本三清水寺と言われている。

(写真は 大講堂)

 清水寺は度々の火災で諸堂宇を焼失しており、現在の堂塔は大正時代以降に再建されたものである。古くは白河法皇の妃・祇園女御が多宝塔、池の禅尼が薬師堂、後白河法皇が常行堂、源頼朝が阿弥陀堂をそれぞれ建立、境内に甍を連ねていたが、明治時代から大正時代にかけての火災で焼失した。
 清水寺では毎月第3日曜日の早朝に朝粥(あさがゆ)会が催され好評。大講堂の本尊の前で読経、座禅で心を落ち着けた後にいただく粥の味は格別と信者たちは言っている。
 御詠歌は「あわれみや あまねきかどの しなじなに なにをかなみの ここにきよみず」。

十一面千手観世音菩

(写真は 十一面千手観世音菩薩)


◇あ    し◇
三木城跡、三木市立金物資料館神戸電鉄粟生線三木上の丸駅下車徒歩5分。
法界寺三木鉄道別所駅下車徒歩5分。 
伽耶院神戸電鉄粟生線三木上の丸駅からバスで伽耶院口下車徒歩10分。
御嶽山清水寺JR福知山線相野駅からバスで清水寺下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
三木市経済部商工観光課0794−82−2000
三木市観光協会0794−83−8400
法界寺0794−82−4569
三木工業協同組合0794−82−3154
三木市立金物資料館0794−83−1780
山本鉋製作所0794−82−1428
永尾駒製作所(肥後守)0794−82−1566
岡田金属工業所0794−83−1111
伽耶院0794−87−3906
御嶽山清水寺0795−45−0025

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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