月〜金曜日 18時54分〜19時00分


尼崎市 

 尼崎市と言えば工業都市のイメージが強いが、市内には弥生時代の遺跡のほか古墳が点在するなど、川や海の幸などに恵まれ地域として古代から開けていた。近世に形成された寺町も存在し、最近はゆかりの深かった近松門左衛門をキーワードに、文化都市へのイメージチェンジを図っている。


 
尼崎城  放送 2月5日(月)
 室町時代末に細川高国が柵や土塁、石垣などで砦を築いたのが尼崎城の始まりとされ、古くは大物(だいもつ)城と呼ばれていた。大坂夏の陣の後の元和3年(1617)近江国膳所から尼崎藩主として入部した戸田氏鉄(うじかね)が、翌年から荒廃していた旧尼崎城を取り壊して新城建設に取りかかった。
 完成した新城の天守閣は4層4階の威容を誇り、この本丸を中心に二の丸、松の丸、西三の丸、東三の丸が、ら旋状に配置された近代城郭の平城は、海上からは琴柱(ことじ)を立てたように見えるところから「琴浦城」の異名があった。

尼崎城

(写真は 尼崎城)

11代藩主松平忠名の太刀(尼信博物館)

 戸田氏はその後、美濃国大垣城へ移封、後の城主・青山氏を経て遠江国掛川から松平(桜井)忠喬(ただたか)が城主となり明治維新まで7代続いた。最後の城主・松平忠興は、明治維新の時に尊皇派についたため、徳川家との関わりを断つため松平姓を捨て、祖先の地名・桜井から桜井姓を名乗った。
 忠興は西南戦争で、敵味方の区別なく負傷者を看護する博愛の精神を発揮し、これが世界赤十字社に認められ、日本赤十字社の誕生につながった。また学問の向上にも務め、明治6年(1873)に尼崎で最初の学校を開校、これが後の旧開明小学校となった。

(写真は 11代藩主松平忠名の太刀
                                 (尼信博物館))

 尼崎信用金庫が創業80周年記念事業として平成13年(2001)にオープンした尼信博物館には、尼崎城と周辺の武家屋敷の模型、2代城主・忠名所用の太刀(国・重文)や甲冑などの武器、武具、藩札など、尼崎城に関する資料が展示されている。
 西三の丸跡に建つ桜井神社には明治維新まで続いた尼崎城主だった桜井氏の祖・松平信定と歴代の城主が祀られ、天守閣の屋根を飾っていた戸田氏の紋所・九曜紋の鬼瓦が遺されている。城跡にある明城小学校(旧城内小学校)には、児童らが作った天守閣のミニチュア模型があり「尼崎城跡」と刻まれたの石碑も立っている。

尼崎城天守の棟瓦(櫻井神社)

(写真は 尼崎城天守の棟瓦(櫻井神社))


 
近松の里  放送 2月6日(火)
 尼崎市は「近松のまち」を謳い、浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門(1653〜1724)とのゆかりの深さを強調しており、JR尼崎駅前には文楽人形の像が立っている。近松の墓がある広済寺とその近くには近松記念館、近松公園があり、この一帯を「近松の里」と名づけて歴史と文化に触れ合いゾーンとしている。
 近松は晩年住んでいた大坂からしばしば尼崎の広済寺を訪ね、住職の日昌(にっしょう)上人と親交を深めていた。本堂裏には6畳2間と4畳半の奥座敷の近松部屋と呼ばれた部屋あり、ここで執筆活動をしていたと言われる。境内墓地にある近松の墓は、高さ48cmの小さな自然石に自分でつけた戒名と妻の戒名が刻まれている。

近松門左衛門像(近松公園)

(写真は 近松門左衛門像(近松公園))

近松門左衛門の墓(廣済寺)

 日昌上人が荒廃していた広済寺を正徳4年(1714)に再興した時、近松は歌舞伎役者や浄瑠璃本の版元らにも協力も依頼、寺の再興に尽力した。近松は大坂の日昌上人の生家でもある船問屋・尼崎屋吉右衛門宅にたびたび逗留していたことから上人とのつながりができていた。
 寺に隣接する近松記念館には、広済寺に伝えられてきた近松愛用の文机をはじめ手紙、過去帳など近松ゆかりの遺品約60点のほか、近松作品上演に関わる資料などが展示されており、東洋のシェークスピアとも言われた近松を身近に感じることができる。

(写真は 近松門左衛門の墓(廣済寺))

 約2haの近松公園は池やせせらぎを配した日本庭園で、広済寺の近松の墓へ参ったり、近松記念館を訪れた近松ファンが、四季折々の風情を楽しんでいる。
 近松のまちを目指している尼崎市は、近松座歌舞伎や文楽の上演、近松創造劇場の上演、次代の演劇界を担う現代劇作家を育成する近松賞などを設け、独自文化の醸成に力を入れている。第2回近松賞の受賞作品「元禄光琳模様」を今年1月尼崎市で上演し、さらに東京や仙台市でも上演する。
毎年、近松の命日には近松祭が行われ、文楽人形による墓前祭があり、歌舞伎役者らが近松の墓前に芸道精進を誓う。

近松愛用の文机(近松記念館)

(写真は 近松愛用の文机(近松記念館))


 
本興寺  放送 2月7日(水)
 阪神電鉄尼崎駅の南西方向に11ヵ寺の寺院が建ち並ぶ静かで落ち着いた雰囲気の一角が尼崎市の寺町。元和3年(1617)尼崎城主になった戸田氏鉄(うじかね)が、新尼崎城の築城と共に城下町を建設する際に、新城地域と町場にあった寺院を城西側のこの地に集めて寺町を形成した。
 氏鉄の寺町の形成目的ははっきりしないが、戦の際に寺に出城の役目を持たせる軍事目的か、寺院勢力を一括して統括する宗教政策のいずれかと見られている。全国に寺町は多いが、尼崎市の寺町は市街地の中にありながら、当初の姿とあまり変わりなく保たれていることで貴重な存在とされている。

開山堂

(写真は 開山堂)

枯山水

 11ヵ寺が建ち並ぶ中でひときわ威容を誇っている本興寺は、室町時代中期の応永27年(1420)京都の本能寺を開いた日隆上人が創建した。京都で刺客に襲われた上人は尼崎に逃れ、法華宗の布教に努めていた。摂津国守護職で管領・細川満元の男子誕生を上人が祈願、無事に男子が誕生したのを喜んだ満元は、尼崎・大物(だいもつ)浦の若宮八幡宮の境内の一部を寺地として寄進、堂塔伽藍が建立された。
 本興寺は法華宗の四大本山のひとつで、京都・本能寺と合わせて両山一寺をなした時代もあった。
その後、新尼崎城の築城の際に現在地に移転させられ、移転前は16坊あった塔頭が移転後には8坊に減らされた。

(写真は 枯山水)

 日隆上人像(国・重文)が安置されている開山堂(国・重文)は、室町時代の唐様建築の様式を伝え、天井に描かれた龍の絵や欄間の鳳凰の彫刻は見事である。日、月、星の神の三光天子や鬼子母神、三十番神が祀られている三光堂(国・重文)正面の軒唐破風も桃山時代の様式をよく伝えていると言われる。
 方丈(国・重文)の障壁画は初期狩野派の絵師によるものとされ、方丈前の枯山水の石組みの庭は小堀遠州の作と伝わり、本堂の屋根瓦の流れを滝に見立てた幽谷の眺めをしのばせる。境内の井戸に湧く霊水は、大正5年(1916)に上水道が敷設されるまで、尼崎市民の貴重な飲料水であった。

方丈

(写真は 方丈)


 
古代を巡る  放送 2月8日(木)
 尼崎市内には古代の遺跡も少なくない。平野部に単独で立地する貴重な存在なのが大井戸古墳。
直径13mの円墳で出土した須恵器から7世紀の古墳時代に築造されたと見られ、大井戸公園内に保存されている。
 市中心部の住宅街に近接した三菱電機伊丹製作所そばにある御園古墳は、全長約60m、高さ約3mの古墳時代中期の前方後円墳で、墳丘が御園地区の墓地になっている。昭和時代初めの墓地整理の時に石棺が発見され、保存処理をして墳丘上に覆屋をかけて保存されている。急速に発達した尼崎市内には、こうした古墳が平地の住宅地や工場街のど真ん中にあり、古代から人が住みつき生活が営まれていたことを物語っている。

御園古墳石棺

(写真は 御園古墳石棺)

木蓋土壙墓(田能資料館)

 尼崎市で最大の遺跡と言えば、市域の東北端で昭和40年(1965)発見された弥生時代の田能遺跡。工業用水園田配水場の建設工事現場で大量の弥生式土器が出土し、本格的な発掘調査となった。この地域は猪名川左岸に営まれた弥生時代全期間にわたる大集落跡で、多数の土器や碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、白銅製釧(はくどうせいくしろ)、銅剣鋳型、腕輪など多くの遺物のほかに、住居跡、墓跡などが出土した。
 中でも木棺墓、壷棺墓、甕棺墓(かめかんぼ)、土壙墓(どこうぼ)などの墓の発見は、それまで近畿地方で不明だった弥生時代の墓の形態や埋葬状況を知る手がかりとなった。

(写真は 木蓋土壙墓(田能資料館))

 碧玉製管玉の首飾りや白銅製の腕輪を身につけて埋葬された人物の墓の出土は、田能大集落において権力を持った支配者的な人物の存在が裏付けられた。
 発掘調査後の田能遺跡は3mの盛り土で保護し、史跡公園として整備され、国の史跡に指定された。田能遺跡から出土した遺物は、遺跡に隣接した田能資料館に保管、展示されている。野外展示として円形平地式住居、方形竪穴式住居、高床式倉庫などが復元されており、人びとの憩いの場ともなっている。古代の体験学習会も開かれ、復元住居での宿泊体験や銅剣作り、土笛作り、火起こし器作り、火起こし作業などが体験できる。

円形平地式住居(田能資料館)

(写真は 円形平地式住居(田能資料館))


 
味な名物散策  放送 2月9日(金)
 めでたい席や祝賀会などで酒樽のふたを割る鏡開きや、神社に奉納されているのをよく目にするのが菰かぶりの酒樽。菰かぶりの酒樽の始まりは、江戸時代に酒どころの灘、伊丹、京・伏見から江戸へ樽廻船で酒を運ぶ際、船の揺れから樽を保護するために菰を巻くようになったと言う。
 最初は樽を保護するだけの簡単なものだったが、次第に酒の銘柄や蔵元をPRする文字や図案を刷り込んだ菰が巻かれるようになった。昔は酒どころ近くの農家の内職として始められたが、今は尼崎市内の2社で全国ほぼすべての菰樽の菰を生産している。

菰冠化粧樽

(写真は 菰冠化粧樽)

岸本吉二商店

 菰樽を作るにはまずわらを編む菰作りから始める。水田で手刈りしたわらを菰織り機で丁寧に織り上げる。織りあがった菰に白い下地を塗って乾燥した後、銘柄や蔵元などの図案を刷り込み、酒樽に巻いて縄で固定すると菰樽が完成する。昔は菰をマコモで織っていたが、簡単に手に入り安価な稲わらが主になった。最近は稲わらの代わりに合成樹脂製の菰が増えている。
 尼崎のもうひとつの名物が、知る人ぞ知るヒデノ阿免(あめ)。昔ながらの製法をかたくなに守り続けることで飴本来の味が保たれている。この飴は菓子だけでなく、声帯を守るために愛用する落語家などのファンもいる。

(写真は 岸本吉二商店)

 伝統の製法で飴作りを続けているのは明治11年(1878)創業の琴城ヒノデ阿免本舗・久保商店。作っている飴は瓶入りの水飴と白ゴマを入れた硬い飴の二種類だけ。砂糖は一切使わず、厳選したもち米を蒸し、麦芽を加えて発酵させるために寝かせ、その絞り汁を煮詰めて飴にする。
この間、丸3日かかる。
 もち米の発酵具合、煮詰める火加減や火を止めるタイミングは、当主・久保勝さんの職人の勘。
こうしてできあがった飴を口に含むと、優しい甘さが口いっぱいに広がり、この水飴は煮物や焼き物などの料理にも使われる。一時、コンピューター制御の製法を試みたが、子供たちから「手作りの方がおいしい」と言われ機械化はやめた。

ヒノデ阿免本舖

(写真は ヒノデ阿免本舖)


◇あ    し◇
尼崎城跡、桜井神社阪神電鉄尼崎駅下車徒歩5分。
尼信博物館阪神電鉄尼崎駅下車徒歩3分。
広済寺、近松記念館阪急電鉄神戸線塚口駅、JR東海道線尼崎駅から
市バスで近松公園下車すぐ。 
JR福知山線塚口駅下車徒歩10分。
本興寺阪神電鉄尼崎駅下車徒歩5分。 
田能遺跡、田能資料館阪急電鉄神戸線園田駅から市バスで田能口下車
徒歩15分。 
JR福知山線猪名寺駅から市バスで田能西下車
徒歩10分。
大井戸古墳(大井戸公園内) 阪急電鉄神戸線武庫之荘駅下車徒歩5分。 
御園古墳石棺、
岸本吉二商店(菰樽)
阪急電鉄神戸線塚口駅から市バスで御園団地下車
徒歩10分。
JR福知山線塚口駅下車徒歩10分。
阪急電鉄神戸線塚口駅下車徒歩15分。
ヒノデ阿免(あめ)久保商店阪神電鉄尼崎駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
尼崎市ちかまつ・文化・まち情報課06−6489−6385
尼信博物館06−6413−1121 
桜井神社06−6401−6643 
広済寺06−6491−0815 
近松記念館06−6491−7555 
本興寺06−6411−3217 
尼崎市立田能資料館06−6492−1777 
岸本吉二商店(菰樽) 06−6421−4454 
ヒノデ阿免(あめ)久保商店06−6411−0340 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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