月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宇陀市 

 宇陀市は奈良県中央東部の大宇陀町、榛原町、菟田野町、室生村の4町村が、2006年1月1日に合併して誕生した。市内を伊勢街道が通り、古くから宿場町、商人の町として繁栄した地域である。「国の始まりは大和の国、郡(こおり)の始まりは宇陀郡(うだこおり)」と古謡に謡われたように、史跡や遺跡、古社寺が多い所でもある。


 
伊勢街道・宗祐寺(旧榛原町)  放送 6月19日(月)
 旧榛原町は大和から伊勢を目指す伊勢街道の宿場町としてにぎわった所。長谷寺のある桜井市初瀬方面から進んできた街道は、榛原・萩原宿の「札の辻」で二手に分かれる。東北へとるのが旧室生村三本松から名張市を経て伊勢に向かう「あを越え道」と呼ばれる伊勢表街道。南進するのが旧榛原町高井から御杖村を経て伊勢に通じる伊勢本街道。
 「左あを越え道」「右伊勢本街道」の石の道標がある札の辻には、旧旅籠の「あぶらや」が往時そのままのたたずまいを見せ、榛原を代表する風景となっている。

あぶらや

(写真は あぶらや)

絹本著色仏涅槃図(宗祐寺)

 江戸時代中期の明和9年(1772)に松阪の国学者・本居宣長が、吉野へ行った時、往復ともこの「あぶらや」に宿泊したことが、紀行文の「菅笠日記」に記されている。
 札の辻からすぐのあを越え道沿いの宗祐寺は、推古天皇16年(608)に毘沙門天(多聞天)を勧進して創建され、多聞院と称していた。天承年間(1131〜32)に融通念仏宗の開祖・良忍上人が多聞院を訪れ、ここに住んで寺を融通念仏宗に改め融通念仏宗を広めた。

(写真は 絹本著色仏涅槃図(宗祐寺))

 その後、多聞院は次第に衰微したが、戦国時代の永禄2年(1559)織田信長の家臣・服部宗祐が、武士の身分を捨てて出家、多聞院の住職となった。信長や信徒らの浄財で本堂などを再建、宗祐寺と改めた。
 宗祐寺に伝わる寺宝の絹本着色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず=国・重文)は、鎌倉時代の作で涅槃図の系統を知るうえで貴重なものとされている。また、木造多聞天像(国・重文)も平安時代の作風をよく伝えていると言われ、本堂の天井には百八観音の天井絵が格天井に描かれている。境内の福寿海の庭は寺を訪れる参詣者の目を楽しませている。

百八観音の天井絵(宗祐寺)

(写真は 百八観音の天井絵(宗祐寺))


 
万葉の香り・かぎろひの丘
(旧大宇陀町) 
放送 6月20日(火)
 旧大宇陀町は古代に宮廷の狩猟場の「阿騎野」があった所。柿本人麻呂が詠んだ「ひんがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ」は万葉集の秀歌で、阿騎野の「かぎろひの丘 万葉公園」にこの歌碑が立っている。
 人麻呂は軽皇子(後の文武天皇)の阿騎野での狩に供をした際、雄大な夜明けの情景をこう詠んだ。「かぎろひ」には諸説あるが、大宇陀では「厳寒のよく晴れた夜明けの約1時間前に地平線上に現れる、太陽光線のスペクトルによる色鮮やかな陽光」としている。

万葉公園 かぎろひの丘

(写真は 万葉公園 かぎろひの丘)

柿本人麻呂像(阿騎野・人麻呂公園)

 このかぎろひを天文学的に見ると、この歌が詠まれたのは持統6年(692)陰暦11月17日と推定され、毎年この日の早朝、かぎろひの丘で「かぎろひを観る会」が催される。全国から熱心な万葉ファンが参加し、焚き火で囲み、笹酒、芋汁などで暖を取りながらかぎろひの現れるのを待つが、その日の気象条件によって必ず現れるとは限らない。
 かぎろひの丘の近くには「阿騎野・人麻呂公園」があり、故中山正實画伯の「阿騎野の朝」の壁画に描かれた人麻呂の乗馬姿の像が立っている。

(写真は 柿本人麻呂像
(阿騎野・人麻呂公園))

 阿騎野・人麻呂公園がある所は、平成7年(1995)の発掘調査で弥生時代や飛鳥時代の堀立柱建物や竪穴式住居、石敷溝などの遺構が出土した。これらの出土遺構から古代の狩猟、薬猟の場・阿騎野の中心施設があったことが証明され、今は遺跡公園として保存され、堀立柱建物や竪穴式住居などが復元されている。
 旧大宇陀町は城下町として発展すると同時に、宿場町、商人町として栄えた所で、今も古い町家の薬商や造酒屋などがその繁栄ぶりをしのばせている。

久保酒造

(写真は 久保酒造)


 
薬の町(旧大宇陀町)  放送 6月21日(水)
 旧大宇陀町は南北朝時代から豪族・秋山氏がこの地方に勢力を持っていた所で、町の東にそびえる標高472mの城山山頂付近には、秋山氏の本城であった宇陀松山城跡がある。天正年間(1573〜92)以後は、豊臣系大名の居城となり城下町として整備された。今なお江戸時代の面影をとどめる古い町並みには、当時の町家が随所に残っている。
 松山城をしのべる唯一の建物が、松山西口関門(国・史跡)である。壁の部分を除いてすべて黒く塗られていることから黒門と呼ばれ、城の大手門にあたり南へ大手筋の通りが延びていた。

松山城跡

(写真は 松山城跡)

森野賽郭翁像(森野旧薬園)

 また、旧大宇陀町は薬の町として知られ、古い町並みには薬の看板を掲げた薬商だった町家が残っている。「元祖吉野葛 大葛屋」の看板がかかる旧家には森野旧薬園がある。森野家は吉野葛の製造が本業だったが、享保14年(1729)徳川8代将軍・吉宗が、国内の薬草を探させるために幕府の薬草御用係を大和に派遣した。
 この時、薬草にくわしかった大葛屋の11代当主・藤助(賽郭)が、幕府の薬草採取を手伝った。その後も近畿一円にわたって薬草採取を手伝い、その献身的な協力が認められ、幕府直轄の小石川植物園から薬草の苗、種子を下げ渡され、自宅の裏山に植えたのが薬園の始まりで、今も250種ほどの薬草が植えられている。

(写真は 森野賽郭翁像(森野旧薬園))

 軒先に立派な銅板葺唐破風付看板を掲げている町家は、江戸時代末期に建築された旧薬商・細川家で、今は大宇陀町歴史文化館「薬の館」に衣替えして、薬関係の資料や町の歴史資料を展示している。細川家の子孫が明治時代に藤沢家の養子となり、旧藤沢薬品工業(現アステラス製薬)を創設した。館内には旧藤沢薬品工業関係の資料を中心に、町内の薬商の看板などが展示されている。
 葛製造の森野家も新工場のそばに「葛の館」をオープンし、茶房葛味庵では本場吉野葛を使った葛きり、葛もち、葛湯などが味わえ、売店では吉野葛の菓子などが求められる。

百味箪笥(宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」)

(写真は 百味箪笥
(宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」))


 
宇太水分神社(旧菟田野町)  放送 6月22日(木)
 水は生命の源であり、農耕には欠かすことのできない大切なものである。水分(みくまり)とは「水配り」を意味し、農業の盛んな大和にはきれいな水を分配する御神徳ある水分神社が多い。崇神天皇の勅命で創建されたと伝わる宇太水分(うだみくまり)神社は、大和四水分のひとつに列せられている。
 丹塗りの鮮やかな国宝の本殿は、向かって右から第一殿、第二殿、第三殿の三棟が連なり、それぞれに天水分(あめのみくまり)神(第一殿)、速秋津彦命(はやあきつひこのみこと・第二殿)、国水分(くにのみくまり)神(第三殿)が祀られている。

宇太水分神社

(写真は 宇太水分神社)

夫婦杉(宇太水分神社)

 瑞垣に囲まれた本殿は鎌倉時代末期の元応2年(1320)建造の春日造で、随所にさまざまな彫刻の飾り物が施され、板壁には花鳥図が描かれている。国宝に指定されいる神社建築は室町時代から江戸時代にかけてのものが多いが、その中で宇太水分神社の本殿は時代的に古い部類に入り、貴重な建築物とされている。
 摂社の春日神社と宗像神社は、室町時代の建立でいずれも国の重要文化財に指定されている。境内には杉の古木や常緑樹、落葉樹ががうっそうと茂り、その参道脇に源頼朝が幼少のころ、大将軍になれることを祈願して植えたと伝えられる頼朝杉がある。現在の頼朝杉は2代目。

(写真は 夫婦杉(宇太水分神社))

 10月第3日曜日に執り行われる例大祭では、神社脇を流れる芳野川上流の惣社水分神社から、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)が鳳輦神輿(ほうれんみこし=国・重文)で宇太水分神社まで渡御する。この祭は平安時代初期の昌泰元年(898)に始まったとされる古い歴史を誇る祭で、五穀豊穰、水配りに感謝して、往復約12kmを練り歩く。
 鳳輦神輿が到着するころには、宇太水分神社境内には各地区から6基の太鼓台や子供みこしが練り込み、威勢のよい掛け声とともに境内を所狭しと練り回り、祭は最高潮に達する。

黒漆金銅装神輿(惣社水分神社)

(写真は 黒漆金銅装神輿(惣社水分神社))


 
室生山上公園・芸術の森
(旧室生村) 
放送 6月23日(金)
 「女人高野」として知られる室生寺は、奥深い山と渓谷に囲まれた大自然の中に堂塔がたたずみ、山林修行の道場として多くの僧を育ててきた。屋外に建つわが国で最小の五重塔(国宝)や本堂の灌頂堂(国宝)などの堂塔建築、国宝の釈迦如来立像や十一面観音菩薩立像、釈迦如来座像のほか、多くの仏像が堂塔内に安置され、仏教美術の宝庫とも言われている。
 女人の済度をはかる真言道場として、広く門戸を開いて女性の参詣を許したことから、女性たちの篤い信仰を集め親しまれている寺でもある。

五重塔(室生寺)

(写真は 五重塔(室生寺))

室生山上公園 芸術の森

 こうした室生寺が古くから多くの人々の心のよりどころとして愛されてきたように、旧室生村は豊かな自然や歴史文化遺産を現代から未来へ伝えようと、アートアルカディア計画のシンボル事業として「室生山上公園芸術の森」の建設を進め、2006年6月1日にオープンした。
 この芸術の森は室生出身の彫刻家・故井上武吉氏の理想と遺志を継いだ、イスラエル出身の現代彫刻の第一人者のダニ・カラヴァン氏のプランによるもので、室生寺をはるかに見下ろす高台の緑の中にモニュメントの数々が配されている。

(写真は 室生山上公園 芸術の森)

 この芸術の森は自然や環境を損ねるないように整備し、公園全体がひとつの芸術作品であることをコンセプトに作られている。約7haの敷地に配置されたモニュメントは、自然に調和した公園空間を創出しており、人間の五感を刺激し、心を癒してくれる作品でもある。
 公園内を伊勢、室生寺、長谷寺、三輪山、箸墓古墳、二上山をつなぐ「太陽の道」と言われている北緯34度32分の軸線が東西に通っており、この軸線を太陽の塔の彫刻が表現している。伊勢表街道沿いにある道の駅・宇陀路室生「木もれ陽の森」にも井上武吉氏デザインのモニュメントがある。

道の駅「宇陀路室生」

(写真は 道の駅「宇陀路室生」)


◇あ    し◇
あぶらや(旧旅籠)近鉄大阪線榛原駅下車徒歩5分。 
宗祐寺近鉄大阪線榛原駅下車徒歩8分。 
万葉公園 かぎろひの丘近鉄大阪線榛原駅からバスで大宇陀高校下車徒歩3分。
阿騎野 人麻呂公園近鉄大阪線榛原駅からバスで大宇陀高校下車徒歩7分。
宇陀松山城跡近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩30分。 
松山城西口関門(黒門)近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩5分。 
森野旧薬園近鉄大阪線榛原駅からバスで大宇陀下車徒歩5分。 
宇陀市大宇陀歴史文化館・
薬の館
近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩10分。
葛の館近鉄大阪線榛原駅からバスで西山下車徒歩3分。 
宇太水分神社近鉄大阪線榛原駅からバスで古市場水分神社前下車徒歩すぐ。
室生寺近鉄大阪線室生口大野駅からバスで室生寺前下車徒歩すぐ。
室生山上公園芸術の森近鉄大阪線室生口大野駅からバスで室生寺前下車徒歩20分。
道の駅・宇陀路室生
「木もれ陽の森」
近鉄大阪線三本松駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
宇陀市商工観光課0745−82−8000 
榛原観光協会0745−82−1301 
あぶらや(旧旅籠)0745−82−3590 
宗祐寺0745−82−0029 
大宇陀観光協会0745−83−2251 
森野旧薬園0745−83−0002 
宇陀市大宇陀歴史文化館・
薬の館
0745−83−3988
葛の館0745−87−3011 
菟田野観光協会0745−84−2521 
宇太水分神社0745−84−2613 
室生観光協会0745−92−2001 
室生寺0745−93−2003 
室生山上公園芸術の森0745−93−4730 
道の駅・宇陀路室生
「木もれ陽の森」
0745−97−2200

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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