月〜金曜日 18時54分〜19時00分


三重・伊勢神宮と斎王 

 天皇に代わって伊勢神宮に仕えた斎王の制度は、天武天皇の代から南北朝時代の後醍醐天皇の代まで約660年間続いた。三重県には伊勢神宮に関わる文化や史跡が多いが、中でも斎王にまつわる史跡や伝承は、都の雅と華やかさが持ち込まれている。今回は王朝文化が漂う斎王にまつわる話題を探ってみた。


 
御杖代斎王(明和町)  放送 3月5日(月)
 伊勢神宮から北西へ約10kmのところにある明和町は、斎王と斎王に仕える500人以上もの官人、官女が暮らした宮殿の斎宮があったところ。
 斎王とは天皇に代わって伊勢神宮に仕えた女性で、天皇が代わるごとに未婚の内親王(天皇の娘)か女王(天皇の兄弟の娘)の中から占いによって選ばれ、都で足かけ3年に及ぶ潔斎の後、神嘗祭(かんなめさい)の行われる秋に合わせて9月上旬に5泊6日をかけて伊勢へ向かった。伊勢に向かうこの斎王の行列を斎王群行と言い、華麗な行列はその道中の町や村で大変な話題となった。
この制度は、7世紀後半の飛鳥に都があった天武天皇の代から南北朝時代の後醍醐天皇の代まで約660年間続いた。

斎宮 堀立柱建物跡

(写真は 斎宮 堀立柱建物跡)

朱彩土馬(斎宮歴史博物館 蔵)

 明和町に斎宮と言う地名があるが、斎宮がどこにあったかは不明で「幻の宮」と言われていた。昭和45年(1970)住宅団地の造成がきっかけになって、事前発掘調査が行われた結果、堀立柱建物群跡や陶器や朱彩土馬などが多数出土し、斎宮の存在とその位置が明らかになった。その後の調査で斎宮の範囲は東西2km、南北700m、甲子園球場35個分の約140haにおよぶ広大な地域であることが分かった。
 斎宮には斎王が生活した内院のほかに役所の斎宮寮の庁舎があった中院、官人の住居や官舎があった下院に別れ、総数で約100棟以上の建物が建ち並んでいたと見られ、斎宮跡地に10分の1の斎宮の全体模型が復元されている。

(写真は 朱彩土馬(斎宮歴史博物館 蔵))

 斎王の務めは伊勢神宮の祭に天皇に代わって参加することだが、伊勢神宮の内宮と外宮に赴いたのは、いずれも旧暦の9月の神嘗祭、6月と12月の月次祭(つきなみさい)の年3回。斎王は宮司から榊の枝に麻の繊維を付けた太玉串を受け取り、神宮の瑞垣御門前の西側に立てるのが任務で、斎王は天照大神の杖の代わりになって案内することから御杖代(みつえしろ)と呼ばれ、崇められていた。
 年の3回の祭に赴く以外は、斎王は斎宮でつつしみ深い生活を送っている。斎宮には内親王や女王だった斎王や官人や官女たちの立ち居振る舞いや生活、遊びには京の都の雅な華やかさが持ち込まれていた。

10分の1史跡全体模型

(写真は 10分の1史跡全体模型)


 
斎王ゆかりの地(明和町)  放送 3月6日(火)
 斎王や斎宮のことを知るには、まず斎宮歴史博物館へ行くのが近道。広い斎宮跡の西部に建つこの博物館は、十二単(じゅうにひとえ)の曲線と伊勢の海の波をデザインに取り入れた優美な外観で史跡にマッチさせ、遺構を傷つけないように特殊な工法で建てられた。
 館内の展示室は「文字からわかる斎宮(展示室T)」「ものからわかる斎宮(展示室U)」「映像展示室」に分かれ、斎宮跡の発掘調査で出土した豊富な実物資料や模型、映像資料、さらに音響を活用して斎王の誕生、暮らしまでのすべてが、子供にも楽しめるように見せてくれる。

大淀の浜

(写真は 大淀の浜)

業平松

 展示室Tには葱花輦(そうかれん)と呼ばれる斎王の輿(こし)の模型があり、その奥に原寸大の斎王の居室が復元され、部屋には十二単の斎王と斎王に仕える女官の最高責任者の命婦(みょうぶ)の人形や調度品が置かれ、斎王の臨場感あふれる生活が再現されている。
 展示室Uには斎宮跡の航空写真の中に配した400分の1の模型で斎宮の全体像がよくわかる。ほかに出土した緑釉陶器把手付瓶、朱彩土馬、陶硯(とうすずり)などが展示され、映像展示室ではハイビジョン映像によって斎王に選ばれた後の儀礼、都から伊勢へ向かう旅の「斎王群行」などの映像が上映されている。

(写真は 業平松)

 明和町の伊勢湾に面する大淀浜は古くは尾野湊と言い、旧暦9月の神嘗祭に出向く斎王が8月の終わりに禊(みそぎ)を行った所で「斎王尾野湊御禊場阯」と刻まれた大きな石碑が立っている。
 その西200mのところに業平松と呼ばれる2本の松がある。伊勢物語に「大淀の 松はつらくも あらなくに うらみてのみも かへる浪かな」と詠まれた歌に出ている松のことで、現在の松は3代目。文徳天皇の第4皇女で31代斎王になった恬子(やすこ)と、斎宮を訪れた歌人・在原業平が互いに恋心を抱きながら別れねばならなかった物語で、土地の人たちが二人の悲恋に同情して業平松と呼ぶようになったと言う。

伊勢物語絵馬(斎宮歴史博物館 蔵)

(写真は 伊勢物語絵馬(斎宮歴史博物館 蔵))


 
斎宮の暮らし(明和町)  放送 3月7日(水)
 近鉄斎宮駅の南、参宮街道沿いにひっそりと建つ竹神社の社殿は、小さいながらも伊勢神宮と同じ唯一神明造と言う格式高いもので、屋根には千木(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)がある。竹神社は明治44年(1911)に斎宮歴史博物館南の森の中にあった旧竹神社が合祀されるまでは野宮と呼ばれていた。竹神社には鳥居の奥に大きな門があり、普段は扉が閉められ境内へ入ることができない。
 斎宮跡発掘調査で境内を取り囲むような柵列が見つかり、斎宮内院の区画のひとつを囲っていたものと考えられている。また斎宮城があったとの伝承も残っているが、証明できる遺物や出土物はない。

竹神社

(写真は 竹神社)

貝覆い(いつきのみや歴史体験館)

 斎宮駅のすぐ北に平安貴族の邸宅の寝殿造をモデルにした「いつきのみや歴史体験館」では、斎王をはじめ官人、官女らの平安時代の遊びや食事、生活文化などさまざまな体験ができる。
 「平安貴族の気分にひたれる」と観光客に人気があるのが、十二単(じゅうにひとえ)や直衣(のうし)などの平安装束の試着(有料)。午前と午後の1日2回、各回とも事前に予約した1名のみが試着できる。ペアー試着デーは毎月1日、家族試着デーは毎月第3日曜日に1組4名まで。斎王が乗った葱花輦(そうかれん)と呼ばれる輿(こし)に乗って斎王気分にもなれる。

(写真は 貝覆い(いつきのみや歴史体験館))

 サイコロを振って目の数だけ駒を進める盤双六(ばんすごろく)、2枚のハマグリの貝を合わせる貝覆いと呼ばれる貝合わせと言った室内遊技、蹴鞠(けまり)や長い柄のついた槌(つち)で木製の毬(まり)を打ち合う毬杖(ぎっちょう)と言った庭での遊びのほかに、機織り、火起こし、季節ごとに屠蘇(とそ)づくり、七種粥(ななくさかゆ)づくり、粽(ちまき)づくりなどが体験できるようになっている。
 明和町観光協会へ2、3日前に予約しておけば、黒米のご飯と平安時代に使われていた食材で作った「斎王御膳(2000円)」「斎王弁当(1000円」が味わえ「私も斎王よ」と言った気分になれる。

斎王御膳

(写真は 斎王御膳)


 
神御衣(松阪市)  放送 3月8日(木)
 神御衣(かんみそ)とは神様の衣のこと。伊勢神宮内宮では毎年5月14日と10月14日に天照大神の衣替えとして絹布の和妙(にぎたえ)と麻布の荒妙(あらたえ)をお供えする神御衣祭(かんみそさい)が行われる。
 和妙が織られるのは松阪市郊外のこんもりとした森の中に鎮座する神服織機殿(かんはとりはたどの)神社。ここから南へ2.5kmほど離れたところの森の中に神麻続機殿(かんおみはたどの)神社があり、ここで荒妙が織られる。機殿の起源は倭姫命(やまとひめのみこと)が、伊勢の地を天照大神の鎮座地とした時、宇治の機殿を伊勢に建て、天棚機姫(あめのたなばたひめ)神の子孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に和妙を織らせたのが始まりと伝えられ、天武天皇の時代に紡績が盛んだった松阪に移された。

神服織機殿(かんはとりはたどの)神社

(写真は 神服織機殿(かんはとりはたどの)
                                                   神社)

和妙(にぎえ)(神宮徴古館農業館 蔵)

 和妙と荒妙が織られる両神社へは伊勢神宮から神職が5月1日と10月1日に出向き、神御衣奉織始祭を行い、両神社の八尋殿(やひろどの)の織り機で織られる。ここは清浄な場所なので一般の人は近づくことはできない。
 地元の人たちが「下館(しもだて)さん」とか「下機殿(しもはたでん)」と親しみを込めて呼んでいる神服織機殿神社での作業は、地元の機織に関係のある家の長男が織っていたが、織子の祖神は天棚機姫や八千々姫命だったことにちなんで、昭和42年(1967)から女性の手で織られることになった。一方「上舘さん」とか「上機殿」と呼ばれている神麻続機殿神社の方は男性が麻糸を使って麻布の荒妙を織る。

(写真は 和妙(にぎたえ)
                            (神宮徴古館農業館 蔵))

 和妙と荒妙は織り始められてから4、5日で幅45cm、長さ12mの絹布と麻布が織りあがる。この布を箱に入れて八尋殿で乾燥させ、5月13日、10月13日に滞りなく神御衣が織りあがったことに感謝する神御衣奉織鎮謝祭が行われ、車で伊勢神宮内宮へ運ばれる。昔は箱に入れて神職が付き添い歩いて運んだ。
 内宮に運ばれた和妙と荒妙は、翌日の14日の神御衣祭で、天照大神が祀られている皇大神宮と皇大神宮に準ずる別宮・荒祭宮(あらまつりのみや)へ供えられる。神御衣は反物のままで供えられるので、付属の御供物として縫い針、縫い糸などの裁縫道具一式が添えられる。

神麻続機殿(かんおみなたどの)神社

(写真は 神麻続機殿(かんおみなたどの)神社)


 
大神の遥宮(大紀町)  放送 3月9日(金)
 伊勢市から宮川を遡った上流にある支流の大内川が、深い渓谷をなして流れる山間に鎮座するのが瀧原宮(たきはらのみや)。ここには瀧原宮と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があり、両宮とも天照大神の御魂を祀り、伊勢神宮内宮の皇大神宮の別宮となっている。皇大神宮から遠く離れているので大神の遥宮(とおのみや)と呼ばれて尊ばれてきた。
 瀧原の地名は大小多くの滝があるところからきており、崇神天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座地を求めて各地を巡っていた時に「大河の瀧原の国」と言う美しい土地と言われたここに、新宮を建てて天照大神の御魂を祀ったのが瀧原宮の起こりとされる。

瀧原

(写真は 瀧原)

御手洗場(みたらし)

 その後、倭姫命が五十鈴川のほとりを天照大神の鎮座地と定めたため、瀧原宮は別宮となったが、皇大神宮に準じた扱いで、祭典も祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭(にいなめさい)などが行われ、皇室から御供え物がある。
 社殿も内宮と同じ唯一神明造で屋根には堅魚木(かつおぎ)や千木(ちぎ)がそびえ、周囲には瑞垣、玉垣で2重に囲まれ、それぞれに瑞垣御門、玉垣御門がある。また皇大神宮と同じように20年に1度の式年遷宮が伊勢神宮の式年遷宮の翌年に行われ、新しい社殿が建て替えられる。

(写真は 御手洗場(みたらし))

 44haにおよぶ広大な宮域の地勢は伊勢神宮内宮と極めて似ており、樹齢数百年の神杉の大自然林に囲まれた参道や本殿周辺には森厳の気が漂っている。清らかな清水が流れる御手洗場も、内宮の五十鈴川の御手洗場を思い浮かべさせるほど似た感じである。
 皇大神宮の別宮は6宮あり、それぞれ歴史や由来は異なる。別宮で順位が最も高いのは内宮にあって、皇大神宮と同じように天照大神の衣替えの神御衣(かんみそ)が供えられる荒祭宮(あらまつりのみや)。内宮への供物を採る地に祀られた志摩市磯部町の別宮・伊雑宮(いざわのみや)も遠く離れた大神の遥宮で、御田植祭が有名で漁師や海女たちの信仰が篤いことでも知られる。

瀧原宮

(写真は 瀧原宮)


◇あ    し◇
斎宮跡、竹神社近鉄山田線斎宮駅下車徒歩5分。 
斎宮歴史博物館鉄山田線斎宮駅下車徒歩15分。 
いつきのみや歴史体験館近鉄山田線斎宮駅下車すぐ。 
神麻続機殿神社近鉄山田線漕代駅下車徒歩30分。 
神服織機殿神社神麻続機殿神社から北へ徒歩30分。 
瀧原宮JR紀勢線滝原駅下車徒歩20分。 
◇問い合わせ先◇
明和町産業課商工観光係0596−52−7138 
明和町観光協会0596−52−0055 
斎宮歴史博物館0596−52−3800 
いつきのみや歴史体験館0596−52−3890 
神宮司廳0596−24−1111 
瀧原宮0598−86−2018 

◆歴史街道とは

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