月〜金曜日 18時54分〜19時00分


桜井市、天理市・山の辺の道と万葉の歌 

 山の辺の道は、奈良盆地東側の山麓を桜井市三輪山の麓から奈良市まで、約26kmの道で日本最古の官道。自然に包まれた道筋には、古代の古社寺や古墳、万葉の歌碑、道祖神、石仏などが点在し、古代へのロマンをかきたて、四季を通じて訪れる人が絶えない。


 
巻向山、巻向川(桜井市)  放送 5月22日(月)
 巻向山は三輪山の北に美しい稜線を連ねている山。巻向山の主峰は弓月が岳、もうひとつの峰が穴師山。柿本人麻呂の歌にこのあたりを詠んだものが多い。
 「巻向の 山辺とよみて 行く水の 水沫(みずあわ)のごとし 世人(よひと)我等は」(柿本人麻呂歌集より)。現代語訳は「巻向の山辺を響かせて流れ行く川の泡のようなものだ。命ある身のわれわれは」。
 「児(こ)らが手を 巻向山は 常にあれど 過ぎにし人に 行き巻かめやも」(柿本人麻呂歌集より)。現代語訳は「巻向山は昔どおりにあるが、亡くなった人に手枕をさせてやれようか」。

著墓古墳

(写真は 著墓古墳)

巻向川

 弓月が岳と穴師山の間を流れるのが巻向川。巻向の山辺に音を響かせて水は流れているが、その水のような我ら人間の生なんて…と、巻向川の流れに人の世の無常を見た傑作とされる柿本の歌である。また、愛する女性の手を枕とする「巻」に表現した山への深い情をうかがわせている。
 巻向川の流れに沿った山麓が巻向と呼ばれる地域で、数多くの古墳が点在する巻向(纏向)遺跡が広がっており、大和朝廷が存在した地とする説があり、卑弥呼の邪馬台国畿内説の有力地となっている。また、万葉歌の秀歌が多く、柿本人麻呂の出身地が巻向の北の天理市櫟本とする説もある。

(写真は 巻向川)

 巻向遺跡群の中にある全長278mの前方後円墳の箸墓古墳は、三輪山の神・大物主命の妻・倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と伝えられている。日本書紀によると姫は記紀伝承上の第7代孝霊天皇の皇女で、巫女でもあったと言われている。夜だけ妻の所を訪れる妻問婚で、姫が「姿を見せて欲しい」と頼んだところ「翌朝、姫の櫛箱の中にいる」と言った。姫が櫛箱を開けたところ1匹の蛇がいたと伝えられている。
 この古墳は二上山の石を運んで昼は人が作り、夜は神が作ったと伝わり、卑弥呼の墓との説もあるが、卑弥呼の死亡時期と古墳の築造時期に大きなずれがあり、考古学的にはその可能性は薄い。

柿本人麻呂歌碑

(写真は 柿本人麻呂歌碑)


 
穴師の里(桜井市)  放送 5月23日(火)
 「痛足(あなし)川 川波立ちぬ 巻向の 弓月(ゆつき)が岳に 雲居(くもい)立てるらし」(柿本人麻呂歌集より)。現代語訳は「穴師川に川波が立っており、巻向山の弓月が岳にはきっと雲が立ち上がっていることだろう」。
 「あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ち渡る」(柿本人麻呂歌集より)。現代語訳は「山川の瀬が鳴り響くのに合わせて、弓月が岳に雲が立ち渡ってゆく」。
 穴師の里を流れる巻向川は穴師川とも呼ばれ、古くは痛足(あなし)の字が当てられた。天候の異変を不安げに詠んだこの歌は、万葉人の自然に対する感受性の豊かさをうかがわせる名歌である。

柿本人麻呂歌碑

(写真は 柿本人麻呂歌碑)

大兵主神社

 巻向川は弓月が岳と穴師山の間の車谷を西へ流れ、大和盆地の初瀬川へ注いでいる。車谷の名が生まれたように、中世以後には巻向川の流れを利用した水車が多く見られ、江戸時代には約30カ所に水車があったと言われている。
 巻向川の北側が穴師の里。穴師は鉱石を採掘する人たちのことを言うが、ほかに機織りをする人の綾師が訛ったとする説や悪風のことだとする説もある。鉱山で働く人や製鉄のたたらを踏む人には、足に病を持つ人が多いことから「痛足(あなし)」と表記したとされ、この地域が古代の鉱山地区だったと推測される。

(写真は 大兵主神社)

 この穴師の里の巻向山麓に鎮座する大兵主(おおひょうず)神社は、元は弓月が岳山頂に祀られていた上社・穴師坐(あなしにます)兵主神社を現大兵主神社の下社・穴師大兵主神社に合祀したもので、国土繁栄、平和安全の神とされている。三柱の神を祀る社殿は大きな建物の屋根の下に三つの社殿が並ぶ珍しい形を取っている。
 大兵主神社の参道脇の相撲神社は、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が垂仁天皇の時代に天覧相撲をとった所で相撲発祥の地。勝負は当麻蹶速があばら骨と腰の骨を折られて敗れ、死亡した。相撲神社には野見宿禰を祀り、後に当麻蹶速も祀られた。相撲は国土安泰、五穀豊穰を祈る神事でもあった。

相撲神社

(写真は 相撲神社)


 
悲嘆の衾道(天理市)  放送 5月24日(水)
 「衾道(ふすまじ)を 引手(ひきで)の山に 妹を置きて 山道(やまじ)行けば 生けりともなし」(柿本人麻呂)。現代語訳は「引手の山に妻の亡骸を置いて山路を帰ると、心に穴があいて生きた心地もしない」。
 柿本人麻呂が妻を失った悲しみを詠んだ歌で、引手の山に妻を葬り山道を肩を落として帰る人麻呂の寂しい後ろ姿が見えるようである。「衾道を」は枕詞説と地名説とがあり、引手の山は山の辺の道の東にそびえる竜王山であろうと言われている。

柿本人麻呂歌碑

(写真は 柿本人麻呂歌碑)

大和神社御旅所坐神社

 仁賢天皇の皇女で継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかのひめみこ)の墓と言われる衾田(ふすまだ)陵のあたりに衾と言う地名があったことから、このあたりの道を衾道(ふすまじ)と呼んだようだ。衾道は葬送の道であり、この付近には大小の古墳が点在しており、葬祭の地であったとも言える。
 この衾道の丘陵地帯を西に下り、上つ道の街道沿いの深い緑の森の中に鎮座する大和(おおやまと)神社は、日本全土の地主神である大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)を祀る古社で、毎年4月1日の例祭の「ちゃんちゃん祭」が有名である。

(写真は 大和神社御旅所坐神社)

 大国魂大神は崇神天皇の時代まで天照大神と共に宮中に祀られていたが、神威を畏れた天皇が天照大神を三輪山山麓の桧原神社に移して祀り、その後、伊勢神宮に移された。大国魂大神もこの時、この地に移されたことから伊勢神宮に次ぐ神威とされていた。
 飛鳥時代に唐へ派遣された遣唐使が航海の安全を祈願、無事に帰国できることを祈って詠んだ山上憶良の「好去好来の歌」が万葉集にある。戦艦「大和」の船長室に大国魂大神の分霊が祀られ、境内の末社・祖霊社には大和と共に戦死した英霊が祀られている。

大和神社

(写真は 大和神社)


 
石上神宮(天理市)  放送 5月25日(木)
 「石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神杉(かむすぎ) 神(かむ)さぶる 恋をも我は 更にするかも」(柿本人麻呂歌集より)。現代語訳は「石上の布留の神杉のように年老いた身の私。そんな私がまた恋をしてしまった」と言う人麻呂老いらくの恋の歌。
 山の辺の道は桜井市の海石榴市跡から奈良市まで通じる約26kmの道だが、現在、多くのハイカーたちが歩く山の辺の道は、社寺や史跡、歌碑などが多い桜井市から天理市の石上(いそのかみ)神宮までの約15kmで、奈良市まで通して歩く人は少ない。

石上神宮

(写真は 石上神宮)

七支刀

 布留山の麓のうっそうとした杉木立の中に鎮まる石上神宮は、日本最古の神社のひとつで、もとは物部氏の総氏神。祭神は神武天皇東征の時、邪神を払った布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と言う霊剣で、元は宮中に祀られていたが、崇神天皇がこの地に埋めて禁足地としたのがこの神社の始まりと伝えれている。この禁足地は石柱の瑞垣で囲まれ聖域となっている。
 この社には本殿がなかったが、明治時代末に本殿を建設する時に地下から石室が発見され、石室内からは神剣や武具、勾玉、装身具などが見つかった。

(写真は 七支刀)

 石上神宮には古代から多くの武器類が保存されており、大和朝廷の武器庫の役割を持っており、朝廷の軍事担当だった物部氏がこうした武器類を管理していた。
 石上神宮に古くから伝わる国宝の七支刀(しちしとう)は、長さ74.8cmで鹿の角のように左右にそれぞれ3本の支刀がある独特な形をした刀。刀身の両側に61字の金象嵌(きんぞうがん)文字が刻まれており、この銘文から朝鮮の百済王から献上されたものと見られている。また、鎌倉時代前期に建てられた拝殿も国宝に指定されているほか、摂社・出雲建雄神社拝殿も国宝。

神杉

(写真は 神杉)


 
多武峯・談山神社(桜井市)  放送 5月26日(金)
 「ふさ手折(たお)り 多武(たむ)の山霧 繁みかも 細川の瀬に 波騒きける」(作者不明)。現代語訳は「多武の山霧が深いからでしょうか、細川の瀬に波が騒いでいます」。多武峰に発して飛鳥を流れる細川の下流に立つ女性が、瀬音の高まりに上流の天候をおもんばかる歌にことよせて「私の心に恋のさざ波が立つ」と舎人皇子(天武天皇の皇子)に気持ちを伝える。
 「ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手(ころもで)の 高屋(たかや)の上に たなびくまでに」(舎人皇子の返歌)。現代語訳は「高い建物の上にたなびく霧のように私の心も動かされているよ」と言うことだろうか。

十三重塔

(写真は 十三重塔)

本殿

 多武の山は多武峯のことで、多武峯から飛鳥へ流れている細川は現在の冬野川。石舞台から川沿いに多武峯へ登るコースを取ると、今も川の瀬音が耳に心地よく、雨あがりなどは多武峯はすっかり霧に包まれ、この歌の通りの景色が現れる。
 多武峯に鎮座する談山神社は大化の改新を断行した藤原鎌足を祀る。中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)は、専横が目に余った蘇我氏打倒の談合を皇極4年(645)多武峯で行い、1ヶ月後に飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち大化の改新を成し遂げた。

(写真は 本殿)

 二人が談合した多武峯を「談(かたら)い山」とか「談所(だんじょ)が森」などと呼び、談山神社の名称の由来となった。
 談山神社は留学先の中国・唐から天武7年(678)に帰国した鎌足の長男・常慧が、摂津の阿威山(現茨木市)に葬られていた父・鎌足の遺骨を多武峯に移し、十三重塔を建立してその下に葬り妙楽寺と称し、塔の東に聖霊院を建て鎌足の木造を安置したのが始まり。明治維新後の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教色を排し、一山をあげて神社に転じて談山神社となった。

多武峯

(写真は 多武峯)


◇あ    し◇
箸墓古墳JR桜井線巻向駅下車徒歩15分。 
JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅からバスで箸中下車徒歩7分。
大兵主神社、相撲神社JR桜井線巻向駅下車徒歩30分。 
大和神社JR桜井線長柄駅下車徒歩8分。 
石上神宮JR桜井線、近鉄天理線天理駅下車徒歩30分。 
JR桜井線、近鉄天理線天理駅からバスで石上神宮前下車
徒歩3分。
談山神社JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅からバスで談山神社下車
徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
桜井市役所商工観光課・桜井市観光協会0744−42−9111
天理市役所商工観光課0743−63−1001 
大兵主神社、相撲神社0744−42−6420 
大和神社0743−66−0044 
石上神宮0743−62−0900 
談山神社0744−49−0001 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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