月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・吉野町 万葉の吉野

 万葉集4500余首のうち吉野を詠んだ歌は100余首あり、明日香、奈良に次いで多い。しかし、吉野山の桜を詠んだ歌は一首もなく、吉野山が桜の名所となったのは、平安時代に西行が吉野山の桜を詠んだ以後のことになる。万葉歌に詠まれた吉野は雪の名所、そして吉野川の激流や山を見ての感動であった。のどかな飛鳥の自然と比べ、吉野の山や川の険しさ、奥深さ、神秘さが万葉人たちの心を揺さぶったのであろう。


 
天武天皇・吉野への思い 放送 12月18日(月)
 天武天皇にとっては吉野は壬申の乱(672)の兵を挙げ、この戦に勝利して天武朝の基礎を築く出発地となった神聖な場所であった。
 天武天皇は天武8年(679)に吉野へ行幸して「み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく 隈(くま)も落ちず 思ひつつぞ來(こ)し その山道を」と詠んだ。

吉野川

(写真は 吉野川)

宮滝遺跡

 壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位して天武天皇となった。その7年後に吉野へ行幸した際に「吉野の青根ヶ嶺に絶え間なく雪が降り、雨が降るように、道の曲がり角ごとにずっともの思い、悩みながら、あの山道をやって来た」と当時の心境を思い起こした。
 大津宮で天智天皇が崩御した後、皇位継承争いで身の危険を感じて近江を脱出、不安と失意のうちに青根ヶ嶺を望みながら山道を歩いて吉野へ逃れた。今、再び自分はその山道を歩いている。

(写真は 宮滝遺跡)

 大海人皇子は周囲を山に囲まれている吉野は攻めることが難しく、戦略上から身をひそめるには適した土地として選んだ。後に後醍醐天皇や源義経らも吉野に逃れており、吉野の里人たちには追われの身の人たちを暖かく迎え、匿まってやる優しい心があったのだろう。
 宮滝遺跡の少し下流の吉野川左岸に、天武天皇を祭神とする桜木神社がある。大海人皇子が近江の大友皇子の兵に攻められた時、この地の大きな桜の木に身をひそめ難をまぬがれたと言う伝説が残っている。

桜木神社

(写真は 桜木神社)


 
天武天皇・吉野よく見よ 放送 12月19日(火)
 「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見」と詠んだ天武天皇は「かつてよい人が、よしとよく見て、よしと言ったこの吉野を、今の人もよく見なさいよ」と、自分の後を継ぐ人たちに歌で伝えた。
 壬申の乱から7年後、天武8年(679)に吉野行幸をした天武天皇は、5月5日にこの歌を作り、翌6日には吉野宮において6人の天皇ゆかりの皇子たちに、天皇と皇后に忠誠を誓う「六皇子の盟約」が行われた。

宮滝

(写真は 宮滝)

吉野歴史資料館

 この「六皇子の盟約」は、天武天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)との間の一粒種の草壁皇子を、自らの後継者にすることを鮮明にすることだった。
 それには壬申の乱の旗揚げの地である吉野を選んで「この地をよく見よ」と言い、そして「あの戦乱のことを忘れるな」と釘を刺し、さらに「吉野こそが我が皇統発祥の聖地である」と皇子たちに教えた。天武天皇にとって壬申の乱は、自分の運命を変えた戦であり、戦への気概を養ったのが吉野であるとの強い思いが、この歌に現れている。

(写真は 吉野歴史資料館)

 吉野の地に強い思いを寄せていた天武天皇は、後に持統天皇となった鵜野(うの)皇后としばしば吉野を訪れている。その吉野宮(吉野離宮)があったのが宮滝とされている。宮滝は斉明天皇も吉野宮を造営しており、奈良時代に入ってからは聖武天皇が吉野離宮を造営している。
 宮滝は縄文時代から人が生活していたことを示す遺物が出土しており、宮滝遺跡内の吉野歴史資料館には縄文時代から弥生、飛鳥時代にかけてのこ出土品や吉野宮の復元模型が展示されている。

吉野宮復元模型

(写真は 吉野宮復元模型)


 
柿本人麻呂・見れど飽かぬ 放送 12月20日(水)
 壬申の乱に勝利して即位した天武天皇は朱鳥元年(686)に崩御した。その後、鵜野(うの)皇后が即位して持統天皇となり、在位11年の間に吉野へ31回も行幸している。
 持統天皇に付き添った柿本人麻呂は長歌で「山も川も美しい吉野に離宮が営まれ、大宮人は舟を並べて川を渡る、その川の水が絶えないように、山が高いように永遠に高くそびえた吉野の滝の宮は、いくら見ても見飽きない」と長歌で詠んだ。

浄見原神社

(写真は 浄見原神社)

持統天皇ジオラマ(吉野歴史資料館 蔵)

 その反歌で「見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく またかへり見む」と詠む。長歌で吉野離宮を讃え、さらに反歌で「何度見て見飽きない吉野の川の滑らかな岩床のように、絶えることなく永遠に吉野を振り返って見たい」とさらに讃えた。
 離宮の主人である天皇を讃えるために離宮を讃え、その離宮を讃えるために吉野の山河を讃えると言う手法を採った吉野賛歌で、長歌の第一人者と言われた柿本人麻呂の才能を遺憾なく発揮した歌である。

(写真は 持統天皇ジオラマ
                      (吉野歴史資料館 蔵))

 吉野離宮があった宮滝から吉野川沿いに上流へ遡ったところの吉野町国栖に、天武天皇を祀る浄見原(きよみはら)神社がある。この神社で毎年、旧暦の正月14日に古式ゆかしく国栖奏(くずそう)の舞が舞われる。
 大津宮の大友皇子の軍勢に攻められていた大海人皇子は、皇室とのゆかりの深い国栖の地へ吉野宮から逃れた。国栖の人たちはご馳走を出し、国栖奏を舞って皇子を慰め、壬申の乱にも参戦して大いに戦功をあげた。その行賞として宮中で国栖奏が舞われようになったが、その後、宮中での国栖奏の舞が途絶えたため、平安時代の寿永4年(1185)浄見原神社を建て、祭神の天武天皇を慰めるために毎年、国栖奏を舞うようになった。

常滑

(写真は 常滑)


 
大伴旅人・象の小川 放送 12月21日(木)
 奈良時代の歌人・大伴旅人は、聖武天皇の吉野行幸に従って吉野を訪れ、宮滝の山河を讃える歌を詠んだ。その後、齢60を過ぎてから大宰帥(だざいのそつ)として九州の太宰府に赴任している。
 都からはるか離れた太宰府で吉野を思って歌ったのが「我が命も 常にあらぬか 昔見し 象(さき)の小川を 行きて見むため」。この歌には「私の命をもっと長らえてくれないか。昔、聖武天皇と訪れた時に見た吉野の象川に行って見るために」との強い願望が込められている。

吉野水分神社

(写真は 吉野水分神社)

万葉のみち

 そしてもう一首は「我が行きは 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にもありこそ」。吉野の自然に対して「私の筑紫暮らしもそう長くはないだろう。夢のわだは浅瀬にはならずに昔のままの深い淵であってほしい」と、その懐かしさと願いを歌に託している。だが、旅人は九州から帰った翌年に67歳で亡くなり、再び象川を見ることはなかった。
 象川は吉野山の青根ヶ嶺や吉野水分神社の山あいを源にした流れで、喜佐谷を抜け桜木神社の前を流れて吉野川へそそぐ清流の小川。夢のわだは象川と吉野川の合流点あたりだろうと見られている。

(写真は 万葉のみち)

 象川をはじめ吉野の水を司る神を祀っているのが、吉野山上千本に鎮座する吉野水分神社。主神は天水分(あめのみくまり)大神で、古くから農耕の神として信仰されてきた。三つの社殿を一棟とした本殿と拝殿、幣殿(いずれも国・重文)、楼門が回廊で結ばれた境内の空間は荘厳な雰囲気の神域。本殿に祀られている秘神・玉依姫命(たまよりひめのみこと)像は鎌倉時代の神像の代表作で国宝に指定されている。
 この吉野水分神社から下って喜佐谷の象川沿いに宮滝に至る「吉野宮滝万葉コース」は、万葉ファンに人気のハイキングコースである。

象の小川

(写真は 象の小川)


 
山部赤人・静寂の中に 放送 12月22日(金)
 龍門岳の南麓、吉野町の中央部にある津風呂湖は、津風呂川をせき止めて潅漑用水を確保するために昭和38年(1963)に完成した人造湖。
 壬申の乱で大津京へ向かっていた大海人皇子(天武天皇)は、津風呂湖のあるこのあたりで小休止して疲れを癒し、隊伍を整えて出発したと伝えられている。大海人皇子が決意を新たにしたこの地にある津風呂湖は今、海のない奈良県で遊覧船やボートを浮かべ、湖畔の景色を楽しめる湖として親しまれている。

津風呂湖

(写真は 津風呂湖)

遊覧船

 聖武朝の宮廷歌人・山部赤人は、長歌の第一人者と言われた柿本人麻呂を手本として、長歌で吉野離宮、宮滝の美しさを詠んだ。
 その反歌二首は名歌として誉れ高い。「み吉野の 象山(さきやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも」と、静寂の中に鳥の声を聞き「象山の谷間の梢にこんなにも騒いでいる鳥の声よ」と詠みあげた。

(写真は 遊覧船)

 さらに「ぬばたまの 夜のふけゆけば 久木(ひさぎ)生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く」と、こちらも静寂を題材に「夜が更けてゆくと、久木の繁る清らかな川原に千鳥が絶え間なく鳴いている」と静寂の中での孤独感を詠んでいる。
 赤人は「個」とか「私」を徹底的に排した柿本人麻呂の型を受け継いで長歌を作っているが、天武朝の時代に神格化された吉野を過去のものとしてとらえ、反歌では私情を述べる形を生み出した。

象山

(写真は 象山)


◇あ    し◇
吉野山近鉄吉野線吉野駅から吉野山ロープウエイ吉野山駅下車。
宮滝、宮滝遺跡、
吉野歴史資料館
近鉄吉野線大和上市駅からバスで宮滝下車すぐ。
桜木神社、象川近鉄吉野線大和上市駅からバスで宮滝下車徒歩20分。
浄見原神社近鉄吉野線大和上市駅からバスで窪垣内下車徒歩10分。
吉野水分神社近鉄吉野線吉野駅から吉野山ロープウエイ吉野山駅下車
徒歩約1時間。
津風呂湖近鉄吉野線大和上市駅からバスで津風呂湖口下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
吉野町役場企画観光課0746−32−5844
吉野歴史資料館0746−32−1349

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会