月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・東山六波羅あたり 

 東山連峰の西麓に広がる京都市東山区は、有名な古社寺が数多く、ほかに円山公園あり、祇園あり、清水焼ありで、最も京都らしい所とも言える。その東山区の中心地でもある六波羅あたりを散策してみた。 


 
六道珍皇寺  放送 7月31日(月)
 平安時代、東山の麓の鳥辺野(とりべの)一帯は、桓武天皇が平安遷都の際にこのあたりを一般庶民の亡き骸を葬る葬送の地とし、死者との最後の別れをした所で冥界の入り口とされた。
 京都で「六道さん」の名で親しまれている六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、平安時代前期の延暦年間(782〜806)に弘法大師・空海の師で、奈良・大安寺の慶俊が開創したとされ、古くは愛宕寺と呼ばれていた。寺の建立にはほかに諸説があり定かでない。冥界入り口の寺にふさわしく、地獄極楽を描いた「熊野観心十界図」があり、住職がこの十界図を前に法話をしてくれる。

本尊 薬師如来坐像(秘仏)

(写真は 本尊 薬師如来坐像(秘仏))

珍皇寺参詣曼茶羅図

 仏教では人間は死後に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を輪廻すると説かれ、この世とあの世の分岐点である六道の辻が、六道珍皇寺近くにあり、かつては冥界への入り口と信じられていた。
 京都では8月13日から16日の五山の送り火で終わる盂蘭盆(うらぼん)に、各家庭で先祖の霊を祀って供養する。その前の8月7日から10日にかけて冥土に最も近い珍皇寺の境内は、祖先の精霊を迎える人びとが大勢訪れ、霊をこの世に呼び戻すための「迎え鐘」をつく。これを「六道まいり」とか「お精霊(しょうらい)さん迎え」とか呼んでいる。

(写真は 珍皇寺参詣曼茶羅図)

 珍皇寺境内の閻魔(えんま)堂には閻魔大王と並んで木像が安置されている小野篁(おののたかむら)は、昼は朝廷に務め、夜になると本堂うしろの井戸から冥土へ通い、閻魔の庁で死者の裁きに関わったと言う。閻魔大王の前で小野篁に弁護してもらい、あの世からこの世に帰ってこられたと言う人物まで現れ、この伝説がまことしやかに伝えられていた。
 篁は平安時代初期の官僚で、武芸のみならず学者、詩人、歌人としてもその才能が高く評価され、高位の参議にまでのぼって人物だったが、奇行の多い人でもあったとされている。

小野篁

(写真は 小野篁)


 
焼き物の町  放送 8月1日(火)
 京の伝統工芸、清水焼はもともと東山の麓の斜面を利用して焼かれていたので、五条坂から五条通のあたりには今も陶芸の店が目につく。五条坂付近の傾斜地は登り窯に最適で、多くの窯が築かれ焼き物が盛んだった。戦前までは窯元の煙突から黒々とした煙があがっていた。戦後になって市街化が進み大気を汚染する煙害が問題となり、電気窯、ガス窯に転換され、登り窯は姿を消した。
 五条坂付近でほとんど見ることができなくなった登り窯が、藤平陶芸に残されている。この巨大な登り窯は明治28年(1895)ごろに築かれ昭和43年(1968)ごろまで使われていた。

五条坂

(写真は 五条坂)

藤平陶芸

 京都では室町時代から茶の湯が始まり、茶器の需要が高まって安土桃山時代から焼き物作りが盛んになり、一大生産地となった。今も清水寺の参道・五条坂には大小の陶磁器店が軒を連ね、参詣者を相手に売り込んでいる。
 雅な焼き物の世界だった清水焼も、第2次世界大戦中は苦難の時代であった。鉄不足を補うため金属の代用品として陶製手榴弾の製造が清水焼の窯元に命じられた。これらの陶製手榴弾は敗戦後に処分されたが、藤平陶芸では所蔵品を整理していたところ、256個の陶製手榴弾が見つかった。終戦間際には陶製のロケット用燃料装置も製作しおり、陶製手榴弾とともに藤平陶芸の「清水焼登り窯資料館」で展示している。

(写真は 藤平陶芸)

 藤平陶芸の登り窯とこの登り窯の近くで見つかった上絵を焼き付ける仕上げ用窯の錦薪窯と合わせて、店を訪れた人たちに公開しており、登り窯の傍らの空間は音楽会などのイベントにも利用されている。
 藤平陶芸では一般の人たちに陶芸の楽しさを体験してもらおうと、経験に応じて多様な体験コースを用意している。本格的な陶芸教室も開いており、築窯110年の登り窯の傍らで、誰もが気軽に清水焼の“芸術作品”を生み出すことができる。また、清水焼登り窯資料館には、湯呑み、抹茶碗、花器、香炉、陶額など、清水焼伝統の逸品も展示されている。

登り窯跡

(写真は 登り窯跡)


 
京扇子のふるさと   放送 8月2日(水)
 うちわは6〜7世紀の飛鳥時代に中国から伝わったが、扇子は平安時代初期に京都で創作されたと言われている。ヒノキの薄板をとじて作った桧扇(ひおうぎ)が、現在の扇子の原形となった。また、コウモリが羽を広げた形から思いついたとも言われ「蝙蝠扇(かわほりおうぎ)」の呼び名もある。
 五条大橋の西詰めに京都扇子団扇商工協同組合が建立した白御影石の扇塚がある。このあたりは平敦盛の妻が平家滅亡後、敦盛の菩提を弔うため出家して扇を作ったと伝えられる御影堂があった所で、扇発祥の地とされている。

扇塚

(写真は 扇塚)

扇骨干し

 京都の伝統産業の中でも扇子作りは、部分ごとに分業化されている典型的な産業と言える。扇子の骨を作る「扇骨」から始まって紙や布の部分の作業では「上絵」「箔(はく)押し」「木版刷り」「折り」「仕上げ」の6部門に分かれ、それぞれの工程にその道一筋の職人がいる。
 鴨川の東側、大国町通の七条あたりはかつて「骨屋町」と呼ばれ、扇骨作りの職人が多く住んでいた。晴れた日には扇骨を乾燥するため、道端にずらりと並べられていた。今は数人の扇骨職人が残るのみとなったが、その技は衰えることなくますます磨きがかかっている。

(写真は 扇骨干し)

 扇骨職人のひとり、滝下勝明さんは18歳の時からこの道に入ったベテランの扇骨師。扇子の長さに切った細い竹を数百枚すき間なく並べ、熊手のような独特な包丁で一気に薄く削り取っていく手際は、まるで手品のような見事さだ。こうした包丁30種、ノミ20種を使って独特の形の扇骨に仕上げていく。
 扇子は貴族たちのアクセサリーや舞扇、仕舞扇など伝統芸能の小道具などとしても発展、大正時代から涼を取る扇子として大量に生産されるようになった。最近はクーラーの普及で需要は減ったが、室内装飾やアクセサリーとして使われたり、海外への土産品として重宝がられている。

あこつけ

(写真は 扇骨作り)


 
夏を楽しむ  放送 8月3日(木)
 盆地特有のなんとも言えない京都の暑さをしのぎながら、むしろそれを楽しもうと、古くから涼しさの演出に工夫を凝らしてきたのが京都の人たち。
 町家では夏になるとふすまや障子をはずして、風通しのよい竹製の簾(すだれ)や衝立に替える。御殿などで使われた高級簾は「御簾(みす)」と呼ばれ、簾の四方に絹地のへりや巻き上げて金具に引っかける房がついている。また、夏になると鴨川右岸に並ぶ料亭や旅館の納涼床も、暑い夏のひとときを川のせせらぎの涼しさを楽しもうとした知恵である。

応接間

(写真は 応接間)

客室

 五条大橋の東、鴨川左岸に面した料理旅館「晴鴨楼(せいこうろう)」は、江戸時代後期の天保2年(1831)の創業。屋号は「晴れた鴨川のほとりに建つ楼閣」を意味している。
 江戸時代から平成の今日まで、それぞれの時代を見つめてきた建物には重厚さを感じさせられ、お客を迎える玄関も雅な趣がある。内部には和の建物に洋の要素が取り入れられ、明治大正の浪漫を感じさせる造りの廊下や応接間がある。折上げ格天井の書院造りや数寄屋造りの客室は、京都ならではの雰囲気が漂う。7〜9月の盛夏の客室は簾、薄べりなど夏のしつらえが施されてすがすがしい。

(写真は 客室)

 浴室材では高級品と言われる高野槙をふんだんに使った浴場でひと風呂浴びて汗を流し、優雅な雰囲気の部屋でいただく料理はサッパリとした鱧(はも)落とし。
 夏の京料理と言えば鱧料理と言われるほど、京都の人たちをはじめ関西人は、鱧落とし、鱧焼き、鱧しゃぶ、鱧すしなど、鱧料理を食べないと夏を迎えた気がしないと言う。生命力の強い鱧は、海に遠い京の夏の魚として重宝されてきた。夏になると料亭などの調理場から、鱧の骨を切るリズミカルな包丁の音が聞こえる。鱧料理の善し悪しはこの骨切りにあると言われる。

鱧の落とし

(写真は 鱧の落とし)


 
西国三十三カ所第17番札所
・六波羅蜜寺 
放送 8月4日(金)
 念仏を唱えている口から南無阿弥陀仏の六文字を表す、六体の阿弥陀が現れている空也上人立像(国・重文)は、教科書などで誰もが知っている。天暦5年(951)京に悪病が流行し、村上天皇は悪病退散の勅命を空也上人に下した。
 上人は十一面観音像を刻み、この観音像を車に乗せて市中を引き歩き、小梅干と結び昆布を入れた茶を病人に飲ませて病を鎮めたといわれている。この茶は現在も皇服茶として寺に伝わり、正月の3日間授与される。上人は悪病で亡くなった人を供養するため、お堂を建て十一面観音像(国・重文)を祀ったのが西光寺で、後に六波羅蜜寺となった。

空也上人

(写真は 空也上人)

本尊 十一面観音像(お前立ち)

 上人が鞍馬山で修行していた時、近くで鳴く鹿の声に心を癒され、その鹿を愛していた。だが、その鹿が猟師に射殺されたことを知り、この鹿の皮と角を請い受け、皮は裘(かわごろも)として身につけ、角は杖頭にして持ち歩き、生涯身辺から離さなかった。
 やせた身に鹿の裘をまとい、角をつけた杖をつき、わらじばきの上人が、京の町を「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら歩き、各地に井戸を掘り、農耕用の水利をはかり、橋を架け、建物を修理するなど、民衆の救済に努めた。この姿の上人を庶民は「市の聖(いちのひじり)」と呼び慕った。

(写真は 本尊 十一面観音像(お前立ち))

 六波羅蜜寺の寺域には平安時代後期に平家一門が邸宅を連ねたため、平家没落の折に寺が焼かれたが本堂は焼失をまぬがれた。鎌倉時代には六波羅探題が置かれたことなどから、度重なる戦乱の兵火に見舞われた。現在の本堂(国・重文)は南北朝時代に再建されたもので、ほかに仏像など多数の文化財を所蔵している。
 六波羅蜜とは迷いの世界から悟りの世界に至るための六つの修行の布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、智慧を意味し、たとえ親殺しなど五つの大罪を犯した者でも観音様と縁を結び、六波羅蜜を日々実践することで罪は消えると説いている。御詠歌も「おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば」と、その功徳を詠んでいる。

本堂

(写真は 本堂)


◇あ    し◇
六道珍皇寺京阪電鉄五条駅下車徒歩15分。 
京都市バス清水道下車徒歩5分。
藤平陶芸本社京阪電鉄五条駅下車徒歩10分。 
京都市バス五条坂下車徒歩3分。
料理旅館・晴鴨楼京阪電鉄五条駅下車すぐ。 
京都市バス五条京阪前下車すぐ。
六波羅蜜寺京阪電鉄五条駅下車徒歩10分。 
京都市バス清水道下車徒歩8分。
◇問い合わせ先◇
六道珍皇寺075-561-4129 
藤平陶芸本社075-561-3979 
料理旅館・晴鴨楼075-561-0771 
六波羅蜜寺075-561-6980 

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