月〜金曜日 18時54分〜19時00分


桜井市・山の辺の道と万葉の歌 

 桜井市は飛鳥に都が置かれる前に古代の宮殿が置かれた所で、多くの宮殿跡がある。宮殿近くの野山は天皇や皇子、皇女、宮廷人の散策の場所となり、恋を語り合う歌が交わされるなど万葉歌の舞台ともなっていた。三輪山を御神体とする大神(おおみわ)神社や古代ロマンを駆り立てる山の辺の道などの史跡が多く、豊かな自然に恵まれている。


 
朝倉宮伝承地  放送 3月27日(月)
 「篭(こ)もよ み篭(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね」。「そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも」=雄略天皇。
 現代語訳は「篭も よいお篭を持って へらも 立派なへらを持って この丘で 若菜を摘んでいらっしゃるお嬢さん方 結婚をしよう 家をおっしゃい 名前をおっしゃいな」。「この大和の国はね ことごとく私が 束ねているんだよ すみずみまで 私が治めているのだよ だから 私のほうから名乗りましょう わが大王の家のことも わが名前のことも」となる。

白山神社

(写真は 白山神社)

萬葉集發燿讃仰碑

 万葉集の巻頭を飾るのが雄略天皇が朝倉宮付近で詠んだこの歌。万葉集は4516首の歌からなる20巻の歌集でこの歌から始まる。雄略天皇は記紀伝承上の第21代天皇で、万葉集の編者たちは「日本を統一した天皇」と考え、万葉集の初めに雄略天皇の歌を置き、万葉集を権威づけようとしたと解される。
 また春を告げる歌でもあり、万葉集の巻頭に置くのにふさわしい歌でもある。古代はみだりに名を明かさず、男が女の名を尋ねると言うのは、即ち求婚しいることになり、女性が名を明かすと求婚を承諾したことになる。ためらう乙女に対し天皇は「自分は大和を治めている王者である」と力強くプロポーズしている。

(写真は 萬葉集發燿讃仰碑)

 桜井市の中心地から東へ外れた朝倉は「隠り口(こもりく)」の枕詞にふさわしい山あいの地で、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったとされる所だが、その場所は確定していない。日本書紀に「天皇、壇を泊瀬の朝倉に設けて即位し、宮を定む」とあり、その場所は桜井市岩坂上岩坂、黒崎天の森、脇本などの説がある。発掘調査などで宮の柱穴や敷石群などと推定されるものが出土しているが、朝倉宮跡として決定づけるものがない。
 朝倉の「アサ」は「深」に対する「浅」に相当し、「クラ」は「谷」の意味と考えられ、谷の浅くなる初瀬渓谷の入口を指す地形、地名語と見るのが妥当だとされている。

脇本遺跡発掘跡

(写真は 脇本遺跡発掘跡)


 
泊瀬川 放送 3月28日(火)
 「三諸(みもろ)の 神の帯ばせる 泊瀬川(はつせがわ) 水脈し絶えずは 我(あれ)忘れめや」=三輪朝臣高市麻呂。
 現代語訳は「三輪山の 神様が帯となさっている 泊瀬川 その泊瀬川の水が絶えないかぎり 私は忘れません ふるさとのことを この宴に集まってくれた人々のことを」となる。

磯城島金刺宮跡

(写真は 磯城島金刺宮跡)

仏教伝来之地碑

 三輪朝臣高市麻呂が持統天皇に左遷され、長門へ向かうにあたり詠んだ歌。桜井市を東から西北へ流れる初瀬川のほとり一帯は、古代大和朝廷の中心地で磯城島金刺宮があったと推定され所である。また、山の辺の道、初瀬道、飛鳥からの山田の道、磐余の道など、主要街道が交わる交通の要所でもあった。
 6世紀中ごろの欽明天皇13年(552)百済の聖明王が日本に献じた釈迦金銅仏像、経巻などが難波津から初瀬川を遡りこの地に上陸、仏教が初めて日本へ伝来した場所とされており、川べりに大きな「仏教伝来之地」と刻まれた石碑が立っている。

(写真は 仏教伝来之地碑)

 京都と奈良府県境の笠置山南部に源を発する初瀬川は、桜井市を西へ流れて佐保川と合流して大和川となり、奈良盆地から生駒山系南部の峡谷を通って河内平野を抜けて石川と合流、堺市北部で大阪湾にそそぐ全長68kmの河川。仏教伝来の地とされる桜井市のあたりは難波津から大和川を遡ってきた船の終着地となっていた。
 大陸から難波津に着いて文物や生活物資などは、難波津や大坂の町から大和との境まで剣先船で運ばれ、ここでやな船と呼ばれる川船に積み替えられて大和川を遡り、飛鳥の都や奈良の都へ運ばれており、大和川は古代の水運の大動脈であった。

初瀬川

(写真は 初瀬川)


 
海石榴市  放送 3月29日(水)
 「紫は 灰(はひ)さすものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)のちまたに 逢(あ)へる児(こ)や誰(たれ)」=作者不詳。
 現代語訳は「紫染めには灰がいる 灰でよいのは椿というが 椿の名がつく市がある 椿市(つばいち)であったお嬢さん 結婚しようよ 名前を教えてよ」となる。
 「たらちねの 母が呼ぶ名を 申(もう)さめど 道行(みちゆ)き人を 誰(たれ)と知りてか」=作者不詳。
 現代語訳は「お母さんが呼ぶ名前 それは永久の愛を誓いあった人にしか教えない名前よ それを教えてあげたいが 行きずりのあなたを誰とも知らずに 教えるわけにはいかないわ」となる。

奈良県立万葉文化館

(写真は 奈良県立万葉文化館)

海石榴市観音

 山の辺の道を桜井市側から北へ歩きはじめてすぐのところの金屋あたりは、山辺の道、初瀬街道、飛鳥からの山田の道、磐余の道、横大路、上つ道に加え初瀬川の水運の終着地で、水陸の交通の要所だった。こうした交通の要所には旅人が必ず立ち寄り、ここに日本最古で大規模な市の「海石榴市(つばいち)」が開かれていた。
 この海石榴市は日本書紀の武烈天皇時代の記事に記されており、応神天皇時代のの軽市(かるのいち)や雄略天皇時代の餌香市(えがのいち)と共に古代の市場として栄えた市場であった。三輪山麓にはツバキの木がたくさんあったのでこの名が起こったと思われる。

(写真は 海石榴市観音)

 こうした大勢の人が集まるところでは、古代には恋人や結婚相手を求める男女が集まって踊り、恋の歌を詠み交わして求婚の機会をとした「歌垣(うたがき)」が春秋に催された。本来は豊作を祈り、豊作に感謝する農耕儀礼が主であったが、次第に変形して古代の結婚へのひとつのプロセスとなった。
 現代のこの付近は静かなたたずまの集落で、古代に市場でにぎわったとは思えない。当時をしのばせるものとして海石榴市観音堂があり、地名に「上市」「飯売」「栗買」がある。また、高さ2.2mの2枚の泥板岩に釈迦如来像と弥勒菩薩像を浮き彫りにした金屋の石仏(国・重文)がある。

金屋の石仏

(写真は 金屋の石仏)


 
三輪山  放送 3月30日(木)
 「み幣(ぬさ)取り 三輪の祝(はふり)が 斎(いは)ふ杉原 薪伐(たきぎこ)り ほとほとしくに 手斧(ておの)取らえぬ」=作者不詳。
 現代語訳は「神様への捧げものを手にとって 三輪の神官たちが 大切に祀る杉原での 薪を取り 神官に見つかって 危うく斧を取られそうになった」となるが、その実は「ああ大変、箱入り娘に手を出したら怖い目にあった」と言う意味が裏にある面白い歌である。

巳の神杉

(写真は 巳の神杉)

夫婦岩

 三輪山(標高467m)は大国様の呼び名で知られる大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が鎮まる山で、その麓の大神(おおみわ)神社はこの三輪山を御神体としている。
 大神神社は本殿を設けず、拝殿(国・重文)奥にある独特の三ツ鳥居(国・重文)を通して、三輪山を遥拝する上代の信仰の形態を伝えているわが国最古の神社である。三輪山は古代から「三諸(みもろ)の神奈備(かんなび)」と言われ、神の宿る聖なる山とされ、山中には岩座(いわくら)と呼ばれる巨石群が山頂、中腹、山麓の3カ所にあり、それぞれに神が鎮座しているとされる。

(写真は 夫婦岩)

 三ツ鳥居は明神型の三つの鳥居をひとつに組み合わせた独特の形をした鳥居で、別名「三輪鳥居」とも呼ばれている。この鳥居の起源や形式については定かでない。現在の三ツ鳥居は明治16年(1883)に再建されたものだが、飾り金具などは江戸時代初期のものが使われている。
 大神神社は農、工、商や医薬、酒造、方除けなど人間生活すべてにご神徳がある。
毎年11月に全国の酒造家が集まって酒まつりが行われ、三輪の神杉の杉葉で作られた新しい「しるしの杉玉」別名「酒ばやし」に取り替えられ、酒造家にも杉玉が授けられる。

神宝社

(写真は 神宝社)


 
桧原・国のまほろば  放送 3月31日(金)
 「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠もれる 大和うるはし」=景行天皇。
 現代語訳は「大和は国の中でもよいところ 重なり合った青き山々が垣根のごとく巡れる国 大和は美しい」となる。三輪山を背にして桧原神社の社前に立つと奈良盆地が一望でき、夕暮れにこの地から二上山方面に沈む夕日を眺めると、つくづく「まほろば」が実感できる。神社近くの井寺池のほとりに川端康成の書になるこの歌の歌碑がある。

川端康成書

(写真は 川端康成書)

三ツ鳥居

 大神(おおみわ)神社の摂社の桧原神社は、大神神社と同じく三輪山を御神体としているので本殿がなく、三ツ鳥居を通して三輪山を拝む形を取っている。
 天皇の皇祖神・天照大神は皇居内に祀られていたが、天照大神と御殿をひとつにするのは畏れ多いと、崇神天皇が笠縫邑(かさぬいむら)に遷して祀った。その地が桧原神社のある所と推定されている。次の垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を奉じて各地を巡幸の後、伊勢の地が天照大神を祀るのにふさわしい地と定め、鎮座したのが伊勢神宮で桧原神社の地は元伊勢と呼ばれている。

(写真は 三ツ鳥居)

 三輪山の麓にある桧原神社からの眺めは素晴らしい。大和平野が一望でき、大和三山や遠くには金剛、葛城、二上、生駒の山並みを望むことができる。夕暮れ時、二上山方向に沈む夕日の眺めは、荘厳な感動を与えてくれ光景で、神が宿る三輪山からの眺めにふさわしい。天照大神を祀ったり「大和は 国のまほろば…」の歌が詠まれたのもうなずける地である。
 ちょうど山の辺の道の途中にあることから、ハイカーたちの人気のスポットで、桧原神社そばの茶店でひと息入れ、この眺めを楽しむ人が多い。

桧原御休処

(写真は 桧原御休処)


◇あ    し◇
朝倉宮跡推定地近鉄大阪線大和朝倉駅下車徒歩15分。 
仏教伝来の地JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅下車徒歩30分。 
海石榴市跡JR桜井線三輪駅下車徒歩20分。 
近鉄大阪線桜井駅下車徒歩30分。
大神神社JR桜井線三輪駅下車徒歩5分。 
近鉄大阪線桜井駅からバスで三輪明神参道口下車徒歩10分。
桧原神社JR桜井線三輪駅下車徒歩25分。 
◇問い合わせ先◇
桜井市観光課0744−42−9111 
奈良県立万葉文化館0744−54−1850 
大神神社、桧原神社0744−42−6633 
茶店・桧原御休処0744−43−7633 

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