月〜金曜日 18時54分〜19時00分


高島市 

 高島市は2005年1月1日、マキノ町、今津町、安曇川町、高島町、新旭町、朽木村の6町村が合併して誕生した。比良山系の山麓から琵琶湖岸の北西部分のほとんどを占めるこの地方は、湖西特有の歴史と風土、産業、文化、人情を持ち合わせている。


 
風薫る里  放送 7月10日(月)
 琵琶湖の北西岸の高島市新旭町は「風車と花菖蒲の町」として知られている。高さ18m、直径15mの6枚羽根の巨大な風車がシンボルの「道の駅・しんあさひ風車村」は、湖面を渡ってくる風で回る3基の大風車とその周囲の花々がオランダの農村を思わせる風景を作り出している。
 この風車によって発電された電力は、園内の沼の水面で水車を回し、水中へ空気を送り込んで水質の浄化に役立っている。

しんあさひ風車村

(写真は しんあさひ風車村)

花しょうぶ園

 風車村の西側にある花菖蒲園が、この風車と花菖蒲の町・新旭町の自慢。5月下旬から6月30日までの開園中は350種、100万本の花菖蒲が咲き乱れ、訪れる大勢の人たちの目を楽しませてくれる。花の色は白、ピンク、黄、紫と多彩で、花の直径が18cmもある大輪の花菖蒲もある。
 2.2haと言う広い花菖蒲園の園内を歩き疲れた人たちのためには足湯がある。しかもこの足湯がこの花園ならではの菖蒲足湯だと言うからお客さんたちは大喜び。

(写真は 花しょうぶ園)

 しんあさひ風車村には、このほかキャンプ場、遊具で遊べる「わらべのもり」や「芝生広場」、喫茶とレストランの「アイリスハウス」もあって、子供連れでも楽しめる。
 花菖蒲が休園しているこれからの期間はサマーキャンプのシーズンで、バーベキューなどを楽しむ家族連れや若者たちでにぎわう。冬になると風車村から北へ少し足を伸ばすと、水鳥観察センターが琵琶湖岸にあり、カモやカイツブリ、コハクチョウなど、冬の渡り鳥が観察できる。

足湯

(写真は 足湯)


 
琵琶湖周航の歌  放送 7月11日(火)
 「われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと 昇る狭霧や さざなみの 志賀の都よ いざさらば」の歌詞で知られる琵琶湖周航の歌は、湖西北部の港町だった高島市今津町で生まれた。
 大正6年(1917)6月、旧制第三高等学校(現京都大学)ボート部にいた小口太郎は、ボートによる琵琶湖周航の2日目の夜、今津の宿で琵琶湖周辺の風光と、それに寄せる我が思いを叙情豊かに歌った詩をクルー仲間に披露した。

琵琶湖

(写真は 琵琶湖)

琵琶湖周航の歌資料館

 その前々年の大正4年に20歳の吉田千秋が、英詩「Waterlilies」を訳して曲をつけた「ひつじぐさ」の歌が当時、学生たちの間で愛唱されていた。小口の詩を「ひつじぐさ」のメロディにのせて歌ってみたところ、よく合ったと言うのが「琵琶湖周航の歌」誕生のいきさつである。
 小口は27歳、吉田は24歳と言う若さで早世したが、二人が残したこの「琵琶湖周航の歌」は、多くの歌手によって歌いつがれてきた。約90年後の現代も人びとに口ずさまれ、みずみずしく生きている。

(写真は 琵琶湖周航の歌資料館)

 「琵琶湖周航の歌」誕生の町・今津町に琵琶湖周航の歌資料館がある。館内には作詞者・小口太郎、作曲者・吉田千秋に関する資料のほかに、琵琶湖周航に使われたボートと同じフィックス艇などが展示されている。
 資料館に展示されている小口が今津の宿舎から級友に出したはがきからも、この歌が生まれたバックグラウンドがうかがえる。ヒツジグサはスイレン科の植物で、日本に自生する唯一のスイレンで、未(ひつじ)の刻(午後2時ごろ)に開花することからこの名がついた。

小口太郎のハガキ

(写真は 小口太郎のハガキ)


 
大溝城跡  放送 7月12日(水)
 織田信長の甥・織田信澄は、新庄城(現高島市新旭町)から良港を持ち、軍事上も水陸の交通の要衝の地であるここ高島市高島町勝野地区に、戦国時代の天正6年(1578)に大溝城を築き初代城主となった。
 大溝城は琵琶湖の入り江である乙女ヶ池を外堀、城堀を内堀とする水城で「鴻湖(こうこ)城」とも呼ばれていた。築城の縄張りは明智光秀が担当したと言う。新庄や南市(現高島市安曇川町)から商家や寺院を移して城下町も作った。

大溝城下古図(江戸時代・高島歴史民俗資料館 蔵)

(写真は 大溝城下古図(江戸時代・高島歴史民俗資料館 蔵))

大溝城跡

 だが、信澄の妻が光秀の娘であったため、天正10年(1582)の本能寺の変の後、謀反の疑いをかけられ、織田信孝、丹羽長秀らに攻められ自害して滅んだ。
 その後、城主は丹羽長秀、加藤光泰、生駒親正、京極高次と数年毎に交代した。京極高次の時、信長に攻め滅ぼされた浅井長政の3人の娘である茶々(豊臣秀吉側室・淀殿)、初(京極高次夫人)、江(徳川秀忠夫人)を預かっている。

(写真は 大溝城跡)

 元和5年(1619)伊賀上野から移封された分部氏が明治維新まで12代にわたって城主を務め、この地を陣屋とした。
 今は琵琶湖岸に近い小高い森に苔むした石垣と堀だけが残る大溝城跡は、城の建物は跡形もない。だが、城跡近くの町内には城下町の面影が随所に見られ、勝野、船入町、長刀町、蝋燭町、江戸屋町、伊勢屋町など、当時の町名が残っている。中でも勝野地区の通りの中央にある水路は、庶民生活に欠かせない施設のひとつだった。

乙女ヶ池

(写真は 乙女ヶ池)


 
高島虎斑石硯  放送 7月13日(木)
 高島市安曇川町の伝統工芸品の高島虎斑石硯(たかしまとらふいしすずり)は、表面に虎の表皮の縞模様に似た美しい文様が浮き出された硯。
 安曇川町南西の阿弥陀山(453.6m)に産出した自然の虎斑石を原材料とするため、ふたつと同じ文様のものはない。この硯は400年前の天正年間(1573〜92)に織田信長の比叡山焼き打ちの際、信長に追われて万木(ゆるぎ)の森(安曇川町)に隠れ住んだ万木城主・能登守高木の末孫・五郎右衛門貞次が、阿弥陀山で虎斑石を発見、領民たちに硯作りを始めさせたのがその起源とされている。

高島虎斑石硯

(写真は 高島虎斑石硯)

福井永昌堂

 この虎斑石は中国硯の原石となっている玄昌石によく似た粘板岩で、硬からず柔からず、石面がよくそろっているので墨をすったときに墨の粒子が適当な大きさに揃い、水持ちがよいのが特徴で硯には最適な石だった。
 江戸時代に入って高島虎斑石硯が広く世に知られるようになり、関東や北陸、京都、大坂などで売られるようになった。明治時代に入って阿弥陀山で虎斑石の鉱脈が発見されて、硯作りは全盛期を迎えたが、その後は筆記用具の変遷と原石が産出されなくなったことで、今、安曇川町で硯作りを続ける職人さんは一人となった。

(写真は 福井永昌堂)

 安曇川町で高島虎斑石硯作り最後の職人となったのが福井正男さん(81歳)。
阿弥陀山で虎斑石が産出されなくなってしまってからは、他の原石を使って硯作りを続けている。20種類のノミを使って石を硯の形に削って文様を彫り、砥石で仕上がるまでには約24の工程を経る。
 福井さんは「高齢なのでいつまで続けられるかわからない。虎斑石もなくなり、後継者もいないので高島虎斑石硯作りの技は私で終わりでしょう」と言う。福井さんの店にはもう作られなくなった貴重な虎斑石硯が、美術工芸品として飾られている。

手彫

(写真は 手彫)


 
鯖街道 放送 7月14日(金)
 京都府と接する高島市朽木(旧朽木村)は、若狭の小浜と京を結ぶ鯖街道の中間点に位置する宿場地として栄えた所。鯖街道は若狭の小浜と京の都を結んでいた街道で、若狭で捕れた鯖が都の人たちのご馳走として運ばれたルートである。
 若狭の浜にあがった鯖に一塩して、飛脚が一昼夜かけて京まで運ぶと、ちょうどよい塩加減になっていた。いつしか都人は鯖が運ばれてくるこのルートを「鯖の道」「塩鯖の道」と呼ぶようになった。

鯖ずし

(写真は 鯖ずし)

なれずし

 この街道は鯖だけでなく、日本海の海産物が都へ運ばれたルートでもあった。奈良の平城宮跡から出土した木簡に、天皇に食料を献上する御食国(みけつくに)だった若狭から多くの魚介類や塩が送られてきたことが記されている。
 朽木の名物に鯖のなれずしがある。鯖の内臓を取り除き、塩漬けにしたあと鯖の腹にご飯などを詰め込み、樽に漬け込んで発酵させたのがなれずし。かつては朽木のどの家庭でもこのなれずしを作っており、それぞれの家庭の味があり、同じ味のなれずしはないと言われた。

(写真は なれずし)

 鯖が運ばれ、旅人の往来が盛んで宿場町としてにぎわっていた当時の面影が街道沿いに残っている。当時の民家の格子や柱には、湿気や虫から木材を守る紅殻が塗られている。
 木造3階建てのアンティークな洋館「丸八百貨店(国指定登録文化財)」は昭和8年(1933)建築で、かつては村人の生活物資が売られていた。現在は1階が観光客用の無料休憩所と特産品などの売店、2階は喫茶室、3階は会議室とキャラリーで、朽木の歴史や文化資料を展示する一方、地元の人々の交流の場ともなっている。

丸八百貨店

(写真は 丸八百貨店)


◇あ    し◇
道の駅・しんあさひ風車村JR湖西線新旭駅からバスでしんあさひ風車村下車すぐ。
JR湖西線新旭駅前からレンタサイクル利用も可。
琵琶湖周航の歌資料館JR湖西線近江今津駅下車徒歩2分。 
大溝城跡JR湖西線近江高島駅下車徒歩5分。 
福井永昌堂(高島虎斑石硯)JR湖西線安曇川駅下車徒歩10分。 
丸八百貨店JR湖西線安曇川駅からバスで朽木支所前下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
新旭町観光協会0740−25−6565 
道の駅・しんあさひ風車村0740−25−6464 
琵琶湖周航の歌資料館
(今津町観光協会)
0740−22−2108
高島観光協会0740−36−8135 
安曇川町観光協会0740−32−1002 
福井永昌堂(高島虎斑石硯)0740−32−0755 
朽木観光協会0740−38−2398 
丸八百貨店0740−38−3711 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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