月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・真田幸村と大坂の陣

 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦で勝利した徳川家康は、徳川幕府の基礎を確固たるものにすべく、策を弄して豊臣家潰しを画策する。大坂夏の陣で大坂城は落城し、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡した。この大坂の陣で豊臣方の武将として大活躍するのが真田幸村。後に豊臣方の英雄として講談や少年読物にも登場する。


 
大坂冬の陣・真田幸村大坂へ 放送 10月30日(月)
 関ヶ原の戦に勝利して天下を握った徳川家康は、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺の鐘の銘文「国家安康」が、家康の名を二つに裂いた形になっており、これは家康に対する反逆だとして慶長19年(1614)10月1日諸国の大名に秀頼追討の出陣を命じた。
 一方、豊臣方は戦力の中心に徳川家康に不満を抱く大名のほか、浪人を召し抱えることにした。
職を失っていた浪人たちがぞくぞくと大坂城に集まって気勢をあげた。

真田幸村像

(写真は 真田幸村像)

真田抜穴跡

 関ヶ原の戦の時、豊臣方について敗れ、高野山麓の九度山に蟄居を命じられ、不遇をかこっていた真田幸村は10月9日、嫡男・大助らと共に大坂城に入った。
 豊臣方は軍議で徳川方に対する戦略として籠城策を取ったが、幸村は大坂城の南方に弱点ありと見て、そこを空堀で囲み三重に柵を巡らした堅固な「真田丸」と言う出城を築いた。真田丸があった跡地の真田山の三光神社には、大坂城との連絡用通路と伝わる「真田の抜け穴」の一部があるほか、境内に幸村の陣中指揮姿の銅像が立っている。

(写真は 真田抜穴跡)

 三光神社近くの円珠庵境内のエノキの木は、古来から霊木として信仰を集めていた。真田幸村は大坂冬の陣の時、このエノキに鎌を打ちつけて戦勝を祈願し、大いに戦功をあげたとの伝えがある。以来、このエノキを「鎌八幡」と呼び、鎌を打ち込んで悪縁を絶つ願掛けをする人が増え、今も多くの鎌が打ち込まれている。
 鎌八幡については江戸時代の地誌や名所図会類には記載がなく、紀伊国・兄井村(現和歌山県かつらぎ町)に鎌八幡があることが、紀伊国名所図会や紀伊続風土記に記されいる。この地が幸村が築いた真田出丸に近いことから、円珠庵に鎌八幡の伝承が語られるようになったのではないかとも見られている。

円珠庵(鎌八幡)

(写真は 円珠庵(鎌八幡))


 
大坂夏の陣・河内から平野へ 放送 10月31日(火)
 大坂冬の陣は豊臣方の必死の抵抗に徳川方も苦戦し、慶長19年(1614)12月和睦と言う形で終結したが、徳川方が大坂城の内堀まで埋め、秀頼の国替えまで迫るなどしたため、翌年4月末には大坂夏の陣が起こる。
 大坂夏の陣では河内の道明寺で豊臣方・後藤又兵衛軍と徳川方・伊達政宗軍が激突、又兵衛が討死を遂げて後藤軍は総崩れとなった。その後に真田幸村率いる援軍が到着して、真田軍をしんがりとして大坂城への退却が始まった。道明寺合戦の激戦地の現柏原市には、後藤又兵衛奮戦地の碑のほか討死にした同市玉手山公園には後藤又兵衛基次碑が立っている。

日月竜文蒔絵仏胴具足(後藤又兵衛所用・京都井伊美術館 保管)

(写真は 日月竜文蒔絵仏胴具足
(後藤又兵衛所用・京都井伊美術館 保管))

志紀長吉神社

 幸村は平野まで退却して一休みした際、近くの志紀長吉神社(大阪市平野区長吉)に戦勝祈願をして、六連銭紋軍旗と刀を奉納した。軍旗は今も同神社に社宝として保存されているが、刀は現存しない。幸村がしばし休息したとされる神社の参道鳥居脇には真田幸村休息所の碑が立っている。
 志紀長吉神社は古代大和の豪族・葛城氏の祖を祀る古社で、戦国時代から武将たちの崇敬を集めていた。幸村は苦戦を強いられていた豊臣方の起死回生を願ってこの神社に軍旗を奉納したのであろう。

(写真は 志紀長吉神社)

 幸村は退却の際にもさまざまな奇策を用いて徳川軍を翻弄している。家康が必ずこの道を進撃してくるだろうと予測し、樋尻口地蔵堂(平野区平野東)の地中に地雷を仕掛けた。予想通り家康はこの地蔵堂で休息し、かまどで火を焚いた。だが、家康は小用を催し、地蔵堂の外へ出ている時に地雷が爆発して命拾いをした。
 この爆発で吹き飛ばされた地藏の首が、近くの全興(せんこう)寺(平野区平野本町)まで飛んできたと言い、今も全興寺に「首地蔵」として祀られている。

首地蔵(全興寺)

(写真は 首地蔵(全興寺))


 
大坂夏の陣・日本一の兵
真田隊
放送 11月1日(水)
 慶長20年(1615)の大坂夏の陣は徳川方約15万人、豊臣方約5万5000人の兵力からも豊臣方は不利な戦を強いられた。道明寺や八尾など河内の合戦で豊臣方は次々と敗れ、幸村は天王寺の茶臼山に最後の決戦の本陣を置いた。
 茶臼山は前年の冬の陣の時、家康が本陣を置いた所で、幸村は「狙うは家康の首ひとつ」と、決死の覚悟で最後の戦いに挑んだ。知将・幸村は自分の影武者を何人も仕立てて徳川勢を翻弄し、家康本陣にまで攻め入って家康の心胆を寒からしめた。

茶臼山

(写真は 茶臼山)

徳川家康(大坂夏の陣図屏風・大阪城天守閣 蔵)

 甲冑(かっちゅう)などの武具をすべて赤一色に統一した赤備えの真田軍団の攻撃は凄まじく、家康の本陣を正面から3度にわたって攻撃した。本陣の金扇の大馬印が突き崩され、度肝を抜かれた家康は窮地に追い込まれて逃げ出したと言う。
 だが幸村に勝機は訪れず、戦いに疲れて家臣と共に四天王寺近くの安居神社の近くで休息しているところを、越前・松平家の家臣・西尾仁左衛門に討ち取られたとされるている。幸村の戦いぶりは徳川方の武将・薩摩の島津家久が「真田日本一の兵(つわもの)、古よりの物語りにもこれ無く」と絶賛したと薩摩藩旧記に記されている。

(写真は 徳川家康
(大坂夏の陣図屏風・大阪城天守閣 蔵))

 幸村最後の地と伝えられる安居神社境内には「真田幸村戦死跡之碑」が立っている。このほか河内から天王寺周辺にかけて大坂冬の陣、夏の陣の史跡、豊臣、徳川方の武将たちの墓や戦死の碑などが数多くある。
 大坂の陣で両軍が陣を張った茶臼山では、大坂城落城後に家康が山頂に軍旗を立て、諸将を集めて勝利を祝った。江戸時代には茶臼山は東照神君(徳川家康)ゆかりの聖地として禁足地となり、一般庶民は登れなくなった。歴代の大坂城代は、新任の際にこの地を訪れ敬意を表したと伝えられている。

網代駕籠(徳川家康所用・日光東照宮 蔵)

(写真は 網代駕籠
(徳川家康所用・日光東照宮 蔵))


 
大坂夏の陣・秀頼は
落ちのびたか?
放送 11月2日(木)
 真田幸村が茶臼山近くの安居神社で徳川方に討たれた翌日の慶長20年(1915)5月8日、大坂城は徳川軍の攻撃で炎上、豊臣秀頼と淀殿の母子は城内の山里曲輪で自刃し、豊臣家は滅亡した。
 大きな戦の後には真しやかな落人伝説が語られる。大坂城落城で自刃した秀頼にもそれから間もなく、秀頼生存説が真しやかに語られだした。イギリスの東インド会社平戸商館長さえも慶長20年(1915)8月13日の日記に「秀頼様は今なお、重臣5、6名と共に生存し、恐らく薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる由なり」と記しているほどだ。

安居神社

(写真は 安居神社)

鉄二枚胴具足(真田幸村所用・大阪城天守閣 蔵)

 鹿児島には「秀頼は合戦では死なず、幸村や木村重成らに伴われて薩摩の谷山郷に落ちた」と言う伝説があり、今も鹿児島市上福元町には豊臣秀頼の墓と伝える宝塔がある。
 江戸時代中期に著された「真田三代記」には、真田幸村は嫡男・大助、長宗我部盛親、後藤又兵衛らと共に主・秀頼を護って薩摩に下る。島津氏は御殿を造って秀頼を居住させるが、幸村は長年の辛労が原因で翌元和2年(1616)10月11日に血を吐き病死、秀頼も翌月に病死したと、真しやかに書かれている。

(写真は 鉄二枚胴具足
(真田幸村所用・大阪城天守閣 蔵))

 信濃国・松代藩主真田家が編纂した「先公実録」には、薩摩に落ちた幸村は、山伏の姿に身をやつして山中に住み、時折、秀頼のもとを訪ねたと記している。
 また京・大坂でも、大坂の夏の陣直後から「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きものいたよ鹿児島へ」と唄うわらべ唄がはやった。江戸時代後期の天保年間(1830〜44)に行われた調査では、秀頼薩摩落ちは史実とも伝説とも決めかねると結論された。

新撰実録泰平楽紀大阪設立之図

(写真は 新撰実録泰平楽紀大阪設立之図)


 
大坂夏の陣・英雄伝説
幸村と真田十勇士
放送 11月3日(金)
 関ヶ原の戦の後、大坂冬の陣と夏の陣の相次ぐ徳川方の攻撃で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡した。この大坂の陣で大軍の徳川軍と徳川家康を周章狼狽させた豊臣方の真田幸村は、やがて軍記物語や講談の世界で超人的なヒーローとなって登場する。
 さらに明治時代末から大正時代にかけて刊行され、多数の読者を獲得した少年読物「立川文庫」によって、幸村の全国的人気は決定的なものとなり、少年たちのあこがれの武将としてトップの座を占めた。

真田幸村画像(蓮華定院 蔵)

(写真は 真田幸村画像(蓮華定院 蔵))

講談本(四代目旭堂南陵氏 蔵)

 真田幸村に仕えた家来として描かれたのが猿飛佐助、霧隠才蔵、三好青海入道ら忍者や豪傑らの真田十勇士。これら真田十勇士が大坂の陣での戦闘で、忍術や武術を駆使して縦横無尽に活躍する姿は、少年たちの胸をわくわくさせた。
 猿飛佐助らは立川文庫が創作した人物と思われがちだが、江戸時代後期のの文政8年(1825)に描かれた「新撰実録泰平楽記大阪備立之図」の古地図の中に、幸村の嫡男・大助らと共に猿飛佐助、深谷青海(三好青海入道)らの名が記されており、実在の人物のようだ。

(写真は 講談本(四代目旭堂南陵氏 蔵))

 江戸時代中期に著された真田幸隆・昌幸・幸村三代の事績を記した「真田三代記」にも、十勇士のうち三好青海入道ら6人の名が見え、ほかに霧隠鹿右衛門と書かれているのが霧隠才蔵とみられる。また江戸時代後期の天保4年(1833)に写本した「真田三代実記」にも猿飛佐助の名が出ており、いずれも江戸時代末に作成された資料なので、あながち立川文庫の創作として片づける訳にはいかない面もある。
 だが50歳代の老人の猿飛佐助を少年忍者の人気者にしたのは立川文庫で、また幸村らを英雄に仕立てたのは、いずれも関西が版元の立川文庫、講談速記「真田三代記」などというのも、難波っ子受けする豊臣びいきのなせる業か。

真田三代記(真田氏歴史館 蔵)

(写真は 真田三代記(真田氏歴史館 蔵))


◇あ    し◇
大阪城、
豊臣秀頼・淀殿自刃の地
(大阪城内)
地下鉄谷町線天満橋駅又は谷町駅、地下鉄中央線森ノ宮駅又は谷町4丁目駅、地下鉄長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅下車それぞれ徒歩10分。
JR環状線森ノ宮駅又は大阪城公園駅、東西線大阪城北詰駅下車それぞれ徒歩10分。
京阪電鉄天満橋駅下車徒歩10分。
三光神社JR環状線玉造駅下車徒歩5分。
地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩5分。
円珠庵(鎌八幡) JR環状線玉造駅下車徒歩10分。
地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩10分。
後藤又平衛基次碑
(玉手山公園内)
近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩10分。
志紀長吉神社地下鉄谷町線長原駅下車徒歩3分。
全興寺、樋尻地蔵堂JR関西線加美駅、地下鉄谷町線平野駅下車それぞれ徒歩8分。
茶臼山JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
それぞれ徒歩10分。
安居神社JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
それぞれ徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
大阪城天守閣06−6941−3044
三光神社06−6761−0372
円珠庵06−6761−3691
志紀長吉神社06−6709−1757
全興寺06−6791−2698
茶臼山
(天王寺公園事務所)
06−6771−8401
安居神社06−6771−4932

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