月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・有田川町 

 吉備町、金屋町、清水町の3町が平成18年(2006)1月1日に合併して誕生した有田川町は、有田川に沿って東西に長く延びる町で、有田ミカンの主産地でもある。町域の大部分が山林で占められているが、古くから伝わる伝統芸能が今も残り、この地から出た鎌倉時代の高僧・明恵上人の遺跡も多い。


 
日本の原風景  放送 4月17日(月)
 有田川町東端の清水地区は紀伊山脈の護摩壇山の西麓に位置する山里で、昔から伝承されてきた民俗芸能や山間の美しく懐かしい風景の数々が見られる。
 清水地区杉野原の標高350mの小山の頂きに建つ雨錫(うしゃく)寺の阿弥陀堂では、2年に1度、国の重要無形民俗文化財に指定されている、稲作りの所作を演じて豊作を祈願する「杉野原の御田(おんだ)舞」が行われる。この舞は室町時代中期に始まったと言われ、村人たちによって今日まで約500年もの間、受け継がれてきた伝統芸能である。

雨錫寺阿弥陀堂

(写真は 雨錫寺阿弥陀堂)

山の家 やすけ

 有田川沿いにはこうした御田舞が各地にあったが、今は有田川町ではここ清水川地区の杉野原と久野原、西隣の旧花園村(現かつらぎ町)梁瀬の3カ所だけとなった。
 全国各地の御田舞は田植えの所作までだが、杉野原の御田舞は春の田起こしから田植え、稲刈り、もみすりまで、稲作のすべての所作が演じられる。中でも杉野原の御田舞は、裸の男たちが円陣を組んで踊る裸苗押し(はだかなえおし)でクライマックスに達する。杉野原の御田舞は毎年旧暦の1月6日に行われてきたが、昭和52年(1977)から2年に1度、新暦の2月11日に行われるようになった。

(写真は 山の家 やすけ)

 清水地区の自然の景観を代表的するのが「あらぎ島」。蛇行した有田川沿の台地に扇状に広がる大小の水田54枚(約2ha)の棚田が「あらぎ島」と呼ばれ、数少なくなった昔ながらの農村風景の伝える「美しい日本の村の風景」。「旧清水町の顔」として知られている。
 江戸時代初めにこの地域の大庄屋・笠松左太夫が中心になって、米の増産のために農民たちと開墾して開いた水田が、そのままの形で今日まで残された。国道480号のバス停・三田付近からの眺めが最高で、四季折々、朝夕にそれぞれ異なった表情を見せてくれる。

あらぎ島

(写真は あらぎ島)


 
ふるさと体験  放送 4月18日(火)
 有田川町清水地区の山村の暮らしの中から生み出された和紙や民芸品、木工品、手づくり食品、農産物などの特産物が、農林物産振興センターで展示販売されており、買い求めることができる。
 高齢者生産活動センターでは、お年寄りから手ほどきを受けながら和紙の紙漉き、民芸品のわら細工、木工品作りの体験ができる。作ったことも履いたこともない、わらぞうり作りに挑戦する若い女性たちに、おばあちゃんたちは孫に手ほどきするかのように楽しそうな表情で教えている。木工センターでは大きなものは椅子、テーブル、小さなものは水鉄砲や竹とんぼ、けん玉づくりが体験できる。いずれも実費と予約が必要。

農林産物振興センター

(写真は 農林産物振興センター)

わらぞうり作り体験

 清水地区の特産品の中でも「保田紙」と呼ばれる和紙は400年近い歴史がある。江戸時代に入って徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣は元和5年(1619)にお国入りし、新しい国作りに意欲を燃やしていた。
 まず産業振興に重点を置き、紀州三白と言われた米、塩、和紙の生産に力を入れた。米と塩の増産にはめどがついたが、和紙の生産はほとんど手つかずだった。重臣たちと検討した結果、藩内で最も若い大庄屋で、棚田の景勝地「あらぎ島」の開墾でも知られるこの地の笠松左太夫に和紙作りを命じた。

(写真は わらぞうり作り体験)

 藩主の命を受けた左太夫は、和紙作りが盛んだった吉野へ見学に行ったが、その製法は秘密にされており、教えてもらえなかった。
 思案の末、左太夫は地区の美男子3人を吉野へ送り込んだ。やがて左太夫の思惑通り3人は、それぞれ紙漉きの技術を持った美人のお嫁さんを連れて帰ってきた。3人の夫婦はこの地で紙漉きを始めたがなかなか成功せず苦労を重ねた結果、ようやく吉野和紙に匹敵する和田紙ができた。左太夫は村人に紙漉きを勧め、一時は400軒もの紙漉屋があったと言われ、今、高齢者生産活動センターでその技術が伝承されている。

保田紙 紙漉き体験

(写真は 保田紙 紙漉き体験)


 
有田川上流の景勝  放送 4月19日(水)
 有田川の名は「荒れた川」に由来すると言われるように、時には暴れ川となって流域に大水害をもたらした。特に昭和28年(1953)7月に紀中、紀北地方を襲った水害は、死者、行方不明者1046人、負傷者7600人、壊れた家屋8600戸に達する大きな被害をもたらした。
 この大水害が契機となって有田川に根本的な防災計画が立てられ、和歌山県営事業として二川ダムが建設されることになり、昭和38年(1963)に着工、昭和42年(1967)に完成、洪水調節、灌漑、発電用水などの多目的ダムとして機能している。

二川ダム湖

(写真は 二川ダム湖)

生石高原

 完成したダム湖の面積は大阪ドーム約25個分の86ha。ダム湖畔には約1000本のソメイヨシノの桜並木が続いており、春のひと時、エメラルドグリーンの水面に映える爛漫の桜花が目を楽しませてくれる。
 このダムの完成で有田川流域の水害はなくなり、有田川の景観も変わった。ダムによる流量の調整で一定の水が有田川に流されるようになり、渇水時には川底が見えていた川には常に水が流れるようになった。これによって河原の植物がよみがえり、アユ、オイカワ、シマヨシノボリ、オオヨシノボリ、ウキゴリなどの魚類のほか、水生昆虫も生息するようになって川の機能を取り戻した。

(写真は 生石高原)

 ダム湖畔の大月から大月峠を越えるハイキングコースを北へとると、標高870mの生石ヶ峰を中心にした和歌山県立公園の生石(おいし)高原へたどり着く。雄大なスロープの大高原には、春は草花、夏はヤマユリ、秋は銀色のススキが見事に広がり、山頂で修行していた弘法大師が押し上げたと伝えれる巨岩の押し上げ岩や笠石などがある。山頂からは眼下に和歌浦、湯浅湾、遠くには淡路島、四国が望める。
 山頂近くにある生石(しょうせき)神社は、平安時代の永祚元年(989)に突如大岩が出現して神が降臨したと言い、拝殿の奥に鎮座する高さ48m、幅15mもの巨岩が信仰の対象となっている。

生石神社

(写真は 生石神社)


 
明恵上人誕生の地  放送 4月20日(木)
 有田川町金屋は鎌倉時代初期に京都・栂尾に高山寺を開いて華厳宗中興の祖と仰がれ、また栄西が宋から持ち帰った茶の栽培の普及に努めたことでも有名な明恵上人(1173〜1232)の出身地。
 ミカン畑のほとり石造卒塔婆の立つ吉原遺跡は、明恵の父・平重国の屋敷跡で明恵生誕地と伝わっている。明恵は8歳の時に両親に死別、その後、京都・神護寺に入り修学に励んだ。だが、この時期の宗教界に飽き足らないものを感じ、故郷の金屋に帰り仏法の奥義を極める厳しい修行を重ねた。建永元年(1206)33歳の時、後鳥羽上皇から神護寺内の栂尾別所を賜り、高山寺を創建し華厳宗興隆の道場とした
明恵上人坐像

(写真は 明恵上人坐像)

歓喜寺

 明恵が亡くなった時、天台座主の良快が「当世は明恵上人のごときを聖人と言うべし」と述べており、明恵がいかに高僧であったかがうかがわれる。
 明恵の生誕地・吉原遺跡には、明恵の生誕地を示す石造卒塔婆が立っており、修行のあらましが記されているほか、明恵が生まれた時の胎盤を埋めた上人胞衣(えな)塚がある。このほか金屋地区には明恵が修行した地の筏立遺跡や糸野遺跡があり、それぞれ卒塔婆や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、明恵が詠んだ「フルサトノ ヤトニハヒトリ 月ヤスム ヲモフモサビシ 秋ノヨノソラ」の上人自筆の歌碑が立っている。

(写真は 歓喜寺)

 明恵生誕の吉原遺跡の東方に建つ歓喜寺は「往生要集」を著した恵心僧都・源信が、寛和2年(986)に開いた古刹。平安時代末期から衰微していたが、明恵入寂後の建長元年(1249)明恵の高弟・喜海が師の生誕地に近いゆかりの寺として再興した。
 歓喜寺の上品堂には阿弥陀如来座像(国・重文)や恵心僧都座像、明恵上人座像が安置されており、中品堂には地蔵菩薩座像(国・重文)や聖観世音菩薩立像、大型の厨子の中央に本尊の阿弥陀如来座像を安置し、その周りに小型の阿弥陀如来の群像を配置した千体仏が安置されている。

千体仏

(写真は 千体仏)


 
浄教寺  放送 4月21日(金)
 有田川町吉備地区の有田川南岸沿いにある浄土宗西山派の浄教寺は、寺伝によれば文明4年(1472)に明秀上人によって開かれたとされる。一説には近くの最勝寺を改め浄教寺としたとあるが定かではない。
 明秀上人は紀州での浄土宗西山派の勢力拡張に務め、浄土宗西山派の中核寺院となった和歌山市梶取の総持寺を創建したのをはじめ多くの寺院を建立しており、今も和歌山市から紀中地域にかけて西山派寺院が多く存在する。浄教寺には平安時代から室町時代まで栄えて没落した、最勝寺の文化財が多く引き継がれている。

明秀上人坐像

(写真は 明秀上人坐像)

絹本著色 仏涅槃図

 その代表的なものが釈迦の入滅を描いた鎌倉時代の絹本着色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず)と木造大日如来座像でいずれも国の重要文化財に指定されている。ほかに釈迦如来座像、十一面観音立像、當麻曼荼羅などがある。
 縦202cm、横179.5cmの仏涅槃図は今も色彩が鮮やかで、制作には一流の画工がかかわっていると見られている。4枚の絹を継いでひとつの画面を構成しており、金箔を細い線状や小片に切って貼り付ける精緻な截金(きりかね)技法が用いられている。

(写真は 絹本著色 仏涅槃図)

 大日如来座像は頭に高い髻(たぶさ)を結い、張りと弾力のある面立ちをしており、快慶一派の作と推定されている。仏涅槃図は春分の日と秋分の日の午後1時から3時まで一般公開され拝観でき、大日如来座像の拝観は予約が必要。
 浄教寺と有田川をはさんで対岸にある井ノ口大師と呼ばれている法蔵寺は、弘法大師・空海を本尊としており、境内には弘法大師立像が立っている。浄教寺歴代上人記によれば幕末の安政2年(1855)に浄教寺奥ノ院となり、歴代の住職によって伽藍(がらん)を整備されてきた。

大日如来坐像

(写真は 大日如来坐像)


◇あ    し◇
あらぎ島JR紀勢線藤並駅からバスで三田下車。 
雨錫寺JR紀勢線藤並駅からバスで杉野原下車、
又は運転手に告げれば雨錫寺近くで下車可能。
農林物産振興センター、
清水高齢者生産活動センター、
山の家「やすけ・左太夫」
JR紀勢線藤並駅からバスで旧清水町役場下車徒歩10分。
二川ダムJR紀勢線藤並駅からバスで二川ダム管理事務所前下車。
生石高原、生石神社JR紀勢線藤並駅からバスで大月下車徒歩約1時間30分〜2時間。
JR紀勢線海南駅からバスで札立峠下車徒歩約45分。
歓喜寺JR紀勢線藤並駅からバスで歓喜寺口下車徒歩10分。
浄教寺JR紀勢線藤並駅下車徒歩30分。又はタクシー利用。
(バスは便数が少ないので有田鉄道バス会社でバスダイヤの確認が必要)
◇問い合わせ先◇
有田川町清水行政局0737−25−1111 
山の家「やすけ」「左太夫」、
農林物産振興センター
0737−25−1059
清水高齢者生産活動センター0737−25−0621 
有田川町金屋庁舎0737−32−3111 
歓喜寺0737−32−3425 
有田川町吉備庁舎0737−52−2111 
浄教寺0737−52−2469 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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