月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都・南山城 

 京都府南東部の南山城地方は、奈良時代に聖武天皇が恭仁宮を置いた地でもあり、有名な古社寺が多い地方である。三方を大阪、奈良、三重、滋賀の四府県に囲まれ、宇治川、木津川などの流域に広がる豊かな自然を誇っている。宇治茶の茶どころでもあり、歴史散策を兼ねたハイキングコースとしてハイカーらに人気がある。


 
緑茶のふるさと(宇治田原町)  放送 4月10日(月)
 宇治田原町を代表する風景は見渡す限り広がる緑の茶畑で、京都府下では屈指の茶の生産地として知られている。鎌倉時代初期に栄西上人が、中国・宋から茶の木を持ち帰った。その茶の木をもらい受けた明恵上人が、京都・栂尾の高山寺で茶の栽培を始めた。明恵上人の弟子の僧・光賢が宇治田原の地に茶木を植えたのが、宇治田原での茶の栽培の始まりとされている。
 一般的には日本に茶を伝えたのは栄西上人とされているが、平安時代初期に嵯峨天皇が、近江・唐崎の寺で茶を献じられたとの記録があり、その後も、茶の栽培が行われていたようだ。

永谷宗円像(妙楽寺 蔵)

(写真は 永谷宗円像(妙楽寺 蔵))

永谷宗円 生家

 今日、お茶と言えば緑色の煎茶のことだが、その製法は元文3年(1738)に宇治田原の永谷宗円(1681〜1778)によって編み出された。
 それ以前に一般庶民が飲んでいたお茶は赤黒く、味も香りも粗末なものだった。宗円は15年にわたる試行錯誤の末、茶の葉を新芽のうちに摘み取って蒸し、和紙を張った焙炉(ほいろ)の上で乾燥させながらもむ方法で、茶の色を鮮やかな緑に変え、味も香りも優れた煎茶を生み出すことに成功した。煎茶の良し悪しは、蒸しともみ方、乾燥によって決まることを突き止め、その技術を確立したのが宗円だった。

(写真は 永谷宗円 生家)

 宗円は「青製煎茶法」で生産した煎茶を江戸の茶店で販売したところ、その味と香りが大好評で、売れゆきは上々だった。この煎茶製造法は全国の茶生産地に広がり、宇治田原は「緑茶発祥の地」となった。宗円の生家には焙炉跡が残っており、近くには宇治茶をブランド商品にした宗円を祀った茶宗明神社がある。
 現在は宗円の青製煎茶法は、近代設備の製茶工場で蒸し、もみ、乾燥までの工程が機械化され、高品質の緑茶が生産されている。最近、日本茶の「カテキン」が、ガンを抑える効果があるなど、健康によいと見直されて需要が高まりつつあり、茶どころ宇治田原町は活気づく新茶のシーズンに入る。

焙炉跡

(写真は 焙炉跡)


 
禅定寺(宇治田原町)  放送 4月11日(火)
 宇治田原町は宇治市から近江の瀬田や信楽へ抜ける間道にあたり、古くから軍事、交通の要衝であった。平安時代、都の貴族が宇治に競って別荘を建て、平等院などの寺院を営んだが、禅定寺はその先駆けとも言える寺で、正暦2年(991)東大寺の別当だった平崇(へいそ)上人が、藤原兼家(道長の父)の帰依を得て創建、十一面観音像を安置したのが始まりと言われる。
 以来、藤原摂関家の保護の下に平等院の末寺となって栄えたが、鎌倉時代に入って藤原氏の衰退とともに寺運も衰え、戦国時代の天正年間には兵火で堂宇も焼失した。

月舟宗胡像

(写真は 月舟宗胡像)

本尊 十一面観世音菩薩立像

 こうした禅定寺を支えたのが、平安時代に禅定寺領となった宇治田原領に住む村人の中の寄人と呼ばれる人たちだった。平素は農業や林業に従事し、寺の諸行事の時には一般の農民の上に立って寺務に携わっていた。寄人が中心となって村人らが金を出し合い、梵鐘を鋳造するなど寺が衰退した時も変わらぬ信仰心で寺を守ってきた。
 江戸時代に入って延宝8年(1680)加賀国の大乗寺から迎えられた月舟(げっしゅう)禅師が、加賀藩家老・本多政長の援助を受けて衰退していた禅定寺を復興させ、天台宗から曹洞宗に改めた。月舟禅師は禅定寺中興の祖と言われ、現在の諸堂は月舟禅師が再建した時のものである。

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩立像)

 由緒ある名刹にふさわしく、像高が286cmの本尊・十一面観音像のほか、日光、月光両菩薩像、文殊菩薩騎獅像、多聞天、持国天、広目天、増長天の四天王像、地蔵菩薩半跏像など9体の仏像が、国の重要文化財に指定されている 開創千年記念事業として、釈迦の教えと宗祖・道元禅師の心を平成の世に広めるため、大涅槃図を制作して平成11年(1999)に開眼した。この大涅槃図壁画は横45m、縦8mもある大きなものである。

日光菩薩

(写真は 日光菩薩)


 
蟹満寺(山城町)  放送 4月12日(水)
 山城町綺田(かばた)の蟹満(かにまん)寺は紙幡(かばた)寺とも呼ばれるが、地名、寺号の「かばた」は渡来人の養蚕の地を意味すると言われ、飛鳥時代に聖徳太子に仕えていた山城国の豪族・秦河勝(はたのかわかつ)の弟・和賀(わか)の創建と伝わる古刹。
 蟹満寺と言う変わった寺号の由来は、日本霊異記や今昔物語の仏教説話の「蟹の恩返し」による。観音様を篤く信仰していた娘が、村人に捕らえられていじめられていた蟹を買い取って助けた。娘の父は大蛇に呑み込まれかけていたガマを、娘を大蛇に嫁がせることを条件に救ってやった。

蟹の額

(写真は 蟹の額)

本尊 釈迦如来像

 若者に姿を変えた大蛇が娘をもらいに現れると、親子3人は雨戸を閉め切って家の中にたてこもった。大蛇は暴れて雨戸をたたき続け、親子は恐れおののきながらひたすら「南無観世音菩薩」と観音経を唱え続けていたところ、観世音菩薩が姿を現し「汝ら恐るることなかれ」と言って姿を消した。
 しばらくすると静かになったので、雨戸を開けて外をのぞくと無数の蟹の死骸と切れ切れになった大蛇の死骸があった。命の恩人の娘を救うため数万の蟹が自らも犠牲になりながら大蛇を退治してくれたもので、親子は蟹と大蛇の葬り、その霊を弔うためにお堂を建立し、聖観世音菩薩像を祀ったのが蟹満寺の起こりとされている。

(写真は 本尊 釈迦如来像)

 蟹満寺の国宝の本尊・金銅製釈迦如来像は、旧山田寺(桜井市)の薬師如来仏頭、薬師寺の薬師如来像と並ぶ白鳳時代の仏像の代表作とされている。
 豊満で均衡のとれた重厚な姿態と流れるような衣紋の曲線の美しさに対する評価が高い。この仏像には頭髪の螺髪(らほつ)と眉間の間の白毫(びゃくごう)がない。造仏当初からなかったとみられ、人間味をおびた仏像にしようとの仏師の意図があったのではないかと推測されている。また両手の指の間に水かきのような幕がある曼網相(まんもうそう)を備えているのが特徴で、一切の衆生をもらさず救済すると言う形相である。

曼網相

(写真は 曼網相)


 
水を集めた(南山城村)  放送 4月13日(木)
 三重県伊賀市から流れてくる伊賀川と奈良県月ケ瀬村からの名張川が合流し、木津川となって南山城村を流れている。村内の木津川流域には水の恵みを受けた豊かな自然が広がっており、橋が少なかった時代には渡し舟が住民の足として活躍していた。
 その合流点は夢絃(むげん)峡と呼ばれる静まり返った幽玄の景勝地。夢絃峡の名は平安時代、親の許しが得られず、かなわぬ恋の末に一緒に身を投げたと言う悲恋の伝説の主人公・名張郡司の娘の夢姫と大和国司・絃之丞のふたりに因む。

伊賀川

(写真は 伊賀川)

夢絃峡

 景勝地「夢絃峡」を含め村内の木津川流域には水辺のスポットが多く、行楽客やハイカーたちを楽しませてくれる。朝焼けが水面に映えて木津川の一日が始まり、朝、昼、夕とそれぞれの顔をのぞかせる。大小の滝が流れ落ちる流れではカヌーが彩りを添え、初夏にはアユ釣りを楽しむ太公望の姿が多い。
 流れが大きな弓状になっている「弓が淵」は、剣豪・柳生十兵衛が最期を遂げたところと言われ、雄大な眺めは十平衛の人物を象徴しているように思える。夢絃峡の約500m上流の名張川にある人造湖の高山ダムでは、春には桜やツツジが咲き誇り、秋は紅葉が美しい。湖上ではバス釣りが盛んである。

(写真は 夢絃峡)

 夢絃峡のやや下流にある関西電力大河原発電所は、大正ロマンを感じさせるノスタルジックなレンガ造りの建物。大正8年(1919)に運転開始してから今日まで運転を続ける現役で、無公害な水力で発電した電力を近辺に供給している。
 山間の発電所にこのようなレンガ造りの建物を建てた大正時代の人たちの心意気が伝わってくる。昭和57年(1982)に日本建築学会の「全国の建物2000棟」に選ばれ、建築学的にも高い評価を受けている建物である。静かに流れる木津川の清流と、温かみを感じるレンガ色がマッチする桜の満開が待ち遠しい季節である。

関西電力大河原発電所

(写真は 関西電力大河原発電所)


 
笠置磨崖仏(笠置町)  放送 4月14日(金)
 古くから弥勒信仰の霊場、修験道の行場として栄えてきた笠置山には、巨岩、巨石が数多い。笠置山の周辺の道は、奈良、京都から伊賀方面への通路で、軍事上の要衝の地でもあって、戦場になった歴史も残る。
 大海人皇子(後の天武天皇)が、狩で鹿を追っていて断崖の上で進退窮まった時、仏に祈願して何とかこの危難を逃れた。難を救ってもらった仏に感謝して、岩に仏像を彫ろうと目印に笠をおいた。皇子は後にこの巨岩に弥勒菩薩像が彫らせ、笠置山の名も笠を置いた皇子の故事に由来している。

笠置寺本尊 弥勒大磨崖仏

(写真は 笠置寺本尊 弥勒大磨崖仏)

笠置寺縁起

 笠置山の山腹にある笠置寺の本尊は、巨岩に彫られた弥勒菩薩磨崖仏。高さ約15m、幅約13mの巨岩に刻まれた弥勒菩薩像は日本最大で最古とされる天人彫刻の磨崖仏。奈良、平安、鎌倉時代を通じて天皇や法皇、朝廷、貴族らの篤い信仰を受けてきたが、後醍醐天皇が起こした鎌倉幕府倒幕の元弘の乱の戦火に遭って像が消磨し、今は光背の形を残すばかりとなっている。
 しかし、笠置寺境内の虚空蔵菩薩の磨崖仏は、今も優美な線彫りが鮮やかに残っている。ほかに薬師石、文珠石と呼ばれる巨石があり、これらの石にもそれぞれ仏像が彫られていたと見られる。

(写真は 笠置寺縁起)

 修行場めぐりの入口にある胎内くぐりは、行場に向かう時、岩のトンネルをくぐり抜けることによって身を清めるとされている。行場には岩のくぼみとたたくと音のする太鼓石、上に立つと視界が開ける平等石、敵の襲撃に備えたゆるぎ石、一列になって歩く蟻の戸渡りなどの奇岩が数多い。
 笠置寺の解脱鐘と呼ばれる梵鐘は、鐘の底部に6つの切り込みがある珍しいデザインで、日本にはひとつしかないと言われる中国形式の鐘。境内の石造の十三重塔(国・重文)は鎌倉時代に建立されたもので、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の四方仏が彫られている。

虚空蔵磨崖仏

(写真は 虚空蔵磨崖仏)


◇あ    し◇
永谷宗円生家、
茶宗明神社
JR奈良線宇治駅、京阪電鉄宇治線宇治駅、近鉄京都線新田辺駅からバスで工業団地口下車徒歩30分。
禅定寺JR奈良線宇治駅、京阪電鉄宇治線宇治駅からバスで禅定寺下車徒歩5分。
蟹満寺JR奈良線棚倉駅下車徒歩20分。 
夢絃峡JR関西線月ケ瀬駅下車徒歩20分。 
関西電力大河原発電所JR関西線月ケ瀬駅下車徒歩30分。
笠置寺JR関西線笠置駅下車徒歩40分。 
◇問い合わせ先◇
宇治田原町役場0774−88−2250 
禅定寺0774−88−4450 
蟹満寺0774−86−2577 
南山城村役場07439−3−0101 
関西電力奈良支店
(大河原発電所)
0742−27−8913
笠置寺0743−95−2848 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会