月〜金曜日 18時54分〜19時00分


特選“伝統の手技”

 近畿には長い歴史に裏打ちされた伝統工芸の数々が今も各地に残っている。匠たちは先祖代々より受け継がれてきた技と美を後世へ伝承するだけでなく、新しい感覚も盛り込もうと日夜努力している。今週は近代化が進む中にあって、今もなお息づく伝統の手技を訪ね歩く。


 
若狭を彩る伝統の技(小浜市) 放送 9月4日(月)
 大陸文化が奈良や京の都へ伝わる中継基地であった小浜には、今なお磨かれた技と華やかさで人びとを魅了する数々の伝統工芸品がある。また、北前船の寄港地でもあった小浜は交易の町としても栄えた。こうした文物を通じて京都とのつながりが深く、小浜の町には京文化が根づいている。
 そのひとつがかつての花街の「三丁町」。柳町、漁師町、寺町を総称して三丁町と呼んだとか、町の長さが3丁(約330m)あったので三丁町と呼んだとか言われている。三丁町の幅3mほどの狭い通りには紅殻格子の料亭が軒を並べ、家の中からは三味線の音が聞こえ、通りでは粋な着物姿の芸妓に出会うこともある。芸妓の言葉も「おいでやす」と京言葉。

御食国若狭おばま食文化館

(写真は 御食国若狭おばま食文化館)

若狭めのう細工

 大陸文化の中継地だった小浜には、匠たちがその技を積み重ねてきた伝統工芸がある。若狭めのう細工、若狭漆器、若狭塗箸、若狭粘土瓦、若狭和紙などで、大陸文化の香りと華やかさに彩られた逸品が多い。
 若狭めのう細工は大陸からの渡来人の玉造りの技法を、享保年間(1716〜36)に高山喜兵衛と言う人が、丸玉製造の技を修得、この技術を生かしてめのう細工始めたのが今に伝わり、彫刻、置物、アクセサリーなどが生み出されている。めのう原石に熱を加えることによって、石の中の鉄分やクロームが酸化してめのう独特の色を出す。これを細工して置き物や装身具、アクセサリーなどに仕上げる。原石からの発色、造形には職人の長年の技が工芸品の善し悪しを左右する。最盛期には約300人いた職人も現在は50人ほどになった。

(写真は 若狭めのう細工)

 若狭塗の漆器は高級品として珍重されている。幕末の万延元年(1860)皇女・和宮が徳川家へ降嫁の際、若狭塗のタンスが献上されたとことからもその品質の良さがうかがえる。
 若狭塗は江戸時代初めの慶長年間(1596〜1615)に、小浜藩の御用塗師・松浦三十郎が中国漆器にヒントを得てその技法を編み出したのが始まり。その特徴は貝殻や卵殻、金箔、銀箔、松葉、桧葉などの上に漆を何度も塗り重ね、石や炭、砥粉(とのこ)などで丹念に研ぎ出す「研ぎ出し技法」にある。完成までに数ヵ月かかり、その重厚な風格は若狭塗独特のものである。同じ技法で作られる若狭塗箸は全国生産の8割を占める特産品である。「御食国(みけつくに)若狭おばま食文化館」では、めのう細工や若狭塗の体験工房があり、「箸のふるさと館」には約3000種類の箸が展示されている。

若狭塗箸

(写真は 若狭塗箸)


 
播州三木打刃物(三木市) 放送 9月5日(火)
 三木市は刃物の町として知られ、その鍛治の歴史は古く大和時代にまで遡る。古くから開けた三木市内に古墳が見られ、このころから大きな力を持つ豪族がこの地方に存在していた。
古代国家が成立してからは都と密接なつながりを持ち、渡来人との交流もあって農耕機具や家庭用具などを生産していた。
 こうした三木の鍛冶の歴史や製法の資料、古い打刃物、金物の製品の散逸を防ぎ、展示するために校倉風造りの三木市立金物資料館が昭和51年(1976)にオープンした。資料館前庭には「しばしも休まず つち打つひびき」の歌で知られる唱歌「村のかじや」の記念碑が立っている。

三木市立金物資料館

(写真は 三木市立金物資料館)

山本鉋製作所

 播州金物は古くからの倭(わ)鍛冶の系統と大陸から渡来した韓鍛冶の系統が合流して、技術的な発展を遂げた。三木地方の鍛冶もこのような経過をたどって発展してきたが、古い記録を見ると韓鍛冶系統の技術者が多かったようだ。
 仏教の伝来によって寺院建築が盛んになり、武家の勃興、戦国時代の到来で武器、武具類の需要の増大などがあって、大工道具、建築道具、刀、槍などの注文が増え、三木の鍛治職はこれらの製品の製作に腕を振るい繁栄した。三木が全国屈指の金物生産地となったきっかけは秀吉の三木城攻めにある。

(写真は 山本鉋製作所)

 三木城攻めで三木城主・別所長治が城を明け渡して三木城は落城したが、この戦いの後、羽柴秀吉が三木の町の復興に力を入れたことから大工や鍛冶職人が城下町に多く集まった。やがて三木のノコギリ、ノミ、カンナなどの大工道具の素晴らしさが、京都や大阪にまで知られるようになった。
 三木市立金物資料館横の古式鍛練場では、毎月第1日曜日に三木の伝統的な鍛冶技術を伝える、三木金物古式鍛練技術保存会の人たちによって古式鍛練の技が公開されている。ふいごを使って真っ赤に焼けた鉄をカンナ、ノコギリ、ノミ、小刀などに鍛える様子が見学できる。

三木市金物古式鍛錬技術保存会

(写真は 三木市金物古式鍛錬技術保存会)


 
紀州手まり 放送 9月6日(水)
 「てんてんてんまり てんてまり てんてんてまりの てがそれて…」。西条八十作詞・中山晋平作曲の童謡「まりと殿様」で歌われた手まりは、垣根を越え、屋根を越えて表の通りへ飛んで行き、お国入りの紀州の殿様の行列に出くわす。
 和歌山児童合唱団の少年、少女たちが米国・ロサンゼルスで日系人たちの前で、この「まりと殿様」を合唱したことがある。誰もが幼いころに口ずさんだことのあるこの童謡を聴いたお年寄りたちは、涙を流して「日本へ帰りたくなった」と話したと言う。故郷での思い出がいっぱい詰まったこの童謡に、感無量の気持ちが一度にこみあげたのだろう。

紀州手まり

(写真は 紀州手まり)

手まりづくり

 てまりは日本古来の伝統美を持つ工芸品で、平安時代末期ごろから御殿まりとして姫君たちに愛好され、御殿女中たちが姫君のために技を競い合って作った。
 紀州でも初代紀州藩主・徳川頼宣のころから幼くして嫁入りした姫たちのために手まりが作られた。御殿女中たちが宿下がりした時、自分の娘たちにも手まりを作ってやったのが、城下の町民たちの間にも広がった。色彩と模様の組み合わせで無限に表情を変える色鮮やかな紀州手まりは、雅で心を和ませてくれる。今では観賞用や室内の装飾品として販売されているが、ひと針、ひと針ずつ丁寧に刺繍を縫い込んでゆく作り方は昔と変わっていない。

(写真は 手まりづくり)

 紀州手まり会の人たちは「根気のいる作業ですが、簡単に作れますよ」と言っており、手ほどきを受けてオリジナルな紀州手まりを作る人もいると言う。
 「まりと殿様」を作詞した西条八十は「紀州と旅した時、ミカンが実る日うららな紀州の感慨を無心な幼児の手まりの動きに託した」と記しており、和歌山城天守閣前の広場に「まりと殿様」の歌碑がある。ちなみに殿様の行列の前に飛んで行った手まりは、殿様に抱かれて紀州へ旅をして「赤いミカンになった」と最終の歌詞で結ばれている。

青木瀑布美さん宅

(写真は 青木瀑布美さん宅)


 
高山・茶筌の里(生駒市) 放送 9月7日(木)
 奈良県の最北端、生駒市高山町は茶筌の里として知られ、国内で作られる茶筌の約9割を生産している。その発祥は約500年前の室町時代中期。当時、この地の城主だった鷹山頼栄の次男・宗砌(そうぜい)が、近くの称名寺の住職として住んでいた茶の湯の祖・村田珠光と親交を深め、珠光から茶道にふさわしい茶を攪拌する道具の製作を依頼され、苦心の末に作り出したものが茶筌の始まりとなった。
 その後、珠光は京都に移り、後土御門天皇に宗砌の茶筌を見せたところ、天皇はその着想と精巧さに感心して「高穂」の名を与えた。宗砌は感激して茶筅の製作に励み、その技術を鷹山家の秘伝とし、家名を「高穂」に因んで鷹山から高山に改めた。

味削り

(写真は 味削り)

高山茶筌

 すべてが手作業の茶筌作りの技は、高山家の秘伝として代々「一子相伝」として継承されてきた。高山家が京極家に仕官することになり、丹波・宮津へ赴任する時、家臣の主だった者16名に秘伝の茶筌作りと販売を許し、今日まで受け継がれてきた。現在では茶筌作りの秘伝は一般に公開されるようになり、国の伝統的工芸品に指定されている。
 茶筌の里・高山には多くの茶筌師が茶筌作りに励んでいるが、竹茗堂の当主・久保左文さんは、代々続いた茶筌師の家に生まれた。久保さんは国の伝統工芸師の認定を受けていて「日本に茶道がある限り、子々孫々まで茶筌作りを手放すことはありえない」と茶筌師の意気込みを語っている。

(写真は 高山茶筌)

 茶筌の形は茶道の各流派ごとに異なり、その種類は60種以上にのぼり、最近はさらに増えて100種類近くになっているようだ。10工程ほどの茶筌作りは、そのほとんどが小刀とヤスリを用いての作業で、長年の経験によって磨かれた技術と精神力が必要とされる。高山では茶筌のほかに茶道具の茶杓、柄杓、花器、茶合なども作っている。
 高山竹林園には、茶道各流派のさまざまな茶筌が資料館に展示されており、匠の技で微妙な違いに仕上げられた茶筌に驚かされる。園内の茶室は有料で利用できるほか、日曜、祝日には抹茶コーナーも設けられ、日本庭園を眺めながらおいしいお茶がいただける。第1、第3日曜日には茶筌作りの実演も行われ、熟練の技と精神力を要する茶筌作りにふれて見ると、お茶の味わいもまた深くなる。

高山竹林園

(写真は 高山竹林園)


 
秋の散歩道 放送 9月8日(金)
 きぬかけの路ぞいには古都の京ならではの京小物の店や料理店、小粋な喫茶店などがある。きぬかけの路の散策や古寺の探訪の疲れを休め、気分転換にはこれらの店への道草もよいかもしれない。
 京小物の店・衣笠で見つけたのが温かみのある紙版画。絵図を切り出した50枚ほどの型紙で刷毛摺りして模様や絵を表したのが紙版画で、ひとつひとつが熟練職人の手作り作品である。絵付けする材料の布地、木、竹、和紙、石、ガラス、革などの上に型紙を置き、刷毛で摺っていく。型紙を多く使うほど、色が重なり深みのある模様に仕上がる。しかし1点1点が手作りのため、配色がわずかに異なるなど微妙な違いがあるのが紙版画の特徴である。

おか本紙版画

(写真は おか本紙版画)

金工布目象嵌(川人象嵌)

 この紙版画を制作している工房がおか本紙版画で、この技は平安時代の武具の一部の染革に用いられていたところまでさかのぼる。その後、京摺友禅の技術として栄え今日に到っている。また、金工象嵌(ぞうがん)は、鉄生地に刻んだ模様の溝に純金銀を打ち込んでいく京都の伝統工芸で、その技を継承しているのが象嵌の老舗・川人象嵌。
 象嵌の技術は遠く紀元前のペルシャ王朝時代の武器や王冠造りが起源である。中国でも紀元前の殷の時代から青銅器に金象嵌を施し、前漢時代の鉄製鏡や刀剣類に象嵌が見られる。

(写真は 金工布目象嵌(川人象嵌))

 日本では奈良県・石上神宮の国宝・七支刀に60余文字の象嵌の文字がある。この七支刀は百済から倭王に献上されたものとされ、日本で最初に作られたのは埼玉県・稲荷山古墳から出土した刀剣の金象嵌とされている。わが国での象嵌技術は、金文字で記録するために使われたのが始まりで、現在ではアクセサリー、バッジ、装飾品などにその技術が生かされている。
 「徒然草」の作者の吉田兼好は、妙心寺の西、双ヶ丘(ならびがおか)の山麓に草庵を結んだ。これにちなんで名づけた「つれづれ弁当」が名物の京料理の店・萬長が妙心寺北門前にある。京料理が手ごろな値段で味わえるので、散策の疲れを京料理で癒すにはうってつけ。

つれづれ弁当(京料理 萬長)

(写真は つれづれ弁当(京料理 萬長))


◇問い合わせ先◇
御食国若狭おばま食文化館0770−53−1000
三木市立金物資料館0794−83−1780
三木金物古式鍛錬技術保存会0794−82−3154
山本鉋製作所0794−82−1428
和歌山市観光協会073−433−8118
紀州手まりの会073−424−7588
竹茗堂0743−78−0034
高山竹林園0743−79−3344
京小物・衣笠075−461−2631
おか本・紙版画075−463−1956
川人象嵌075−461−2773
京料理・萬長075−461−3961

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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