月〜金曜日 18時54分〜19時00分


伊賀市 

 伊賀市は平成16年(2004)上野市、伊賀町、阿山町、青山町、島ケ原村、大山田村の1市3町2村が合併して誕生、西は奈良県、京都府、北は滋賀県に接した三重県下では津市、松阪市に次いで3番目に広い市域を持つ市となった。伊賀上野城の城下町として発展した旧上野市は、松尾芭蕉の生誕地でもあり、名所、旧跡も多い。こうした新旧織りなす伊賀市の中心地を探訪してみた。


 
伊賀上野城  放送 11月12日(月)
 市町村合併後の広い市域の伊賀市だが、その中心地となっている旧上野市にそびえる伊賀上野城は伊賀国のシンボルである。
 この伊賀上野城は関ヶ原の役で天下を掌握した徳川家康が、大坂方との決戦に備え伊賀を軍略上の要地と見て、慶長13年(1608)信任の厚い藤堂高虎を伊賀、伊勢の城主とした。築城の名手と言われた高虎は、慶長16年(1611)それまでの筒井氏の城の大修築に着手した。

天守閣

(写真は 天守閣)

唐冠形兜

 大坂方の攻撃を予想して西側の守りを固めるため、堀を深くして日本一高いと言われた30mの高石垣を築き上げ、その上に五層の大天守閣の建設を進めた。しかし完成目前だった大天守閣は慶長17年9月の大暴風雨で倒壊してしまった。その後、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、戦いが遠のいたため、天守閣は再建されなかった。
 伊賀上野城は天正9年(1581)織田信長の家臣・滝川雄利が城を築いたのが始まりで、豊臣秀吉の時代になって賤ヶ岳の七本槍のひとり脇坂安治、続いて筒井定次が城主となっていたが家康によって改易された。

(写真は 唐冠形兜)

 現在、市街地の北の丘にそびえる伊賀上野城は、昭和10年(1935)旧上野市の政治家で衆議院議員だった故川崎克氏が私財を投じて、藤堂孝虎が築いた30mの高石垣の上に三層の天守閣を再建した。昭和時代に建築された最後の木造の城で、鳳凰が翼を休める姿に似ていることから白鳳城とも呼ばれている。
 再建された天守閣1、2階は伊賀焼や藤堂家の遺品や武具など民俗、産業、文化資料の展示場、3階は展望楼となっており、その格天井には横山大観ら著名人の色紙(縦横1m)46枚がはめ込まれ飾られている。

横山大観の大色紙

(写真は 横山大観の大色紙)


 
芭蕉をおいしく  放送 11月13日(火)
 伊賀上野は松尾芭蕉の生誕地。伊賀鉄道上野市駅前で旅姿の芭蕉像が出迎えてくれる。市内には生家をはじめ芭蕉ゆかりの史跡や施設が数多い。
 芭蕉は奥の細道に「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり…」と記しているように、人生を旅とした漂白の詩人として知られている。この芭蕉は江戸時代初期の正保元年(1644)伊賀市上野赤坂町(旧上野市)で生まれた。若い時は伊賀上野城付き侍大将・藤堂新七郎家に仕え、若き当主・藤堂良忠の近侍となり、俳諧を学んでいた良忠の影響を受けて俳諧に親しむようになった。

上野天神宮

(写真は 上野天神宮)

田山屋亀栄「古里」

 芭蕉は藤堂良忠が若くして亡くなると藤堂家を辞し、本格的に俳諧の道を志すようになった。29歳の時、俳諧仲間の句に自分の句も交えた処女句集「貝おほひ」を刊行した。この句集をこの地の産土神で菅原道真を祀る上野天神宮に奉納、俳諧への道を志す決意と文運を祈願して、29年間住み慣れた伊賀上野を後にして江戸へ旅立った。
 旧上野市には芭蕉にまつわる史跡や句碑が多いが、城下町時代から代々続く和菓子屋が「芭蕉の俳句をおいしく、楽しく覚えよう」とアイデアが出し、芭蕉の句にちなむオリジナル和菓子を出している。

(写真は 田山屋亀栄「古里」)

 田山屋亀栄は「ふるさとや 臍(へそ)の緒に泣く 年の暮れ」から「古里」。紅梅屋は「色付くや 豆腐に落ちて 薄紅葉」から「薄紅葉・錦秋」や「さまざまの ことおもいだす 桜かな」から「さまざま桜」。いせやは「山里は まんざいおそし 梅の花」から「山里」。御菓子司おおにしは「春なれや 名も無き山の 薄霞」から「うす紫」を創作した。
 このほかに菓匠欣栄堂が「行く秋や 手をひろげたる 栗のいが」から「いが栗」。つばや菓子舗が「初しぐれ 猿も小蓑を ほしけ也」から「猿蓑もなか」を出している。

御菓子司おおにし「うす紫」

(写真は 御菓子司おおにし「うす紫」)


 
伊賀組紐  放送 11月14日(水)
 伊賀地方の伝統地場産業の「伊賀組紐」は、その華やかな色取りが特に女性に喜ばれている。わが国の組紐の歴史は古く、奈良時代に大陸から伝わったとされている。経典や袈裟などに用いられ、正倉院に残されている楽器にも古代紐が使われている。
 当初は仏具、神具などに使われ、平安時代に入ると王朝貴族の装束に用いられ、芸術性の高いものが作られるようになった。その後は武士の甲冑や刀剣、茶道具の飾り紐、羽織紐、印籠、たばこ入れの紐などへとその用途は広がった。明治時代になって武具の需要が減ると、組紐は着物の帯締めがその主流を占めるようになった。

廣澤徳三郎の店

(写真は 廣澤徳三郎の店)

手組台

 明治時代後期に江戸の和装小物の組紐技術を習得した伊賀出身の廣澤徳三郎が、明治35年(1902)郷里の伊賀上野で開業したのが伊賀組紐の始まりで、その後、伊賀の伝統地場産業へと発展した。
 現在の組紐工房・廣澤徳三郎は3代目の廣澤浩一さんがその技術を引き継ぎ、時代にマッチした製品も手がけ、携帯電話のストラップなどのその製品は多種多様となっている。この工房は伊賀まちかど博物館も兼ねており、古代紐や創作作品の組紐作業を間近で見学できる。また希望者には実費1000円で、キーホルダーやブレスレットなど、簡単な組紐製品が作れる体験コーナーもある。

(写真は 手組台)

 伊賀くみひもセンター内の「組匠の里」には、いろいろな組紐の商品が展示、販売されている。ネクタイやベルトなどの男物小物、髪飾りや人形、帯締めや婦人用アクセサリー、袋物、根付、キーホルダー、携帯電話ストラップなど、多種多様な組紐製品が並んでいる。
 伝統伝承館には伝統の組紐作品や組紐製作の道具などの資料が展示されており、伊賀の組紐の歴史がよくわかる。「くみひも道場」では実費1000円でキーホルダーやブレスレットなどが作れる。50人分の組紐道具が準備されており、これまでに各地の小中学校の生徒たちや婦人団体の人たちらが組紐に挑戦している。勿論、少人数でもOK。

伊賀組紐

(写真は 伊賀組紐)


 
導きの館・旧小田小学校  放送 11月15日(木)
 伊賀上野城の西、伊賀市小田町にある白い洋風建築の建物は、明治14年(1881)に建築された旧小田小学校本館。現存する小学校校舎としては三重県下で最古で、近代初等教育を象徴する建物として三重県の文化財に指定されている。
 本館中央の玄関は凝ったデザインが施されている。ポーチの円柱は中央が膨らんだエンタシス風で、壁がなく吹き抜けになっている。2階部分にはバルコニーが設けられ、本館への入り口上部には龍の彫刻があり「登龍門」を現している。

旧小田小学校本館

(写真は 旧小田小学校本館)

教室

 洋風の外観に比べ壁は漆喰塗りで、天井は伝統的な和室様式となっている。校舎内の窓にはギヤマンの色ガラスがはめられていた。ギヤマンとはオランダ語のダイヤモンドのことで、ガラスをダイヤモンドで切ったことから、ガラスを意味していた。当時はガラス窓は珍しく、カラフルな窓は評判になり「ギヤマン学校」の愛称で親しまれていたそうだ。今も当時の資料を元に色ガラスがはめ込まれている。
 本館の屋根の上の太鼓楼は、吊るされた太鼓を打ち鳴らして授業の始業、終業を知らせていた。明治時代末まではこの太鼓楼があったがいつしか姿を消し、平成2年(1990)からの保存修理の時に復元された。

(写真は 教室)

 旧小田小学校の当初の名称だった啓迪(けいてき)学校の「啓迪」は、中国の五経のひとつ「書経」の中の「啓迪後人」から採られ、次代の人間を教え導くと言った意味が込められている。この校名と言い、凝った洋風建築と言い、当時のこの地域に人びとが教育に注いだ情熱がうかがえる。
 小田小学校は昭和40年(1965)児童数減少で廃校となったが、建物は修理保存され教育資料の展示室となった。2階の教室には明治時代初期から昭和40年ごろまでの教科書や学習用具、天板が上下に開閉する机や木製の椅子など懐かしい教材がいっぱい。教科書の中には戦後に軍国主義の部分が黒く塗られたものもある。

スミぬり教科書

(写真は スミぬり教科書)


 
城下町を歩けば  放送 11月16日(金)
 伊賀上野城の西、南、東の三方に広がる城下町は、慶長16年(1611)藤堂高虎による城の改修と同時に、城下町作りが進められた。400年前の町割りは今も大きくは変わらず、町ごとにそれぞれ個性が見つけられ、城下町の雰囲気を楽しみながら散策ができる。
 城の南東の寺町には七つの寺院が集まっており、その中央の寺町通りには寺院の白壁の塀が続いている。電線が地中化されて電柱のない通りは、他の商店街とは異なった静かな雰囲気を醸し出している。この寺町は戦になった時の城の防御線の役目も果たしていた。

寺町通り

(写真は 寺町通り)

かぎや餅店

 伊賀鉄道上野市駅の南の東西の通りは旧大和街道で現在は本町通りと呼ばれている。この通りに平行して二之町筋、三之町筋があり、このあたりは城下町時代には商売の特権が与えられた町人の町で、今も商店や伝統的な町家が建ち並んでいる。この東西の通りを南北に繋いでいるのが中之立町通りである。
 この付近には江戸時代から続く商店が残っている。かぎや餠店の店先は昔懐かしいたたずまいである。かぎや餠店のあんの入った「伊賀餅」や粒あんとこしあんの入った「忍者だんご」が人気。店内には団塊の世代には懐かしいガラス瓶が並び、ばら売り用のあめやあられが入っている。

(写真は かぎや餅店)

 中之立町通りの西側にはところどころに武家屋敷が残っており、城下町の風情を感じさせる。重臣たちの下屋敷は城の東側の玄蕃町を中心に配置されていたが、現在は閑静な住宅街となっている。
 伊賀街道と大和街道の分岐点である追分の辻には石柱の道標が立っている。旅人たちはここから伊勢、大和へと旅立って行った。この追分の辻近くにある伊賀肉の老舗・金谷(かなや)は、約100年前の創業当時から続く重厚な店舗の建物にも味わいがある。伊賀地方のきれいな空気と水、豊かな牧草で育てられた伊賀牛の最高級肉を使った金谷の寿き焼やバター焼き、しゃぶしゃぶなどは、食通ならずとも足を止めてしまいそうだ。

元祖伊賀肉 金谷

(写真は 元祖伊賀肉 金谷)


◇あ    し◇
伊賀上野城伊賀鉄道上野市駅下車徒歩5分。 
上野天神宮伊賀鉄道上野市駅下車徒歩3分。 
組みひもセンター「組匠の里」伊賀鉄道桑町駅下車徒歩8分。
伊賀くみひも・廣澤徳三郎工房伊賀鉄道西大手駅下車すぐ。
伊賀鉄道上野市駅下車徒歩5分。
旧小田小学校本館伊賀鉄道西大手駅下車徒歩10分。 
伊賀鉄道上野市駅下車徒歩15分。
寺町通り伊賀鉄道広小路駅下車徒歩3分。 
中之立町通り伊賀鉄道上野市駅下車徒歩5分。 
追分の辻伊賀鉄道広小路駅下車すぐ。 
伊賀肉寿き焼・金谷伊賀鉄道広小路駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
伊賀市観光振興課0595−22−9611
伊賀上野観光協会0595−26−7788 
伊賀上野城(伊賀文化産業協会)0595−21−3148
上野天神宮0595−21−2940 
田山屋亀栄(和菓子・古里)0595−21−0955
紅梅屋本店(和菓子・さまざま桜)0595−21−0028
いせや(和菓子・山里)0595−21−0615
御菓子司おおにし(和菓子・うす紫)0595−21−1440
伊賀くみひも・廣澤徳三郎工房0595−21−1127
組みひもセンター「組匠の里」0595−23−8038
旧小田小学校本館0595−21−9957 
伊賀肉寿き焼・金谷0595−21−0105 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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