月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大津市 

 琵琶湖は近江国・滋賀県の母なる湖である。同時に京阪神の水がめであり、この琵琶湖なければ今日の京阪神の繁栄はなかった。だが、この琵琶湖はどんどん破壊されている。これ以上、破壊が進むとかつての琵琶湖は再生されない。琵琶湖は今、悲鳴をあげている。それでも琵琶湖はけなげに美しい姿を私たちに見せてくれている。そんな琵琶湖の美しさを再認識する探訪を大津市の湖西で試みた。


 
浮御堂  放送 9月3日(月)
 琵琶湖に浮かぶように見える宝形造の浮御堂は、琵琶湖の景勝の中でも特に素晴らしいもので、浮世絵師・歌川広重が、雁の群れが渡って行く冬空の下に、海御堂と港に停泊する丸子舟を描いた近江八景「堅田の落雁」としても広く知られてきた。
 浮御堂は海門山満月寺と言う禅寺の堂宇のひとつ。平安時代中期の長徳年間(995〜99)に比叡山・横川の恵心僧都・源信が湖中に一宇を建立して、千体の阿弥陀仏を刻んで湖上安全と衆生済度を発願し、千体仏堂と名づけたのが浮御堂の起こり。

堅田落雁(歌川広重)

(写真は 堅田落雁(歌川広重))

浮御堂

 堅田の地は湖上交通の要衝を占め、戦略上でも重要な拠点だったのでたびたび戦場となり、満月寺も兵火で焼かれて荒廃した。江戸時代前期に京都・大徳寺の僧らによって再興され、天台宗から臨済宗に改宗した。現在の浮御堂は昭和9年(1934)の室戸台風で倒れた後、昭和12年(1937)に再建されて千体仏が安置され、境内の老松と相和してその昔と変わらず、一幅の絵そのものの姿を留めている。
 湖中に延びた約25mの橋の先端にある浮御堂からの眺めは素晴らしい。東に伊吹山、長命寺山、近江富士と呼ばれる三上山、沖の島、西に比良山系の山々、比叡の峰々が一望でき、琵琶湖とその周辺の四季折々の景色が楽しめる。

(写真は 浮御堂)

 竜宮造の山門を入ると本堂、観音堂と茶室があり、観音堂には官能的な本尊・聖観世音菩薩像(国・重文=平安時代)が安置されている。茶室・玉鈎亭(ぎょくこうてい)は、室戸台風で倒れた浮御堂の古材を使って建てられた。台風で倒れるまでの浮御堂は、桜町天皇から京都御所の能舞台を下賜されて建立されたものだった。
 風光明媚なこの地へは一休禅師、蓮如上人、松尾芭蕉、小林一茶、歌川広重、葛飾北斎らのほか、多くの文人墨客、著名人が訪ねており、詩歌、絵画を残している。元禄4年(1691)この地を訪れた芭蕉は、十六夜の月見の宴で「鎖(じょう)あげて 月さし入れよと 浮御堂」と詠んでおり、湖畔に句碑が立っている。

千体仏

(写真は 千体仏)


 
湖族の郷・堅田  放送 9月4日(火)
 堅田は琵琶湖を北湖と南湖に分かつ最狭部の西岸の地で、古来、湖上交通の要衝の地であった。そんな利点を背景に中世には堅田湖族が、湖上権、漁業権、造船権を握り、湖上を往来する船から通行税を取るなど、琵琶湖に対する絶大な支配権力を持ち、堺と並ぶ自治都市を築き「湖族の郷」として繁栄した。こうした堅田を支配していたのは堅田三豪族の刀禰(とね)家、居初(いそめ)家、小月家だった。
 「湖族の郷資料館」は小規模ながら、湖族の歴史を「堅田の変遷」「文学と堅田」「芭蕉と堅田の門人」などのテーマに分けて展示し、館長が自治都市として栄えた堅田を郷土の誇りとしてあれこれ教えてくれる。

しづか楼

(写真は しづか楼)

鮒寿し

 湖岸沿いの出島(でけじま)灯台は、明治8年(1875)に建造された木造灯台で堅田の名物。この付近は岩礁が多く、この年に客船「満芽丸」の転覆事故で47人が亡くなり、これを機に船会社が建てたものである。
 高さ8mの高床式の木造灯台は、9戸の家が当番を決めて灯台の灯を灯し続けた。大正7年(1918)に灯油から白熱灯に変わり、後に自動点灯するようになった。街灯にハシゴを立てかけたよな灯台は、独特の景観を醸し出していたが、昭和26年(1951)その役目を終え、今はモニュメントとして修復保存されている。

(写真は 鮒寿し)

 淡水魚の宝庫と言われる琵琶湖の幸が味わえるのが料理旅館「しづか楼」。冬の名物料理は「諸子(もろこ)会席」で、川エビ、コイの皮包み、ウナギの肝などの前菜に始まり、コイのたたき、メインの焼きモロコ、フナの姿煮、カジカの唐揚げ、最後にシジミ御飯となる。このモロコは琵琶湖固有種のホンモロコ。12月から4月にかけての寒モロコは、琵琶湖の深い湖底にいるので骨が柔らかく、脂が乗って最高の美味。
 ほかにニゴロフナのフナ寿司、ビワマス、イワナの造り、手長エビの天ぷら、天然ウナギの源平焼き、天然ウナギ鍋、冬の鴨すきなど、琵琶湖ならではの品が四季にあわせて膳に乗りグルメを満足させてくれる。

天然うなぎ鍋

(写真は 天然うなぎ鍋)


 
居初氏庭園・天然図画亭  放送 9月5日(水)
 浮御堂から北へ向かって湖岸に沿った道をしばし歩くと居初(いそめ)邸へ着く。居初家は堅田を支配してきた豪族三家のひとつ。通りに面した表はうっかりすると見過ごしてしまいそうなたたずまいだが、邸宅の建築、天然図画(てんねんずえ)亭と呼ばれる茶室と庭園〔国指定名勝〕は見事なものである。
 茶室の東側と北側に広がる庭は江戸時代初期の天和、貞享年間(1681〜88)にかけて、千利休の孫の宗旦の高弟・藤村庸軒と堅田の豪士で庸軒の弟子で茶の湯、造園で活躍した北村幽安の合作とされ、琵琶湖を借景とした枯山水庭園。

居初邸

(写真は 居初邸)

天然図画亭

 飛び石が配された庭園は大刈り込みや蓬莱山を示す亀島や鶴島、袈裟形の手水鉢、湖岸べりの石垣などに作庭の技巧が凝らされている。庭園東側の石垣が湖に接しており、モッコク、マキ、サツキなどの刈り込みの向こうに、雄大な湖面と近江富士と呼ばれる三上山や犬上山をはじめ、対岸の湖東連山が一望できる景色は、まさに「天然の図画」と称するにふさわしいものである。
 数寄屋風の茅葺き、入母屋造の茶室は、庭に対して縁が取り巻いており、主室は8畳の間と1畳の点前座からなる。茶の道具を客に見せびらかさないように主室との間に低い結界が設けられ、主人の謙虚さがうかがえる。

(写真は 天然図画亭)

 小林一茶もこの茶室を2度訪ねており「から崎に 我もかすみの 一つかな」「湖(うみ)よ松 それから寿々(すす)み 始むべき」と、その時の印象を詠んでいる。
 居初家は伊勢平氏の流れをくみ平安時代は北面の武士だった。その後、下鴨神社の供祭用の魚介類などを調達する堅田御厨(かただみくりや)の供御人となり、これが琵琶湖の湖上権を握るきっかけとなり、堅田三豪族の地位を築いた。豊臣秀吉の時代になって琵琶湖の船制度が改められ、堅田湖族の湖上特権が衰微したが、居初家は新たに船道郷士として堅田の船運を仕切り、代々大庄屋を務めて明治維新を迎えた。

室町時代後期の堅田(大津歴史博物館)

(写真は 室町時代後期の堅田
(大津歴史博物館))


 
唐崎の松  放送 9月6日(木)
 堅田から湖岸をずっと南へ下がった所に鎮座する唐崎神社は、日吉大社の摂社でその創祀は大変古く飛鳥時代の持統天皇11年(697)。その境内には歌川広重も描いている近江八景「唐崎の夜雨」で知られる、唐崎の松の大樹が四方へ這うように見事な枝ぶりを見せている。
 唐崎の松は万葉集の柿本人麻呂が「さざ波の 志賀の唐崎 さきくあれど 大宮人の 船まちかねつ」と詠んだほか、紀貫之は「唐崎の 松は扇の 要にて 漕ぎゆく船は 墨絵なりけり」と詠み、松尾芭蕉は「唐崎の 松は花より おぼろにて」と詠むなど、古くから多くの歌人、俳人らが唐崎の松を詠んで詩歌に残している。

唐崎神社

(写真は 唐崎神社)

唐崎夜雨(歌川広重)

 唐崎の松は舒明天皇6年(634)この地に住んでいた、琴御館宇志丸宿禰(ことみたちうしまろすくね)と言う人物が植えたのが始まりと日吉大社の古記に記されている。この初代の唐崎の松は天正9年(1581)の大風で倒れ、大津城主・新庄直頼が天正19年(1591)に植えた二代目の松は、東西に72m、南北に86mの枝を伸ばし、高さ10m、幹の太さ9mもの大樹で、この松が広重の「唐崎の夜雨」に描かれた。
 この大樹も大正10年(1921)に枯れ、その実から育てた松が植えられたのが現在の三代目の松。三代目の松も四方に枝を伸ばし、笠を伏せたように盛りあがる姿は、湖岸のヨシやかたわらの古びた石灯籠とマッチして昔ながらの趣が感じられる。

(写真は 唐崎夜雨(歌川広重))

 唐崎神社は天皇の災いを祓う七瀬の祓い所として定められた霊場であり、朝廷の夏越(なごし)の祓いをはじめ、国家の大事に当たってお祓いを行う所だった。また婦人の病に霊験があるとされて女人の信仰が厚く、毎年7月28、29日の夏越の祓いが行われるみたらし祭は、大勢の女性参詣者でにぎわう。
 このみたらし祭で神饌(しんせん)として奉納されるのが大きなみたらし団子。また赤、黄、白、青の団子を形取った串3本が1組になっているお守りを授かり、各家の門口に取り付けて病魔退散の魔除けとしている。このみたらし祭に由来して、唐崎は”みたらし団子発祥の地”とされ、神社前にはみたらし団子の専門店が並び、参詣をすませた人たちが唐崎の松を眺めながらみたらし団子を味わっている。

かぎや庄兵衛(寺田物産)

(写真は かぎや庄兵衛(寺田物産))


 
琵琶湖の原風景を求めて  放送 9月7日(金)
 琵琶湖の畔に住み、四季折々の湖の美しい風景を描き出す画家がいる。その人はブライアン・ウィリアムズさん。2007年9月2日まで守山市の佐川美術館で個展「琵琶湖の原風景を求めて」を開いていた。
 アメリカ人のブライアンさんは、宣教師の子として1950年にペルーで生まれ、カリフォルニア大学で美術を専攻、大学卒業後の昭和47年(1972)に来日、日本各地を歩き日本の風景を描いていた。比叡山の山頂から見た琵琶湖の風景に魅せられ、昭和59年(1984)大津市の湖西の農家を改築して生活と創作の拠点としてきた。

「眠る田舟」

(写真は 「眠る田舟」)

「栗原の春」

 ブライアンさんのの筆から生み出された作品はどれも非常に美しく、懐かしく、現在、目にしている琵琶湖よりずっときれいな琵琶湖ばかりである。今の琵琶湖しか知らない人たちはその作品を見て「嘘だ」と言うかもしれない。ブライアンさんは「その通りだ」と言う。
 ピカソは「絵画は真実に仕える嘘である」との名言を残している。ブライアンさんはこの名言通りに、人間の手が加えられない自然のままで、美しかった琵琶湖のほんのわずかな景観のかけらと、かつての琵琶湖の姿を描き続けている。そこには琵琶湖の原風景の再生を願い、破壊されていく琵琶湖の現状に警鐘を鳴らしている。

(写真は 「栗原の春」)

 今の琵琶湖はどこへ行ってもコンクリートが目につき、美しい野性味を失ってしまっている。内湖の多くは干拓され、デルタ地帯は区画整理で直線化された。湖水は工業排水、農業排水、生活排水で富栄養化して赤潮が発生する。、琵琶湖に流れ込む川にはコンクリートの護岸、ダム、堰堤、水辺にはプラスチックのごみが目につく。琵琶湖の水質を守り続けたヨシの群落は減少の一途……とブライアンさんは言う。
 「環境を守るには景観美の意識が大切」とブライアンさんは強調している。美しい景観があればその環境は正常であり、自然環境の復元と再生には学問的な理解と同時に環境美意識の必要だと言うのである。

「以前の伊吹町」

(写真は 「以前の伊吹町」)


◇あ    し◇
浮御堂(海門山満月寺) JR湖西線堅田駅からバスで堅田出町下車徒歩5分。 
しづか楼(料理旅館)  JR湖西線堅田駅下車徒歩15分。 
居初氏庭園・天然図画亭 JR湖西線堅田駅下車徒歩20分。
JR湖西線堅田駅からバスで末広町下車徒歩5分。
唐崎神社
唐崎の松
寺田物産(みたらし団子)
JR湖西線唐崎駅下車徒歩10分。
JR湖西線唐崎駅からバスで唐崎下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
大津市観光振興課077−528−2756 
浮御堂(海門山満月寺) 077−572−0455 
しづか楼(料理旅館) 077−572−1111 
居初氏庭園・天然図画亭077−572−0708 
唐崎神社077−578−0009 
寺田物産(みたらし団子) 077−578−0277 
ブライアン・ウィリアムズ077−598−2590 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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