月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・寺町通 

 京都市中心部の東寄りを南北に走る寺町通は、鞍馬口から五条に至る4.6km。この通りは天正18年(1590)に豊臣秀吉が行った京都大改造計画によって誕生したが、今出川通以北の東側には約800の寺が建ち並び、寺院の白い土塀がほとんど途切れることなく続いている。近年は新しい電化店街も生まれ、老舗と現代店舗の新旧織り交ぜた商店が並ぶ通りとして人気を集めている。


 
信長主従が眠る寺  放送 2月19日(月)
 寺院が建ち並ぶ寺町通の中で「織田信長公本廟」の石柱が門前に立つ阿弥陀寺は、信長に仕え、また信長の異母兄弟であったとも言われた清玉上人が開いた寺。
 本能寺の変の際、この清玉上人がひそかに信長の首を持ち帰り、荼毘に付して埋葬した阿弥陀寺が信長の本廟とされている。この変の時、二条新御殿で自害した信長の長男・信忠の遺骨も上人が阿弥陀寺へ持ち帰り、信長と同じ墓所に埋葬した。ほかに森蘭丸兄弟ら120名の臣下の墓も、主君の信長につき従うように並んでいる。なお信長の正式の菩提寺は、豊臣秀吉が建立した大徳寺総見院とされている。

開山 清玉上人

(写真は 開山 清玉上人)

織田信忠の墓(左)・織田信長の墓(右)

 本能寺の変では信長は燃えさかる寺の中で自刃したとされており、戦の混乱がおさまらず、明智光秀の軍勢に囲まれている時に、信長の首を持ち帰るのは不可能ではないかと疑問が残る。敵の光秀に主君・信長の首を渡してはならないと、家臣たちが本能寺境内で荼毘に付していたところへ上人が現れ、信長の遺骨を持ち帰ったとの説もある。光秀も信長の首がないのを不審に思い、部下に捜させたとも伝えられている。
 上人は阿弥陀寺に持ち帰った信長の首、あるいは遺骨をしばらくは寺に隠しておき、本能寺の変の余燼がおさまってから塔頭の僧侶たちだけで葬儀を執り行ったとされている。

(写真は 織田信忠の墓(左)
        織田信長の墓(右))

 阿弥陀寺の信長、信忠の墓所には「天正10年」と刻まれた墓石が二つ並んでおり、本堂の本尊脇には信長の木像が安置されている。この墓所を見る限り「これが天下にその名が聞こえた信長の墓か」と思えるほどものである。本能寺の変後、秀吉が法要料を出して盛大な法要を営み墓所を作らせようとしたが、清玉上人が固辞した。このため秀吉は大徳寺総見院を建立して墓所を作ったと言われている。
 阿弥陀寺は元は近江国・坂本(現大津市坂本)にあったが、信長の帰依を受けて京都・今出川大宮に移され、さらに秀吉の京都大改造の折に現在地に移された。

織田信長 木像

(写真は 織田信長 木像)


 
美術工芸の町  放送 2月20日(火)
 寺町通の京都市役所の北、西国三十三カ所第19番札所・行願寺、別名革堂(こうどう)から南の御池通までの間には、古書店と並んで古美術、古道具の店も多い。絵画や仏像、仏具、人形のほか、時代を経た家具、什器類、それに古着がつるされている。ひょっとして珍品や珍しい骨董品が掘り出せるのではないかと、これらの店を覗いて見るだけでも結構楽しいものだ。
 この通りで表の和風ウインドウに錫製の器などをひっそりと展示している「清課堂」は古道具店ではなく、錫を中心とする金属工芸品の製造販売店。

清課堂

(写真は 清課堂)

茶入れ

 清課堂は江戸時代後期の天保9年(1838)に初代・山中源兵衛が「錫源」を名乗って現在地に開業した。以来、錫を中心に各種金属素材を用いて宮中の御用品、神社仏閣の神仏具、茶道具、香道具、酒器、花器、置物、アクセサリー、食器類、日用品などを作り続けてきた。
 錫は古代エジプト時代から使われており、日本には弥生時代に伝わったと言われている。錫器に入れた水は腐りにくいとか、おいしくなるなどと言われ、宮中や社寺などで重用されてきた。また錫特有の感触や光沢が何とも言えない魅力で、酒好きの人は錫のタンポでかんをして、錫のぐい飲みでいただく酒の味は格別とか。

(写真は 茶入れ)

 錫は金属だが他の金属とは異なった特性を持っている。柔らかくて溶けやすい。これが製品を作る上でプラスでもあり、マイナスでもある。柔らかいため機械化による大量生産が難しく、職人の手作業でひとつひとつ作り出される。反面、溶けやすく柔らかいので加工しやすい利点はある。
 今は7代目・山中純平さんが伝統を守りつつ新感覚を研ぎ澄ませ、新しい製品の創作に取り組んでいる。そして「錫製品は他の洋食器などのように磨き込むのではなく、製品に出てくる錆と寂びが最大の魅力です。長年使い込むと独特の錆と寂びが出てきて、その人固有の1点物になります」と言っている。

徳利

(写真は 徳利)


 
ハイカラ通りの名店  放送 2月21日(水)
 寺町三条の東角で「牛肉 すき焼き」の大看板を掲げる「三嶋亭」が、この地に開業したのは明治6年(1873)。日本で肉食が市民権を得たのが明治5年と言うから、まさに文明開化のシンボル店であり、日本のすき焼きの草分けを自負している。創業当時の建物と明治時代の名残のガス灯が、店の正面の庇屋根の上に掲げられており、牛肉の味をひと筋に求め、提供してきた意気込みと歴史が感じられる。
 初代・三嶋兼吉は長崎で牛鍋の料理を妻とともに学び、この地に「西洋料理・牛肉販売所」の看板を掲げて営業を始めた。店には明治時代のすき焼きの道具類やメニュー(口演)なども残っている。

三嶋亭のすきやき

(写真は 三嶋亭のすきやき)

明治時代の道具類(三嶋亭)

 店内も明治時代のたたずまいが随所に見られ、落ち着いた雰囲気の中で最高級の牛肉がいただける贅沢な造りになっている。玄関を入ったフロントは数寄屋造、食事をする部屋は春夏秋冬の移ろいの坪庭が、障子越しに眺められる。欄間は京都の漆芸家の第一人者・故番浦省吾氏制作の「鹿と紅葉」などが取りつけられ、大広間の網代天井や照明器具、欄間も素晴らしい。
 すき焼きや水だき、オイル焼などに使う牛肉は、全国各地で厳選した黒毛和牛の最高級品。野菜は近郊でとれる新鮮な京野菜、そこへ三嶋亭特製の割下で味付けされ、最高の風味が出される。

(写真は 明治時代の道具類(三嶋亭))

 寺町三条上ル西側の「スマート珈琲店」は、昭和7年(1932)に洋食店として開業、創業以来70年の歴史を持つ京都を代表する喫茶店のひとつ。映画会社の京都撮影所が最盛期のころは、撮影の合間に映画俳優らも訪れ、今は亡き美空ひばりも常連客だったと伝えられている。
 店は宮大工の手で釘は1本も使わず、スイスの山小屋風に作られており、コーヒーのうまさは勿論、カップに描かれているハイカラなイラストもうれしい。創業当時の洋食店から戦後、スマート珈琲店となったが、20年前にハンバーグやオムライスを復刻したところ、シンプルな味が喜ばれ常連客が多い。

スマート珈琲店

(写真は スマート珈琲店)


 
源氏物語千年・廬山寺  放送 2月22日(木)
 廬山寺は天台宗中興の祖と言われた18世天台座主の元三(がんさん)大師・良源が、平安時代中期の天慶元年(938)に創建した寺。初めは与願金剛院と称し北山にあったが、鎌倉時代の寛元3年(1245)後嵯峨天皇の勅命で船岡山に移され、中国の廬山にちなみ廬山天台講寺(廬山寺)と改めた。
 応仁の乱で焼失したが再建され、元亀2年(1571)の織田信長の比叡山焼き打ちの時は、正親町天皇から奉書がくだされて焼き打ちを免れ、豊臣秀吉の京都大改造で現在地の寺町通に移ってきた。ちなみに元三大師は全国の社寺で盛んな吉凶を占うおみくじの祖とされている。

廬山寺

(写真は 廬山寺)

源氏物語五帖「若紫」(住吉内記廣尚 筆)

 由緒ある廬山寺だが、現在はもっぱら紫式部の寺として知られている。これはこの地が彼女の曽祖父の邸宅であったことによる。彼女はここで生まれ育ち、結婚生活を送り、ひとり娘の賢子を産み、源氏物語をはじめ紫式部日記、紫式部集など、ほとんどの著作をここで執筆したと推定されているからだ。
 日本人でだたひとり「世界の五大偉人」に選ばれ、フランスのユネスコ本部に登録された世界的文豪の作品が生まれたのが、廬山寺が建つこの地であり、今年は源氏物語の筆が起こされてからちょうど1000年に当たると言われる。

(写真は 源氏物語五帖「若紫」
             (住吉内記廣尚 筆))

 境内には考古学者の角田文衛博士の考証、復元による「源氏の庭」がある。白砂の中に苔と石が組み合わされた大小の小島が浮かぶ枯山水の庭の中央に、新島出文学博士の筆になる「紫式部邸宅址」の顕彰碑がある。この庭は平安朝時代の庭園の「感(かんじ)」を表現したもので、初秋の庭には紫式部にちなみ紫のキキョウの花が咲いて庭を彩る。
 境内にはほかに小倉百人一首にも入っている式部の歌「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」の歌碑や筆塚などがあり、日本最古の世界の文豪・紫式部に浸ることができる。

源氏の庭

(写真は 源氏の庭)


 
京の雅にふれる町  放送 2月23日(金)
 寺町通には伝統ある老舗ながら、豊かで華やかな色彩にあふれている店もある。二条上ルの「紙司 柿本」は弘化2年(1845)創業の紙の専門店。
 このあたりは竹屋が軒を連ねていた所で、柿本も江戸時代中期の享保年間(1716?36)に「竹屋 柿本長兵衞」の名で竹屋の店を始め、御所にも出入りしていた。江戸時代後期に子宝に恵まれなかった当主が、若狭の親戚から養子に迎えた金蔵が「町内みんなが竹屋では知恵がない」と、紙屋を始めたのが160余年も続いた「紙司 柿本」の始まりだった。

紙司柿本

(写真は 紙司柿本)

伊藤組紐店

 金蔵の進取の気性は代々の当主に引き継がれ、今も和紙や洋紙の新しい可能性を追求し、四季折々の花柄をあしらった和紙のレターセットや和紙のワープロ用紙など、現代感覚の紙を作り出している。
 日本人の美意識の中で洗練されながら進化してきた和紙は、柔軟性と保存性に優れ、紙の中でも最高級品とされている。さらに水の力を得て漉かれた和紙は容易に水に戻すことができ、エコロジーにぴったりだと注目を集めるようになっている。こうしたことからデジタル化が進んでも、文字や絵などを伝達したり、保存する媒介物としての紙の地位は、ゆるぎないものであるとの自信を深めている。

(写真は 伊藤組紐店)

 若者向けのケバケバしい店が多くなったあたりの六角北西角にある「伊藤組紐店」は、文政9年(1826)ごろの創業と言う。京都が幕末の戦火に見舞われて店が焼け出されるなど、幾度も苦難を切り抜け、日本独特の文化である組紐の技を伝えている。
 江戸時代には刀の下緒、戦時中は軍刀の房などを作った時もあった。戦後、伝統の日本文化が見直されるようになり、組紐の美しさが生かされた帯締や羽織や和服コートの飾り紐、茶入れや道具袋の締緒、能面の紐、茶壺や七宝用の網などが作られている。店内にはこうした伝統の組紐やその材料が所狭しと並んでいる。

組紐の製作

(写真は 組紐の製作)


◇あ    し◇
阿弥陀寺京阪電鉄出町柳駅下車徒歩20分。
京都市バス葵橋西詰下車徒歩10分。 
清課堂(金属工芸)京阪電鉄三条駅下車徒歩15分。
京都市営地下鉄東西線、京都市バス京都市役所前
下車徒歩5分。
三嶋亭(すきやき)、スマート珈琲店、伊藤組紐店 京阪電鉄三条駅下車徒歩10分。阪急電鉄河原町駅下車徒歩10分。
京都市営地下鉄東西線、京都市バス京都市役所前
下車徒歩10分。
廬山寺京阪電鉄丸太町駅下車徒歩20分。
京都市バス府立医大病院前下車徒歩5分。 
紙司柿本京阪電鉄三条駅下車徒歩20分。
京都市営地下鉄東西線、京都市バス京都市役所前
下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
阿弥陀寺075−231−3538 
清課堂075−231−3661 
三嶋亭075−221−0003 
スマート珈琲店075−231−6547 
廬山寺075−231−0355 
紙司柿本075−211−3481 
伊藤組紐店075−221−1320 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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