月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山市、海南市

 紀淡海峡に面した和歌山市と海南市の海沿いには風光明媚な景勝地が多く、飛鳥、藤原、奈良時代には天皇の行幸に供をした万葉歌人たちが多くの歌を詠んでいる。平安時代以降は熊野詣の上皇、天皇、貴族たちも、これらの風景を楽しみながら熊野三山を目指した。江戸時代に入ってから徳川御三家のひとつ、紀州徳川家のお膝元となり、文化や産業などに徳川家から大きな影響を受けた町である。


 
西国三十三ヵ所第2番札所
・紀三井寺(和歌山市)
放送 4月23日(月)
 紀三井寺は早咲きの桜の名所として知られ、毎年、桜の開花を知らせるテレビ、ラジオ、新聞のニュースで、関西への桜前線の訪れを知る。約1000本の桜が満開になる全山の景色は見事の一語で、参詣者が一段と多くなるのもこの季節である。
 紀三井寺は宝亀元年(770)唐僧・為光上人の創建で、正式名称は金剛宝寺護国院。仏教を広める地を探し求めていた為光上人が、名草山に一条の光を見て登ったところ金色の千手観世音菩薩像を見つけた。この地に一宇を建て、自ら十一面観世音菩薩像を刻み金色の観音像を胎内に納めて安置したのが、本尊の十一面観世音菩薩像(国・重文)と伝えられている。

紀三井寺参詣曼茶羅図

(写真は 紀三井寺参詣曼茶羅図)

清浄水

 紀三井寺の名は山内に清浄水(しょうじょうすい)・楊柳水(ようりゅうすい)・吉祥水(きっしょうすい)と言う三つの霊泉が涸れることのなく湧くことによる。近江の三井寺と混同しないように紀伊国の「紀」の字をつけて呼んだ。
 重量感のある楼門(国・重文)をくぐり、231段の急な石段を汗をかきながら登った巡礼者たちは、本尊の観音様に願いをかけて一心に祈っている。若いころの紀伊国屋文左衛門が母を背負ってこの石段を登り、母親に観音様への参詣をさせたとのエピソードが残っている。その途中、ぞうりの鼻緒が切れ、通りかかった玉津島神社の宮司の娘・かよが鼻緒をすげ替え、これが縁で結ばれた。宮司の出資によるみかん船で大儲けをしたとされ、この坂を結縁坂と言う。

(写真は 清浄水)

 紀三井寺は歴代天皇の行幸があり、後白河法皇は勅願所とするなど朝廷の崇敬も篤かった。鎌倉時代には500人を超える僧侶を抱えていた大寺で、江戸時代には紀州藩の歴代藩主も篤く信仰、寺領などを寄進した。明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で一時衰退した。寺には本尊、楼門のほかにもう1体の十一面観世音菩薩像、千手観世音菩薩像、梵天、帝釈天像、鐘楼、多宝塔が国の重文に指定されている。境内からの眺めもよく、眼下に和歌山市街地や和歌浦の景勝地が一望できる。
 紀三井寺の御詠歌は花山法皇が熊野詣の帰途、都が近づいた喜びを詠んだもので「ふるさとを はるばるここに きみいでら はなのみやこも ちかくなるらん」。

十一面観音菩薩像

(写真は 十一面観音菩薩像)


 
万葉ゆかりの和歌浦
(和歌山市)
放送 4月24日(火)
 万葉集には紀伊国を詠んだ歌が107首あり、その中に和歌浦を詠んだ歌が11首ある。奈良時代の神亀元年(724)に即位したばかりの聖武天皇が、山部赤人らを伴って和歌浦へ行幸した際にも何首もが読まれている。
 「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」=山部赤人。潮が満ちて干潟がなくなるので、鶴が葦の岸辺へ鳴き渡って行く景色を詠んだこの歌はことに有名で、名勝・和歌浦を全国に知らしめた。
 「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」=藤原卿。この歌は海を望む美しい風景に感動し、その美しさを持ち帰って実際に都の人びとに見せてあげられないもどかしい気持ちを表している。

観海閣

(写真は 観海閣)

萬葉集略解(万葉館 蔵)

 山辺赤人が詠んだ歌の「潟を無み」が変じて、和歌浦に突き出た砂州が「片男波」と名づけられ、地名として今に残っている。聖武天皇の行幸の時、この地が「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていたのを、景勝の地にちなみ「明光浦(あかのうら)」と称し、それが「和歌浦」に変わっていったと言われる。
 片男波は片男波公園として整備され、砂州沿いの「万葉の小路」には和歌浦を詠んだ万葉歌碑5基6首がある。また公園内の万葉館には紀伊国を詠んだ万葉歌の資料を展示、解説している。紀伊万葉シアターでは紀伊国を歌で詠んだ万葉歌人たちのプロフィール、歌の舞台を訪ねた「紀伊国万葉の旅」などを大型画面の映像で紹介している。和歌浦の景色が楽しめるギャラリーには万葉歌や和歌浦を題材にした絵画などが展示されている。

(写真は 萬葉集略解(万葉館 蔵))

 中国の西湖の六橋を模して作られたと言う三断橋を渡り和歌浦に浮かぶ小さな小島の妹背山へ。
この小島に紀三井寺の拝殿として紀州藩初代藩主の徳川頼宣が建立したと言う観海閣が海の上に建っており、潮が満ちてくると脚が水中に没して水面に建物が影を落とす。観海閣からの眺めは素晴らしく、特に和歌浦に沈む夕日、和歌浦の海の上に輝く月の眺めは和歌浦ならではの風情がある。
 藤原卿が詠んだ玉津島は今は小山になっているが、古くは海の中の玉のような島で、風光明媚で神のおわす島とされ、万葉集にも玉津島を詠んだ歌が多い。玉津島神社の三柱の女祭神のひとり、衣通姫(そとおりひめ)は衣を通しても輝くばかりの美女で和歌の名手であったことから、この神社は和歌の神として朝廷人や文人、墨客らの崇敬を受けていた。

玉津島神社

(写真は 玉津島神社)


 
紀伊風土記の丘(和歌山市) 放送 4月25日(水)
 和歌山県立紀伊風土記の丘は、5〜7世紀に造られた国指定特別史跡の岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群の保存と活用を目的に、昭和46年(1971)にオープンした博物館施設。総面積65万平方mもの広大な史跡公園全体がひとつの博物館となっており、園内の古墳は約430基、周辺地域を含めると700基あまりの古墳がある国内最大の群集墳である。
 公園内には古墳のほかに文化財に指定された民家、万葉植物園、復元した竪穴住居、資料館などがある。四季折々の自然を楽しみながらのハイキングコースとしても親しまれており、古墳などの文化財に直接触れながら古い住居での体験学習などを通じて歴史を学ぶことができる。

二面相埴輪(和歌山県教育委員会 蔵)

(写真は 二面相埴輪
(和歌山県教育委員会 蔵))

復元竪穴住居

 風土記の丘の古墳は石棚、石梁を持つ独特の構造の横穴式石室が特徴であり、13基の古墳は竪穴式石室や箱式石棺など古墳内部が見学できる。風土記の丘の稜線部には前方後円墳が並んでおり、古墳群の中で最大級の大日山35号墳は、全長が105mで和歌山県内で最大の前方後円墳でもある。
 大日山35号墳からは、ほかには例のない翼を広げた鳥形埴輪と表裏二つの顔がある人物埴輪が出土している。二つの顔にはいれずみがあり、なぜ表情の違う顔が一体となっているのかなど、埴輪の意味は不明で謎の埴輪と言われている。岩橋千塚古墳群の被葬者はわからないが、当時紀ノ川河口の平野部に強大な勢力を持っていた豪族・紀氏一族を埋葬したものではないかとされている。

(写真は 復元竪穴住居)

 古墳時代の住居を復元した竪穴住居の中は薄暗く、広さは約14畳ほどである。そこにはカマドや貯蔵穴もあって古代人の生活ぶりがうかがえる。カマドで火を燃やして古代人の生活がどのようなものであったかの体験教室も開いている。
 園内には文化財に指定されている民家4軒が移築され一般公開されている。海南市黒江の大庄屋で漆器問屋を営んでいた「旧柳川家住宅(国・重文)」は、江戸時代後期の文化4年(1807)に建てられた商家。「旧谷山家住宅(国・重文)」は江戸時代中期の寛延2年(1749)建築の漁家。ほかに和歌山県指定文化財の「旧谷村まつ氏旧宅」と「旧小早川梅吉氏住宅」があり、この住宅からは農山村の生活の様子がうかがえる。

旧柳川家住宅

(写真は 旧柳川家住宅)


 
友ヶ島(和歌山市) 放送 4月26日(木)
 加太港から船で20分、淡路島との間の紀淡海峡に浮かぶ沖ノ島、地ノ島、虎島、神島の4島を総称して友ヶ島と呼んでいるが、地続きになっている沖ノ島と虎島を友ヶ島とも言う。神功皇后が三韓征討の帰途、嵐に遭って友ヶ島に避難したと言われ、紀淡海峡を航行する船の避難場所でもあった。
 沖ノ島、虎島には古い歴史があり、役行者(えんのぎょうじゃ)が葛城山を開く前にこの島で苦行を重ねたと伝えられ、虎島には観念窟、序品窟(じょぼんくつ)、閼伽井(あかい)などと呼ばれる修行跡が残っている。友ヶ島の夏は海水浴、キャンプ、ハイキングを楽しむ若者たちでにぎわい、小さな島はわき返る。

役小角

(写真は 役小角)

弾薬庫跡

 友ヶ島は海防の要衝地で、徳川幕府は幕末に異国船の襲来に備えて友ヶ島奉行を置き砲台を築いた。明治時代になると由良要塞司令部指揮下の要塞地となり、沖ノ島と虎島に6ヵ所の砲台が設けられた。第2次世界大戦中には敵艦船のスクリュー音を探知する海軍聴音所が設けられるなど、第2次世界大戦が終わるまでは友ヶ島は要塞の島だった。
 今も赤レンガ造の砲台跡や弾薬庫跡がそのままの姿で残っている。沖ノ島で最も高いコウノ巣山の山頂近くに築かれた第3砲台跡と大規模な弾薬庫跡は、今もその威容を見せつけている。コウノ巣山展望台からは友ヶ島全体と淡路島をはじめ六甲山、四国、和泉葛城山系まで見渡せる360度のパノラマが楽しめる。

(写真は 弾薬庫跡)

 友ヶ島は長い間、人の立ち入りが禁止されていたので荒らされずに自然環境が保たれ、温暖な気候と黒潮の影響で多くの植物が育っている。特に沖ノ島の深蛇池(しんじゃいけ)やほかの小沼には、亜熱帯植物を含む470種もの植物が生い茂っている。
 沖ノ島の森の中には島外から持ち込まれたタイワンジカ、タイワンリスが繁殖し、あちこちでその姿を見ることができる。このほか昆虫や貝類などの磯の生き物も豊富で、侵食された海岸の岩肌からは昆虫類の化石が見つかるかも知れない。このように豊かな自然を観察しながら家族連れのハイキングも楽しめる。

第2砲台跡

(写真は 第2砲台跡)


 
紀州漆器の里(海南市) 放送 4月27日(金)
 海南市黒江のあたりは昔は海だった。その入り江に牛の形をした黒い大岩があり、潮の満ち引きで見え隠れしたことから黒牛潟と呼ばれ、黒牛江から黒江の地名が生まれた。万葉歌人の柿本人麻呂もこの黒牛潟を歌に詠んでいる。
 黒江の町並を見おろす中言(なかごと)神社は名草彦命、名草姫命の夫婦神を祀り、黒牛の大岩は今はこの境内の地中にあると言われている。境内に据えられた黒牛の像の台座からは、紀伊国名水50選の「黒牛の水」が湧き出ている。この黒牛の水は宮水として酒造りの仕込み水に使われているほか、茶道、書道など諸芸上達、開運の水としても知られている。

中言神社

(写真は 中言神社)

黒江の町並み

 黒江は黒江塗と呼ばれる紀州漆器の産地として有名。黒江には室町時代に近江系の木地師の集団が住み着き、豊富な紀州桧で木椀の製造を始め、その椀に柿の渋を塗って仕上げる渋地椀の産地となった。豊臣秀吉の根来寺攻めで根来寺の僧が編み出した根来塗の職人が、黒江にも逃げてきて根来塗の技法を伝えた。江戸時代には紀州藩の保護を受けて漆器の製造が盛んになった。
 最初は木椀からスタートした紀州漆器は、折敷(おしき)と呼ばれる春慶塗の盆のほかに膳、重箱などを作るようになった。さらに蒔絵(まきえ)による装飾性の高い高級漆器も生産され、幕末に会津塗(福島県)、山中塗(石川県)とともに全国の三大産地となった。

(写真は 黒江の町並み)

 漆器の町・黒江の川端通りを中心に紀州連子と呼ばれる高い格子連子の江戸時代の町家が軒を連ねている。表通りには問屋が店を開き、裏通りには漆器の塗師や木地師ら職人の家が建ち並んでいる。この裏通りの家々は道路に並行でなく、斜めに建っているためノコギリの歯のようにギザギザ状である。このため道路と家の間にできた三角形の空き地を材料置き場や手押し車の置き場などに使っていた。狭い土地を有効に使う職人の知恵ではなかろうかと言われているが、こうした家の建て方をした真意は定かでない。
 紀州漆器を展示している「紀州漆器伝統産業会館」では予約すれば漆器蒔絵作りの体験ができ、江戸時代の塗師の家をそのまま使った紀州漆器直販店の「黒江ぬりもの館」では根来塗の研ぎ出し体験ができる。

紀州漆器(黒江塗)

(写真は 紀州漆器(黒江塗))


◇あ    し◇
紀三井寺JR紀勢線紀三井寺駅下車徒歩10分。
JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
紀三井寺下車徒歩10分。
和歌浦、片男波公園
万葉館、観海閣
JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
不老橋下車徒歩10分。
玉津島神社JR紀勢線和歌山駅、南海電鉄和歌山市駅からバスで
玉津島神社前下車徒歩10分。
和歌山県立紀伊風土記の丘JR紀勢線和歌山駅からバスで紀伊風土記の丘下車
徒歩5分。
JR和歌山線田井ノ瀬駅下車徒歩25分。
友ヶ島南海電鉄加太線加太駅下車、加太港から友ヶ島汽船で
沖ノ島野奈浦桟橋で下船。
中言神社、黒江ぬりもの館JR紀勢線黒江駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
和歌山市観光課073−435−1234
紀三井寺073−444−1002
和歌公園管理事務所・万葉館073−446−5553
玉津島神社073−444−0472
和歌山県立紀伊風土記の丘073−471−6123
友ヶ島汽船073−459−1333
海南市商工振興課073−483−8460
海南市物産観光センター073−484−2326
中言神社073−482−1199
黒江ぬりもの館073−482−5321

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会