月〜金曜日 18時54分〜19時00分


彦根市・築城400年の彦根城 

 国宝・白亜の天守閣が美しい名城・彦根城は2007年、築城400年を迎え、3月21日から11月25日まで築城400年祭としてさまざまな行事が予定されている。今回は築城400年祭に訪れる人たちの予備知識にしてもらうため彦根城を探訪してきた。


 
天下の名城  放送 3月19日(月)
 近江国の彦根は古来から近畿、東海、北陸を結ぶ要衝の地だった。「井伊の赤備え」で勇名をはせた井伊直政が関ヶ原の戦の戦功によって、徳川家康から初代彦根藩主に取り立てられ、関ヶ原の戦で炎上した石田三成の佐和山城に入った。直政は佐和山城を廃城にして新しい城の築城構想を練っていたが、関ヶ原の戦での傷が悪化して42歳で没した。
 築城の遺志は直政の嫡子・直継と2代藩主・直孝が引き継ぎ、金亀山(こんきやま)・別名彦根山に慶長8年(1603)から築城を始め、慶長11年(1606)天守など主要部分を完成させ、元和8年(1622)に20年の歳月を費やした名城・彦根城が完成した。

佐和口多聞櫓

(写真は 佐和口多聞櫓)

馬屋

 彦根城は築城以来、彦根藩井伊家35万石の居城として江戸時代の260年、明治維新後の140年、合わせて400年にわたって彦根の町を見守ってきた。三層白亜の天守閣、二重の堀に囲まれた城郭の姿は、ほぼ昔のまま残っていて天下の名城と謳われている。
 彦根城を訪れた人がいろは松の松並木に沿って表門へ向かうと、中堀の石垣の上に建つ佐和山城から移した二の丸佐和口多聞櫓(国・重文)が目に飛び込んでくる。この多聞櫓を抜けると藩主が使う10数頭の馬がつながれていた馬屋(国・重文)がある。この馬屋は元禄時代の建築で、城内に今も馬屋が残っているのは彦根城だけだと言う。

(写真は 馬屋)

 表門をくぐり天守閣へ向かう表坂は、曲がりくねった石段まじりの坂道で、石段の高さが不規則で登りづらく、両側に石垣がそびえ堀の底を歩いているようだ。この空堀のような石段の坂道を登ると、頭上に廊下橋と呼ばれる橋が架かっており、橋を挟んで左右対称にある櫓を天秤櫓(国・重文)と言う。
 天秤櫓にはいくつもの鉄砲や矢を射る狭間(はざま)あり、廊下橋と天秤櫓から空堀のような坂道を登ってくる敵を襲撃するようになっている。いざという時には天守閣に通じる廊下橋を落とし、天守閣へ進めないようにしてしまうこともできる。本丸の天守閣を守るために二重三重の防御が施されている彦根城の守りの固さがうかがえる。

天秤櫓

(写真は 天秤櫓)


 
天守を目指して  放送 3月20日(火)
 彦根城築城の用材は、近江の豊臣色の城郭一掃を兼ねて佐和山城、長浜城、大津城、安土城、小谷城などの用材、石垣が使われた。天守閣をはじめ二の丸佐和口多聞櫓、天秤櫓、太鼓門櫓などは、いずれも各地の城から移築されたり、用材が再利用されている。
 表門から表坂を登り、天秤櫓(国・重文)を過ぎると間もなく左手に大ぶりの釣鐘が見える。鐘楼からは城下の町並みが一望でき、城と町に時を告げてきた時報鐘である。今も毎日午前6時から3時間おきに1日5回、時を告げており、彦根市民は時計代わりにしている。

時報鐘

(写真は 時報鐘)

太鼓門櫓

 江戸時代末期に12代藩主・直亮が、響きをよくするため鉄に多量の小判を鋳込んで鋳造させたと言われる時報鐘は、外径約80cm、高さ約115cm、重さ600kg。この時報鐘はいつ、どのような由来で設けられたのか不明だが、元は城の東南の「鐘の丸」にあったが、鐘の音が城内に響かず時を知らせる役目を果たしていないと、江戸時代初めに城内の中心部の現在地に移された。
 最近は城下に高い建物が建てられたり、自動車などの騒音が激しくなってきたため、時報鐘の音が聞こえない場所が出てきており、彦根市民を寂しがらせている。

(写真は 太鼓門櫓)

 天守閣のある本丸表口を固めるのが太鼓門櫓(国・重文)で、城内に合図をする太鼓が置かれていたことからこの名がつけられた。本丸への最後の関門であり、堅牢な造りになっている。柱に釘の跡が残っていたことから、築城前から彦根山にあった彦根寺の楼門と伝えられていたが、最近の調査で佐和山城か長浜城の城門を移築したとの見方が強まった。
 この太鼓門櫓を抜けると高さ21m、三層三階の美しい天守閣(国宝)が眼前に迫ってくる。姫路城のように大規模な天守閣ではないが、屋根が多様な形の唐破風や切妻千鳥破風、入母屋千鳥破風をバランスよく組み合わせ、二層、三層の壁の花頭窓の曲線が美しい。

天守閣

(写真は 天守閣)


 
国宝天守閣  放送 3月21日(水)
 一見すると粗雑そうに見える牛蒡積(ごぼうづみ)石垣に支えられて建つ三層三階の彦根城天守閣。この牛蒡積工法の石垣は、外見からは想像もできないほど強固で、彦根城内の各所にこの工法で積まれた石垣があり、天守閣をはじめ櫓などの城内の建造物を支えている。
 彦根城天守閣は大津城から移築したもので慶長11年(1606)に完成した。現存する天守閣建築としては最古の遺構で、昭和27年(1952)に国宝に指定された。日本の天守閣で国宝に指定されているのは、彦根城のほか姫路城、松本城、犬山城の4天守閣だけである。

西の丸三重櫓

(写真は 西の丸三重櫓)

琵琶湖

 四層五階だった大津城の天守閣を大工棟梁の浜野喜兵衛が、三層三階、高さ21mと少し小さくして再建したと彦根旧時記に記されている。
 彦根城天守閣の美しさは、多様な形の屋根の組み合わせと漆喰壁にバランスよく配置された窓にある。唐破風や切妻千鳥破風、入母屋千鳥破風の屋根が見事に組み合わせられ、二層、三層の壁には寺院などで使われる花頭窓が18ヵ所に取りつけられ、この花頭窓のバラエティに富んだ曲線が美しい。三層には勾欄(こうらん)付廻縁を四隅に取りつけるなど、華麗な姫君の姿さえ連想させような天守閣である。

(写真は 琵琶湖)

 月明かりに浮かぶ天守閣の美しさは格別で、今も「月明・彦根の古城」として琵琶湖八景のひとつになっている。もちろん外観ばかりでなく、敵の襲撃に備えた城郭本来の守りの機能も非常に優れている。
 天守閣内部に入るとまず天井の太く曲がりくねった梁が縦横に走っている力強さに目を見張らされる。天守閣をめがけて来襲する敵に鉄砲、矢を浴びせかけるための三角、四角の狭間(はざま)が、天守閣内に75個所も設けられ、外からは見えないように漆喰で塗り込められており、戦いの時には壁を破って使うようになっている。関ヶ原の戦の直後に築城された彦根城の美しい名城の裏には、大坂城の豊臣秀頼と淀君や豊臣恩顧の西国大名への備えが随所に見られる。

鉄砲挟間

(写真は 鉄砲挟間)


 
玄宮園と埋木舎  放送 3月22日(木)
 彦根城には天守閣など主要な建物のほかにも見どころが多い。天守の北東、内堀の外の池泉回遊式庭園「玄宮園」は、4代藩主・直興が延宝5年(1677)中国・唐の玄宗皇帝の離宮をなぞらえて造園した名庭園。池の周りには中国・洞庭湖の瀟湘(しょうしょう)八景に因んで選ばれた近江八景を模した風景を現すための樹木や岩石が配置され、見飽きることのない庭園である。
 園内の築山にあるひなびた建物の茶室「鳳翔台」は、藩主が客をもてなすための客殿で、玄宮園の美しさを観賞するには最適の場所であり、庭園を眺めながら薄茶(500円)もいただける。また、池の北岸から池を手前に「鳳翔台」などの建物越しに天守閣を望む構図は、四季を通じて彦根城を代表する屈指の景色である。

玄宮園

(写真は 玄宮園)

鳳翔台

 春は花の香り、夏は蝉しぐれ、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季を通じて美しい景色を観光客の前に現出する玄宮園では、毎年秋には「虫の音を聞く会」が催される。ライトアップされた天守閣と中秋の名月を眺めながらスズムシやマツムシなどの虫の音を聞くひとときは、彦根城ならではの最高の贅沢であり、至福の時でもある。
 外堀に接した「埋木舎(うもれぎのや)」は、13代藩主で安政5年(1858)幕府大老となり、日本を開国に導いたものの安政7年(1860)3月、桜田門外で水戸浪士に暗殺されて46歳の生涯を閉じた幕末のヒーロー・井伊直弼が17歳から32歳までの15年間を過ごした住宅。中級藩士の居宅程度の質素な武家屋敷で、直弼が生活していたままの居間や茶室などがよく保存され、一般公開されている。

(写真は 鳳翔台)

 直弼は11代藩主・直中の14男として文化12年(1815)に生まれ、5歳で母を失い、17歳で父を亡くした。多くの兄がいた直弼は藩主になれる見込みはなく、藩の掟によって300俵の捨扶持で暮らす部屋住みだった。
 この不遇の身を「世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と嘆じた歌を詠み、この住まいを「埋木舎」と名づけた。この埋木舎で国学や和歌、禅、武道、槍術、茶道、華道など、文武両道の修練の日々を送った。その中でも「茶、歌、ポン(鼓、能)」とあだ名されるほど茶道、和歌、能は達人の域に達する文化人で、埋木舎の生活が幕末に世界の中の日本を見る目を養い、グローバルな考えを持つ大人物を作りあげたと言える。

埋木舎

(写真は 埋木舎)


 
彦根城博物館  放送 3月23日(金)
 彦根城の表門を入るとすぐ目の前の武家屋敷に見える建物が彦根城博物館。歴代藩主が起居し、政務を執った表御殿を、彦根市制50周年記念事業として復元して博物館機能を持たせ、昭和62年(1987)にオープンした。館内には井伊家に伝わる美術工芸品や古文書類、武具など6万5000点が収蔵、展示されている。
 その中で井伊家のシンボルと言えるのが「井伊の赤備え」として知られる甲冑、太刀だろう。2代藩主・井伊直孝が着用した薫革威段替胴具足(くすべがわおどしだんがえどうぐそく)は、無用な装飾のない実戦向きの重厚な造りで、歴代藩主の具足の中で最も完成された具足とされている。ほかに初代藩主・井伊直政着用の胴具足や鎧、刀など戦場を疾風のごとく駆け抜けた武具が並べられている。

二代藩主 井伊直孝所用具足

(写真は 二代藩主 井伊直孝所用具足)

能舞台

 歴代藩主は武道と共に茶、歌道、能楽など風雅のたしなみが深く、その方面の品も多い。館内中央の能舞台は江戸時代の旧表御殿唯一の遺構で、明治維新後、別の場所に移されていたものを移築復元した格式高い能舞台である。博物館にはほとんどの演目が上演できる能面や能装束、小道具類が保存されており、毎年春と秋には演能会が催される。
 国宝の彦根屏風は六曲一双の金地濃彩屏風で、寛永年間(1624〜44)に狩野派絵師により描かれたもので、15人の男女が描かれている。

(写真は 能舞台)

 徳川家光から拝領した我宿蒔絵硯箱(わがやどまきえすずりばこ=国・重文)など、藩主らが用いた茶道具や陶器類なども多い。幕末の大老・井伊直弼の二女・弥千代姫の雛(ひな)道具や幻の焼き物と言われた「湖東焼」など珍しい品もある。徳川幕府の大老を6人も出した井伊家文書(国・重文)は、幕府の政治を知る上で貴重な資料とされ、幕末の開国を巡る動きや安政の大獄などの様子を知ることができる。
 館内には展示施設のほかに御座の間や茶室、庭園も復元されており、博物館全体が彦根城表御殿という展示物とも言える。茶室では定期的に茶会が催され、休憩コーナーには茶席が設けられ、能舞台を眺めながら薄茶(500円)を味わうことができる。

天光室

(写真は 天光室)


◇あ    し◇
彦根城
玄宮園
埋木舎
彦根城博物館
JR東海道線、近江鉄道彦根駅下車徒歩15分。
JR東海道線、近江鉄道彦根駅からバスで彦根城下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
彦根市産業部観光課0749−22−1411 
彦根市観光協会0749−23−0001 
彦根城0749−22−2742 
埋木舎0749−23−5268 
彦根城博物館0749−22−6100 

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