月〜金曜日 18時54分〜19時00分


舞鶴市 

 天然の良港を有する舞鶴市は、古くは丹後国の政治、経済の中心地として繁栄、明治時代中ごろから軍港都市、戦後は抑留者の引揚港となり、その役目を終えた後は、日本海沿岸有数の港湾工業都市としての地位を保っている。その繁栄の原動力は港であり、港あっての舞鶴と言えよう。


 
天然の良港  放送 5月15日(月)
 日本海から深く人の字形にはいりこんだ波静かな舞鶴湾。この湾内で西港と東港に分かれている舞鶴港は天然の良港として古くから栄えた。
 西港は江戸時代から田辺城下の田辺湊として栄え、藩内各地の物産が集まった。東港は西港ほどのにぎわいはなかったが、明治22年(1889)に舞鶴鎮守府が置かれて以後、周辺一帯に海軍の施設が建設され、帝国海軍の隆盛に伴って軍港都市として大いに発展した。第二次大戦終結後は引揚港として、シベリアなどからの抑留者が祖国への第一歩をふみしめた港として、悲喜こもごものドラマの舞台となった。

舞鶴湾

(写真は 舞鶴湾)

海上自衛隊

 旧海軍の広大な施設が戦後、民間工業に転用された舞鶴は港湾工業都市として活況を呈し、対岸諸国のロシア、韓国、中国との定期航路がによる貿易港となった。また北海道・小樽を結ぶ高速フェリーが就航するなど環日本海地域の重要港湾となっている。
 海上保安庁舞鶴保安部や海上自衛隊舞鶴総監部があり、海の守りにつく船舶の母港でもある。活力ある舞鶴港は湾内巡りの遊覧船でくまなく見学することもでき、西港と東港の中間に位置する海抜325mの五老ヶ岳の頂上にある五老スカイタワーの展望室からは、舞鶴湾の360度のパノラマ風景が楽しめる。

(写真は 海上自衛隊)

 東港の入口にある舞鶴親海公園は、潮の香り、海の色、波の音、海の幸、海水を肌で感じながら家族連れで楽しめる広場。漁村活性化センター内のレストランでは、新鮮な海の幸を食材にした料理が海原を眺めながら味わえ、120mの岸壁では釣りが楽しめる。
 公園の岸壁に停泊する「エル・マールまいづる」は関西電力の船舶型ミュージアム。プラネタリウムで星空を観察したり、豪華客船の船長室や談話室をイメージした雰囲気の部屋で、航海用具や船にまつわる資料が見学でき、展望デッキからは舞鶴湾のパノラマ風景を楽しむことができる。

エル・マールまいづる

(写真は エル・マールまいづる)


 
引揚記念館  放送 5月16日(火)
 昭和20年(1945)8月15日第二次世界大戦が終結したが、この時、海外に残された軍人、軍属、一般国民は約660万人以上と言われた。こうした人びとをすみやかに日本へ帰国させるために、舞鶴港など全国の10港が引揚港に指定された。
 舞鶴港への引揚船の第一船は昭和20年10月7日、韓国・釜山からの雲仙丸だった。それから13年間にわたって舞鶴港は約66万人以上の引揚者と1万6000柱の遺骨を迎え入れてきた。

引揚援護局全景図

(写真は 引揚援護局全景図)

舞鶴引揚記念公園

 舞鶴港の岩壁ではわが子、わが夫、兄、弟らを戦地に送り出した家族たちが、その帰りを待ち受けた。祖国への第一歩を印し、家族や妻たちと再会の喜びに抱き合い、涙にくれる人たちの姿が新聞で報じられ、全国の人たちもわが事のように喜びを分かちあった。だが、その裏にはいつになっても待つ人は帰らず、悲嘆の涙を流す人たちも多く「岸壁の母」「岸壁の妻」の言葉が生まれ同情を集めた。
 舞鶴港は戦争に翻弄された人たち、ひとりひとりの激情のドラマの舞台であった。引揚者が夢にまで見た祖国への第一歩を踏みしめた平桟橋があった所には今、引揚桟橋が復元されている。

(写真は 舞鶴引揚記念公園)

 引揚船が入港した舞鶴港の引揚地を見下ろす小高い丘は昭和45年(1970)引揚記念公園となり、公園内に戦争を知らない世代に引き揚げの事実を知らせ、戦争の悲劇を語り継いで平和の貴さを訴えかける引揚記念館が昭和63年(1988)に開館した。
 館内には厳寒の旧ソ連・シベリアでの抑留生活の辛さを伝える品々が並べられ、想像を絶する実態を知ることができる。このほかシベリア収容所の模型、再会を喜び会う家族、いつまでも帰らぬ夫と父を待つ母子の姿などの写真などの引揚げの様子が展示されており、思わず目頭を押さえる見学者もいる。

舞鶴引揚記念館

(写真は 舞鶴引揚記念館)


 
赤れんがの街 放送 5月17日(水)
 舞鶴市の東地区を散策していると明治、大正時代に建てられたさまざまな赤れんがのノスタルジックな建造物に出会い、赤れんがの街の印象が焼きつけられる。
 これらの建物は明治34年(1901)に旧海軍舞鶴鎮守府が設けられたのに伴い、旧海軍が倉庫や工場として建てたものがほとんどで、今も現役の倉庫や各種のホールとして生き生きと命を保っている。ほかに水道施設や鉄道の橋梁にも多くのれんがが使用されている。こうした赤れんが倉庫の一部が夜にはライトアップされ、幻想的でロマンチックな光景を浮かびあがらせている。

旧舞鶴海軍需品倉庫(明治35年竣工)

(写真は 旧舞鶴海軍需品倉庫
                   (明治35年竣工))

北吸トンネル

 海軍施設へ物資を運ぶための引込線が昭和46年(1971)に廃線になったが、れんが造りの北吸トンネルはそのまま残り、自転車・歩行者専用道路として生まれ変わった。市街地と赤れんが倉庫群を結ぶこの道路には、ガス灯風の照明が灯され、通行する人々の心をなごませる楽しい景色を現出させている。
 赤れんが建造物が急ピッチで建設されたころ、これらの赤れんがを焼いた神崎煉瓦ホフマン式輪窯(国指定有形登録文化財)が今も舞鶴に残っており、全国に4基しか確認されていない貴重な文化遺産である。

(写真は 北吸トンネル)

 赤れんが倉庫群のひとつ、旧海軍兵器廠魚形水雷庫だった建物を転用したのが「舞鶴市立赤れんが博物館」。この建物は本格的な鉄骨構造のれんが建造物で、わが国に現存する最古級鉄骨構造のれんが建造物として保存運動が起こり、博物館として残すことになって平成5年(1993)にオープンした。
 博物館の目玉展示物は世界各国から集めた赤れんが。4000年前の古代楔形文字が刻印されたメソポタミア文明のれんがやインダス文明のれんが、万里の長城のれんがなどが展示されている。このほか日本のれんがの歩みや舞鶴市とれんがの歴史などがわかりやすく展示されている。

赤れんが博物館

(写真は 赤れんが博物館)


 
幽斎の城下町  放送 5月18日(木)
 天正8年(1580)細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)父子は、織田信長の命によって明智光秀とともに丹後守護の一色氏を攻めて滅ぼした。細川父子は信長から丹後国を与えられてこの地に入り、舞鶴の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築いた。北から三の丸、二の丸、本丸と並び、四方に門を構えた城は鶴が舞う姿に例えられ、舞鶴(ぶかく)城とも呼ばれ舞鶴の地名の由来となった。
 田辺城は細川氏の後、京極氏、牧野氏の居城として徳川幕府が滅びるまで290年間続き、明治維新後の明治6年(1873)に廃城となり取り壊された。

田辺城跡(舞鶴公園)

(写真は 田辺城跡(舞鶴公園))

田辺城籠城図(1600年・大泉寺 蔵)

 当時の田辺城をしのぶものはわずかに残る石垣だけで、本丸跡は現在、舞鶴公園として整備され桜の名所として知られている。昭和17年(1942)二層櫓が再建され、平成4年(1992)には城門が再建されて内部は、歴代城主や城下町の歴史資料を展示する田辺城資料館となっている。
 舞鶴公園内の庭園・心種園は、戦国時代の武人で歌人でもあった細川藤孝の人柄を、今日に伝える有名なエピソードにちなんでいる。藤孝は織田、豊臣に仕えたが、関ヶ原の戦では徳川方についた。西軍の石田三成は近隣の城主を動員して田辺城を攻めさせ、藤孝はわずかの兵を擁して籠城し、落城寸前にまで追い込まれた。

(写真は 田辺城籠城図(1600年・大泉寺 蔵))

 藤孝は当時、古今和歌集の古今伝授を伝える唯一の人物であり、古今伝授が絶えることを心配した後陽成天皇が、城を包囲していた軍に勅使を送り和解を働きかけた。藤孝は初めこの和解を拒絶していたが、ようやく和解が成立し古今伝授は後世に伝わった。
 和解を拒絶していた時、藤孝は古今伝授継承者を絶やさないために、後陽成天皇の弟・智仁(ともひと)親王に古今伝授の秘伝書を送った。その際に「古も 今もかはらぬ 世の中に 心の種を 残す言の葉」の歌が添えられ、心種園の名はこの歌に由来している。

心種園

(写真は 心種園)


 
西国三十三カ所第29番札所・
松尾寺 
放送 5月19日(金)
 舞鶴市域東部の若狭富士と呼ばれる青葉山中腹の松尾寺(まつのおでら)は、中国僧・威光上人が和銅元年(708)に創建したと伝えられる西国三十三カ所第29番札所の観音霊場。
 威光上人は慶雲年間(704〜8))に中国から渡来して諸国を行脚していた時、二つの峰が馬の両耳を思わせる青葉山を見て祖国の馬耳山を思い浮かべた。ここを霊地と考えた上人はこの山に登り、中腹の松の大木の下で法華経を読誦していたところ馬頭観音を感得、ここに庵を結んで馬頭観音像を安置したのが松尾寺の起こりで、青葉山松尾寺の山号寺号はこの山と松の木に由来している。

松尾寺参詣曼茶羅図

(写真は 松尾寺参詣曼茶羅図)

本尊 馬頭観世音菩薩(お前立ち)

 本尊が馬頭観音と言うのは西国三十三カ所札所の中で松尾寺だけ。しかも松尾寺の本尊は、仏敵に対する怒りを表す三面八臂(さんめんはっぴ)の忿怒(ふんぬ)像で、農耕畜産や交通安全にご利益があると言う。
 松尾寺は鳥羽天皇、美福門院や朝廷、貴族らの帰依を受け、本堂などの伽藍が建立され栄えた。しかし、織田信長の命による丹後攻めの際、細川藤孝(幽斎)の兵火によって消失した。田辺(舞鶴)城主となった藤孝が、天正9年(1581)に寺を再興、その後に城主となった京極氏、牧野氏らによって寺観が整えられ今日の姿を取り戻した。

(写真は 本尊 馬頭観世音菩薩(お前立ち))

 毎年5月8日の舞儀音楽大会式に奉納される「仏舞(ほとけまい)」は松尾寺の珍しい会式として有名。仏舞は奈良時代に中国・唐から伝わったもので、本堂の舞台で大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の光背のついた金色の仏面をそれぞれ2人ずつがつけ、越天楽の曲に合わせて典雅な舞を舞う。古くは松尾寺の寺僧が舞っていたが、寺坊がなくなってからは門前町の松尾寺仏舞保存会の人たちが舞っている。
 門前町の茶処・流々亭では、参拝を終えた人たちが抹茶やぜんざい、そばなどを味わいながらひと息入れて疲れを癒している。
 御詠歌は「そのかみは いくよへぬらん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら」。

茶処 流々亭

(写真は 茶処 流々亭)


◇あ    し◇
舞鶴親海公園、
エル・マールまいづる
JR舞鶴線東舞鶴駅から巡回バス(土、日、祝日のみ)で親海公園下車。
JR舞鶴線東舞鶴駅からコミュニティーバス親海公園
下車(便数少ない)。
舞鶴引揚記念館JR舞鶴線東舞鶴駅からバスで引揚記念館前下車。 
赤れんが博物館JR舞鶴線東舞鶴駅下車徒歩5分。 
田辺城跡、舞鶴市田辺城資料館JR舞鶴線、北近畿タンゴ鉄道西舞鶴駅下車徒歩5分。
松尾寺、
茶処・流々(るる)亭
JR舞鶴線東舞鶴駅又は小浜線松尾寺駅からバスで
松尾寺口下車徒歩40分。
JR小浜線松尾寺駅か下車徒歩50分。
◇問い合わせ先◇
舞鶴市観光協会0773−66−1024 
エル・マールまいづる0773−68−1090 
舞鶴引揚記念館0773−68−0836 
赤れんが博物館0773−66−1095 
舞鶴市田辺城資料館0773−76−7211 
松尾寺0773−62−2900 
茶処・流々(るる)亭0773−63−7770 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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          郵便番号 530−6691
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歴史街道推進協議会