月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・大原野

 桓武天皇が奈良の平城京から長岡京へ都を移した所が、西山と呼ばれる山並の山麓に広がる乙訓の里。この山麓に続く竹林はJRや阪急電鉄の電車の車窓からも目に入り、筍(たけのこ)の産地として知られる。この丘陵地帯のうち大原野の一帯は、豊かな自然が残り、古社寺が多く、古代に開けたことを示す古墳も数多く点在している。


 
善峯への道 放送 4月30日(月)
 京都市の西部、小塩山や釈迦岳などの山々が南北に連なって西山と呼ばれる山麓一帯には古刹、名刹が点在する。このあたりは乙訓の里と言い、現在は京都市西京区になっているが、古くは乙訓郡石作郷と呼び、大野原とも言った。
 大野原を含め乙訓の里は古墳が多いことでも知られている。小高い丘があれば古墳と見てよい。
大野原が石作郷と呼ばれたのは、石工を本業とした石作氏の本拠地で、古墳の石棺や石室造りとも深い関係があったと見られる。平安時代のロマンを描いた「竹取物語」のかぐや姫に求婚した中のひとり、石作皇子も大野原に住んだ貴公子だったのかも知れない。

善峯寺古図(江戸中期)

(写真は 善峯寺古図(江戸中期))

山門

 多くの古墳の存在が示すようにこのあたりは古くから開け、豪族たちの居住地でもあった。渡来人の秦氏の一族もこのあたりに居を構えていたと言われ、秦氏の子孫で畑や幡の姓を名乗る人が多い。
 大野原の地名が示すようにこの原野は狩猟の適地で、平安時代には天皇や貴族たちの狩り場となり、長岡京、平安京へ遷都した桓武天皇もこの地で狩をしている。桓武天皇の皇后で平城、嵯峨両天皇の生母の乙牟漏(おとむら)皇后は藤原氏の出身で、長岡京遷都の後、平城京時代のように藤原氏の氏神の春日社へ気軽に参詣できないことからこの地に春日明神を勧進し、これが大原野神社の起こりとなった。大原野に古社や古刹が多く建立されたのは、皇室との深い関わりを持つ土地であったことにもよる。

(写真は 山門)

 西国三十三ヵ所第20番札所・善峯寺(よしみねでら)は釈迦岳の支峰・善峯の山頂近くにある。1日数本のバスが善峯寺まで乗り入れているが、冬期は小塩停留所止まり。小塩からだと約2kmの九十九折の阿智坂を登らねばならない。善峯寺の開祖・源算上人はここに修行道場を建てようとしたが、山が険しく困難を極めていた時のある夜、老翁が現れ「力を貸してやろう」と言って消えた。次の夜、野猪の大群が現れて牙で岩をうがち、地ならしをしてくれたとの伝説が残っている。
 朝廷の崇敬も篤く、寺は大いに栄えたが応仁の乱で焼失、参詣者を迎えてくれる堂々たる山門や諸堂は、徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院によって再建されたものである。約10万平方mの境内の春は見事な桜に彩られる。

桂昌院お手植えのしだれ桜

(写真は 桂昌院お手植えのしだれ桜)


 
西国三十三ヵ所第20番札所
・善峯寺
放送 5月1日(火)
 京都市街地をはるかに望む西国三十三ヵ所第20番札所・善峯寺(よしみねでら)は、平安時代中期の長元2年(1029)に天台宗の僧侶で恵心僧都の弟子の源算上人が、ここに道場の小堂を結び自刻の十一面千手観世音菩薩像を祀ったのが始まりとされ、地元の人たちは「善峯さん」と呼び親しんでいる。
 現在の本尊の十一面千手観世音菩薩像には伝説がある。京の賀茂社が田んぼの中にあったころ、田に植えた苗が一夜してケヤキの木になり夜ごと光明を放った。行願寺・別名革堂(こうどう)の行円上人が、寺の本尊・十一面千手観世音菩薩像をこの木で彫り、その余材で仏師が十一面千手観世音菩薩像を刻み、洛東の鷲尾寺に安置した。長久3年(1042)後朱雀天皇が夢のお告げによって善峯寺に移して本尊とし、源算上人が彫った十一面千手観世音菩薩像は脇侍としたとの伝えがある。

本尊 十一面千手観世音菩薩像

(写真は 本尊 十一面千手観世音菩薩像)

善峯寺縁起絵巻

 平安時代から歴代天皇の崇敬を受け、鎌倉時代には源頼朝も帰依して、全盛時代には50余の堂塔を持つ門跡寺院として隆盛を極めた。また後鳥羽天皇の皇子・道覚法親王、亀山天皇の皇子・慈道法親王、伏見天皇の皇子・尊円法親王ら法親王が相次いで入寺し、西山宮とさえ呼ばれた門跡寺院だった。
 こうして隆盛を極めた善峯寺だったが、応仁の乱の兵火によってすべての堂塔を焼失した。現在の諸堂は江戸時代の元禄年間(1688〜1701)になって徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院が、善峯寺に篤く帰依して再建したもので、約10万平方mの境内には元禄5年(1692)建立の本堂、楼門、薬師堂をはじめ釈迦堂、客殿、阿弥陀堂、護摩堂、多宝塔、開山堂などが建ち並んでいる。

(写真は 善峯寺縁起絵巻)

 多宝塔前にある国の天然記念物の「遊龍松」は桂昌院お手植えとも言われている。高さ2mの五葉松が左右へそれぞれ20数メートルも枝を延ばしており、このような形の松は珍しく、まさしく龍が遊ぶ姿と言える。
 善峯寺には桂昌院廟所やゆかりの品など桂昌院にまつわるものが多い。桂昌院は京都・堀川の八百屋の娘・玉子として生まれ、母が一条家の家司(けいし)と再婚したのが縁で徳川3代将軍家光の側室・お万の方の腰元となり、家光の子で5代将軍となった綱吉を生んだ。実父が善峯寺に参詣して玉子を授かったことから寺の再建に尽力したほか、京都生まれの縁で乙訓の勝持寺、金蔵寺、乙訓寺など四寺を再興している。
 御詠歌は「のをもすぎ やまじにむかう あめのそら よしみねよりも はるるゆだち」。

遊龍の松

(写真は 遊龍の松)


 
花の寺・勝持寺 放送 5月2日(水)
 世に花の寺と称する寺は数多いが、その中で最も古くからそう呼ばれてきたのが勝持寺(しょうじじ)だろう。平安時代末期の保延6年(1140)鳥羽上皇に仕えていた北面の武士・佐藤義清は、この世に無常を感じてこの勝持寺で出家し、名を西行と改めた。
 西行法師はここに庵を結び、1本の八重桜を植えて花を愛で、歌を詠んだので、世人はその桜を西行桜と称し、寺を花の寺と呼ぶようになったと言う。西行が詠んだ歌は「花見んと 群れつつ人の くるのみぞ あたら桜の とがにはありける」。境内には西行が剃髪した時の姿見池や鏡石がある。

瀬和井の泉

(写真は 瀬和井の泉)

西行法師像

 広い境内には西行桜をはじめソメイヨシノを中心に数種類、400本にもおよぶ桜が植えられ、花の時期には見事な眺めとなる。秋にはカエデとともに紅葉して、境内を錦秋に彩る。
 勝持寺の創建には諸説がある。飛鳥時代の天武天皇8年(680)天武天皇の勅願によって役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したのが始まりとする説。本堂背後の山中に役行者が修行したと言われる行者窟もある。一方、延暦10年(791)に伝教大師・最澄が桓武天皇の勅命で堂塔を建立し、薬師如来像を一刀三礼して刻み本尊として祀り、小塩山大原坊としたのが始まりとする説がある。

(写真は 西行法師像)

 その後、承和5年(838)仁明天皇の勅命で塔頭49院が建立され、寺観を整えた。仁寿年間(851〜854)に文徳天皇が大原野神社の別当寺とし、勝持寺と改め勅願寺とした。このように盛況を極めた勝持寺だったが、応仁の乱の兵火によって仁王門を除くすべての堂塔を焼失、荒廃した。焼失後の勝持寺は天正年間(1573〜92)に堂塔が再建され、江戸時代に入って徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の援助によって堂塔が修復されたが、往時の面影を取り戻すまでには至らなかった。
 本尊の薬師如来座像(国・重文)は鎌倉時代の作で、その胎内から出た高さ9.1cmの小薬師如来座像(国・重文)の光背は、七仏薬師と十二神将が彫られている珍しいものである。

西行桜

(写真は 西行桜)


 
筍の里 放送 5月3日(木)
 現在は京都市西京区となっている大原野は、もとは向日市、長岡京市とともに乙訓の里と呼ばれてきた所。この乙訓の里の春の名産が筍(たけのこ)で、地元の人たちは「日本一の味」と自慢する。
 この地方の地質は竹の地下茎が自由に伸びるのに適しており、竹の栽培が盛んになった。さらに日当たりがよく、風があまり吹かず、雨が多いと言う好条件に恵まれ、柔らかい筍を産出する。宅地開発が進んで筍が生える竹薮は半減したが、関西地方では「乙訓の筍」は高級品として知られ、特に季節の京料理には欠かせない食材で、他の食材との組み合わせでバリエーションが広がる。淡泊な味を好む関西人の舌にあい、新緑の初夏にもてはやされる料理のひとつである。

筍

(写真は 筍)

京洛西 ぶへい

 筍を産するのは孟宗竹で中国の江南地方が原産。鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元禅師が中国から持ち帰り、長岡京市の海印寺寂照院に植えたのが栽培の始まりとの伝えがある。だが、史料では日本へは江戸時代中期に島津藩へ入ったのが最初で、その後全国へ広がった。乙訓の里にも寛政年間(1789〜1801)に朝田文次郎と言う人物が孟宗竹を移植したと言う。
 孟宗竹の竹林は初めはその美しさから観賞用だったが、江戸時代末ごろから筍を食用にするようになった。明治時代に入って筍が生産過剰になり値崩れが起きたが、乙訓郡の旧円明寺村の三浦芳次郎が鉄道を利用して阪神間から広島、名古屋方面にまで販路を広げ、危機を救った。その功績をたたえ大山崎町円明寺に顕彰碑がある。

(写真は 京洛西 ぶへい)

 西山山麓の丘陵地帯の地質と気候が筍栽培に適しているとは言え、農家は土壌作りに1年間を通じて大変な手間をかける。特に冬場には筍が芽を出す地下茎を保護するために土かけと言う土入れなどが欠かせない。おいしい筍を食べるには、地上に頭を出す前の地中の筍を経験とカンで探り当て、1mもある鉄製の長いクワで掘り出す。筍の新鮮味をそこなわないために朝掘りが一番で、最近は鮮度を失わないために活性炭を一緒に詰めて出荷する。
 花の寺で知られる勝持寺(しょうじじ)の門前に筍料理を出す料理店「ぶへい」があり、若竹煮、筍造り、木の芽和え、筍御飯などが並ぶ筍会席が味わえる。このほかてんぷら、ホイル焼き、筍ステーキなどいろいろな食べ方がある。

若竹煮

(写真は 若竹煮)


 
竹の美を描いて 放送 5月4日(金)
 洛西の竹林に魅せられて洋画では珍しい竹をモチーフにした作品を描き続ける画家がいる。その女性洋画家・八十山和代さんが竹と出会ったのは20年あまり前。
 故郷の石川県小松市でトラックに追突する交通事故を起こし、3日間昏睡状態となり右足に36針縫う大けがをした。「自分の好きな絵の道に生きよう」と翌年、親元を離れ京都に出て本格的に絵を描き始めた。洛西の竹林に題材を求めていた時、孟宗竹に自分を感じ、人間を感じた。天に向かって真っすぐ伸びる太くてたくましい孟宗竹、その地下茎は地中で絡み合い、コンクリートさえ破る生命力。その地下茎と真っすぐに伸びる幹に、悩みながら背伸びしている自分の姿が重なった。

竹林

(写真は 竹林)

竹林を描く

 それ以来「私は竹、竹は私」とずっと竹を描き続けている八十山さん。その間に竹についての勉強もした。竹は色々なものに関わっている。民話やことわざ、神、仏にはよく竹が登場する。洛西の乙訓の里が舞台とされる平安時代のロマンを描いた「竹取物語」にヒントを得て、平成6年(1994)自分自身である孟宗竹と月と宇宙を描いた「かぐや姫」を発表した。
 こうして油絵でさまざまな竹の姿を描き、その作品はかなりの数にのぼる。中国で水墨画を見て、油絵で描けない竹の作品の世界を感じ水墨画にも挑戦して竹を描いている。

(写真は 竹林を描く)

 八十山さんに絵を手ほどきしたのは洋画家の母親・雅子さんだった。小学校のころ学校から帰ると母の横でチラシ広告の裏に絵を描いていた。平成4年(1992)には京都で親子展も催したが、その母も今は亡き人となった。竹の本場・中国の各都市で竹を題材にした作品展を開き、好評を博し「竹の文化交流」の役目も果たした。このほか日本各地はもとよりブラジル、ニューヨークなどで個展を開いている。
 今は大原野に元理容店を改造したアトリエ「八竹(はちく)庵」を構え、地元の人たちとも交流を深めている。洛西の竹林から生まれた八十山さんの作品は、その竹林の中に据えると周囲にすんなりと溶け込んでゆく。

アトリエ 八竹庵

(写真は アトリエ 八竹庵)


◇あ    し◇
善峯寺JR東海道線向日町駅、阪急電鉄京都線東向日駅からバスで
善峯寺下車徒歩8分。
勝持寺
たけのこ料理・ぶへい
JR東海道線向日町駅、阪急電鉄京都線東向日駅からバスで
南春日町下車徒歩15分。
阪急電鉄京都線桂駅からバスで洛西高校前下車徒歩20分。


◇問い合わせ先◇
善峯寺075−331−0020
勝持寺075−331−0601
たけのこ料理・ぶへい075−331−2248

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