月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪・淀川に沿って 

 江戸時代まで天下の台所として日本経済を担っていた大坂で、重要な役割を果たしていたのが水運。水の都と言われるように大坂の町には川や運河が縦横に走り、船を使って物資が全国から大阪に集まり、そして全国へ出て行った。その幹線水路とも言えるのが淀川で、平安時代から京の都と難波の間を結び人や物を運んだ。今回はその淀川にスポットを当ててみた。


 
大阪の命の水・淀川  放送 4月24日(月)
 宇治川、木津川、桂川の三川が合流してとうとうと大阪湾に注ぎ込む淀川は、大阪の母なる川として大阪の発展に大きく関わり、大阪の歴史、文化、風土を育んできた。反面、大洪水の度に沿岸に大きな被害をもたらし、古代から河川改修が行われ、水害との闘いが続いてきた。
 淀川は古くから瀬戸内海〜淀川〜琵琶湖を結び、人や物資を運んだ重要な交通路であり、沿岸には船宿が発達してにぎわったが、道路の整備が進み、鉄道が発達するにつれて水運は衰退した。現在の淀川は飲料水、工業用水の水源として文字通り大阪人の命の水となっている。

大川

(写真は 大川)

ワンド

 船運として代表的なのが江戸時代の三十石船で、枚方などの川沿いには当時の宿場のにぎわいをしのばせる町並みが今も残っている。
 水害から住民や田畑を守るための河川改修は、日本書紀によると仁徳天皇の時代に始まっている。この時、難波の堀江と呼ばれた人工の水路を作り、茨田堤(まんだのつつみ)が築かれている。平安時代には桓武天皇が和気清麻呂に命じて三国川(現神崎川)開削、豊臣秀吉による文禄堤、江戸時代の安治川開削など昭和の時代まで治水工事は続いた。

(写真は ワンド)

 明治時代の淀川改修工事によって生まれた「ワンド」と呼ばれる人工入江は、天然記念物の「イタセンパラ」などの魚類、水草やヨシなどの植物、野鳥などの楽園となっている。緑が広がる河川敷公園はスポーツを楽しんだり、水辺に憩いを求める人たちでにぎわっている。
 淀川の水は大阪府民の飲み水でもある。一時は「かび臭くてまずい水」との苦情が多かったが、今は高度浄水処理施設が整い、まずい水の汚名を返上した。ミネラルウオーターと飲み比べる利き水会でも、水道水を「おいしい」とした人がミネラルウオーターに匹敵し、中には「ミネラルウオーターよりおいしい」とした人もいたほどだった。

イタセンパラ(天然記念物・淀川水系イタセンパラ研究会 蔵)

(写真は イタセンパラ
(天然記念物・淀川水系イタセンパラ研究会 蔵))


 
毛馬閘門(大阪市)  放送 4月25日(火)
 大阪市内から大川を遡る船は、淀川本川からの分流点の毛馬閘門(けまこうもん)にかかってゆく。毛馬閘門を抜けて淀川に入ると、そこには淀川大堰が淀川の幅広い流れを受け止めている。
 淀川の歴史をひも解くとそれは洪水との闘いでもあった。淀川は古代からたびたび洪水を起こし、その都度、沿岸に大きな被害をもたらし住民を苦しめてきた。この水害から決別する治水対策として、中津川沿いに新しい淀川を開削、分流地点に洗堰、毛馬閘門の建設などの大改良工事が明治31年(1898)から始まり、明治43年(1910)に新淀川が完成、旧淀川は大川と呼ばれるようになった。

旧毛馬閘門

(写真は 旧毛馬閘門)

淀川大堰

 その後も淀川の改良工事は続けられたが、台風の襲来で何度も水害に見舞われた。抜本的な対策が求められ、200年間に一度の大洪水を想定した治水対策が計画され、そのひとつとして淀川大堰が昭和58年(1983)に完成した。この淀川大堰の完成で淀川本川の水位が常に大川より高く保たれるようになり、淀川本川と大川の分流地点の洗堰、毛馬閘門も改良されて近代的な施設に生まれ変わった。
 これらの近代施設は、平常時は大川へ一定の水量を流し込み、洪水時には大川に流れ込む雨水を淀川へポンプで排水して大阪市内を水害から守る役目を果たすようになっている。

(写真は 淀川大堰)

 水位の異なる淀川本川と大川を船が往来するには、毛馬閘門に船を入れて進行する川の水位に合わせなければならず、水上交通が盛んなころには毛馬閘門は重要な役目を果たしていた。
 淀川や大阪市内の河川が船運による大動脈となっていた昭和時代初期までは、毛馬閘門を通過する船は年間約10万隻あった。戦後の自動車の発達と鉄道網の整備によって船運は衰退し、現在、毛馬閘門を通過する船は1日20隻ほどの砂利採取船が通るだけとなった。しかし、都市の交通渋滞の解消、地震など緊急時の物資輸送ルートとして、水上交通を見直そうとする動きもある。毛馬閘門は事前に申し込めば内部が見学できる。

毛馬閘門

(写真は 毛馬閘門)


 
鍵屋資料館(枚方市)  放送 4月26日(水)
 江戸・日本橋からの東海道は五十三次の京都が終点ではなく、実は大坂までの五十七次があって枚方はその56番目の宿場だった。慶長20年(1615)の大坂夏の陣の後、京都〜大坂間に伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられ東海道五十七次となった。徳川幕府は大名らが京都に立ち寄り、朝廷と接触するのを警戒して京都の中心地を通るのを避ける大津宿〜伏見ルートを設けたと見られている。
 56番目の宿場町・枚方は淀川を上り下りする三十石船の寄港地としても栄え、本陣や脇本陣のほかに32軒の旅籠(はたご)があった。

三十石船(「淀川枚方風景」中井吟香 画)

(写真は 三十石船
(「淀川枚方風景」中井吟香 画))

市立枚方宿 鍵屋資料館

 江戸時代、京都〜大坂間の東海道を往来する旅人は、上りは街道を歩き、下りはスピードも速く料金も上りより安い三十石船を利用して楽な旅をした。
 枚方宿は「ここはどこよと船頭衆に問へば ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には錨が要らぬ 三味や太鼓で船止める」と三十石船唄に歌われたほどにぎわった船着き場だった。ここに三十石船の船待ち宿として、天正年間(1573〜92)創業の「鍵屋」があった。宿の裏手が淀川に面し、宿からすぐに船に乗降できる便利さも手伝って、当時は大勢の船客でにぎわった。

(写真は 市立枚方宿 鍵屋資料館)

 明治43年(1910)の京阪電鉄の開通によって淀川の水上交通は衰退したため、鍵屋は高級料理旅館に商売替えして平成10年(1998)まで営業していたが、廃業後、建物を枚方市に寄贈した。
 枚方市は江戸時代の町家の特徴と典型的な船宿の遺構を残していた鍵屋を保存するため、解体修理して平成13年(2001)に「枚方市立枚方宿鍵屋資料館」としてオープンした。資料館には枚方宿や街道の歴史、三十石船やくらわんか舟の模型、鍵屋に残されていた調度品や資料などが展示され、淀川船運の歴史が紹介されている。

くらわんか舟(歌川広重 画)

(写真は くらわんか舟(歌川広重 画))


 
くらわんか舟の味わい(枚方市)  放送 4月27日(木)
 枚方宿の船着場・鍵屋浦の淀川では、三十石船の船客を目当てに「くらわんか舟」が漕ぎ寄り「餅くらわんか!鮨くらわんか!酒くらわんか!ごんぼ汁はどうじゃい!」と、まるで喧嘩でもふっかけるような荒っぽい言葉で、飯や鮨、酒、ごんぼ汁などを売る商売をしていた。
 「くらわんか舟」は長さ約15m、幅2mほどの小さな舟で、当時の様子は鍵屋資料館のミラービジョンでリアルに面白く見られる。代金は現代の回転寿司と同じく茶碗の数で計算しており、こっそり船べりから淀川へ茶碗を捨てて無銭飲食をたくらむせこい客もおり、今も川底からくらわんか茶碗が出てくると言う。

茶舟鑑札(鍵屋資料館 蔵)

(写真は 茶舟鑑札(鍵屋資料館 蔵))

くらわんか餅(巴堂)

 「くらわんか舟」は大坂夏の陣の折、徳川方に兵糧米を送って戦に貢献した人物が、家康から茶舟の独占営業権を与えられて始めたのが起こり。徳川秀忠が枚方あたりで真田の残党に襲われた時、小舟でその危急を救った者が、恩賞として茶舟の独占営業権と粗言御免のお墨付きをもらったとの説もあるが、これはくらわんか舟の由来を面白くするための後世の創作のようだ。
 くらわんか舟で使われた茶碗は九州の伊万里、唐津、四国の砥部、摂津の古曽部などで大量に焼かれたもので、枚方市内の骨董品店に当時のくらわんか茶碗が並んでいる。

(写真は くらわんか餅(巴堂))

 今も枚方名物として「くらわんか餅」や「くらわんか鮨」「ごんぼ汁」が、現代人の口に合うように味つけして売られている。枚方市立枚方宿鍵屋資料館でも予約しておけば「くらわんか餅」や「ごんぼ汁付くらわんか鮨」などが味わえる。
 「くらわんか餅」は餅をあんで包んだもので、当時は旅の疲れをこの甘味が癒してくれたのだろう。「くらわんか鮨」は飯を漬け物で巻いた簡素なものだったが、今売られているのは押し鮨。一見すると味噌汁のような「ごんぼ汁」は、味噌の代わりにおからと鳥肉、醤油で味つけしたもので、おからを使うのがミソ。

ごんぼ汁(くらわんか汁・割烹 藤)

(写真は ごんぼ汁(くらわんか汁・割烹 藤))


 
城跡に今…(高槻市)  放送 4月28日(金)
 枚方市の対岸の高槻市は西国街道が通り、淀川の水運と合わせ水陸の交通の要所、そして高槻城の城下町として発展した町である。
 高槻城は平安時代から城が築かれたと伝えられているが、実際に城の存在が確認されたのは、室町時代に入江氏が居城を構えたときからだった。高槻の城主としては戦国時代のキリシタン大名・高山右近が有名だが、今は城跡を示す碑と右近の銅像が立つのみである。江戸時代の慶安2年(1649)から明治維新まで永井氏13代が高槻藩主を務め、維新後は城は取り壊され、城跡公園となっている。

高槻城跡

(写真は 高槻城跡)

高槻市立 しろあと歴史館

 高槻城三の丸跡に「しろあと歴史館」が平成15年(2003)に開館した。
この歴史館は江戸時代の高槻を主テーマに「高槻城と人」「城下町のくらし」「人々のなりわいといとなみ」「淀川の舟運」「西国街道と芥川宿」の5つのコーナーにわけて高槻の歴史を総合的にとらえ、資料や映像、模型などで子供たちにもわかるように紹介している 「高槻城と人」のコーナーでは城郭の模型などと共に、江戸時代に高槻城の石垣用として瀬戸内海の島から舟で運ばれ、淀川の高槻の浜まできて水中に落ちて石垣に使われなかった「残念石」が展示されている。

(写真は 高槻市立 しろあと歴史館)

 江戸時代、高槻では酒造りが盛んで、富田では24軒の造り酒屋が銘酒を造っていた。冬には盛んに寒天作りが行われ、とりわけ高槻の城山の寒天は評判がよく、高槻を代表する産業となっていた。焼物の古曽部焼の産地でもあり、淀川のくらわんか茶碗にも古曽部焼のものがある。これらの産業を支えた酒造用具、寒天製造用具、古曽部焼窯跡の出土品などを展示、当時の様子を伝えている。
 枚方と同様、淀川の舟運にも深い関わりがあり、高槻からも「くらわんか舟」を出していた。歴史館には三十石船やくらわんか舟の模型やくらわんか舟の営業を許可した「茶舟鑑札」の複製などが展示されている。

高槻城絵馬(野見神社 蔵)

(写真は 高槻城絵馬(野見神社 蔵))


◇あ    し◇
淀川資料館京阪電鉄枚方市駅下車徒歩5分。 
毛馬閘門地下鉄谷町線、堺筋線天神橋六丁目駅下車徒歩20分。
JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄梅田駅からバスで長柄東下車徒歩5分。
枚方市立枚方宿鍵屋資料館京阪電鉄枚方公園駅下車徒歩5分。 
巴堂(くらわんか餅)京阪電鉄枚方公園駅下車徒歩5分。 
割烹・藤(ごんぼ汁)京阪電鉄枚方公園駅下車すぐ。 
高槻しろあと歴史館阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩10分。 
JR東海道線高槻駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
国土交通省近畿地方整備局
淀川工事事務所
072−843−2861
淀川資料館072−846−7131 
毛馬閘門06−6351−2580 
枚方文化観光協会072−804−0033 
枚方市役所商工観光課072−841−1221 
枚方市立枚方宿鍵屋資料館072−843−5128 
巴堂(くらわんか餅)072−841−3015 
割烹・藤(ごんぼ汁)072−841−2415 
高槻しろあと歴史館072−673−3987 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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歴史街道推進協議会