月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・智積院 

京都・七条通の東端、東山の山麓にある真言宗智山派総本山・智積院(ちしゃくいん)は、国宝の障壁画、国の名勝に指定されている庭園が有名である。今回はこの障壁画や庭園、境内の諸堂を紹介する。


 
紀州から京へ  放送 11月19日(月)
 七条通の東の突き当たり、東大路通に面して総門を構える大寺が、真言宗智山派総本山・智積院(ちしゃくいん)。智積院の起こりは弘法大師・空海が高野山を開いて300年後、興教大師・覚鑁(かくばん)が仏法の興隆は僧侶が学問をすることであると、大治5年(1130)学問道場・伝法院、修行道場・密厳院を興したことから始まる。
 高野山で勢力を伸ばした覚鑁は、金剛峰寺や高野衆徒との対立が激化し、保延6年(1140)弟子や衆徒ら約700人を連れて高野山から紀の川沿いの根来山に根本道場を移した。この地に学問寺・円明寺を建て、弘法大師の教えを説いていたが、3年後に病で亡くなった。

密厳堂

(写真は 密厳堂)

興教大師

 覚鑁亡き後、その教えを守る僧侶や衆徒たちによって根来寺が建立され、真言宗の学問所として全国から多くの僧侶が集まった。僧侶のほかに根来衆と呼ばれる人たちも住み着き、刀や弓矢を製造したり、根来塗と呼ばれる漆器なども作った。さらに種子島に伝来した鉄砲を製作するようになり、根来衆による鉄砲隊も組織された。
 こうして根来寺は大いに栄え、根来衆とともに巨大な勢力を誇るようになった。この根来寺の僧兵たちを危険視した豊臣秀吉は、天正13年(1585)根来寺を攻め一山をことごとく焼き払った。この時、塔頭・智積院の住職で根来寺の住職でもあった玄宥僧正は、弟子たちとともに高野山に難を逃れた後、京都へ移った。

(写真は 興教大師)

 京都の寺を転々としていた玄宥僧正だったが、関ヶ原の戦で天下を掌握した徳川家康から京都・東山の豊国神社の土地の一部と建物を与えられ、ここに念願の智積院を再興した。玄宥僧正が紀州の根来寺を出てから16年後にその念願がかなえられた。
 玄宥はその4年後の慶長10年(1605)に亡くなるが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後、秀吉が愛児・鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺が、徳川家康から智積院に与えられ、伽藍が整備、拡充されて今日の智積院となった。

玄宥僧正

(写真は 玄宥僧正)


 
諸堂巡拝  放送 11月20日(火)
 七条通に向かって建つ智積院(ちしゃくいん)総門をくぐると、阿弥陀ヶ峰を背景に緑深い広大な境内に金堂、講堂、明王殿、大師堂、密厳堂、大書院など20余りの堂塔伽藍が建ち並んでいる。
 毎朝の勤行、多くの法要が営まれる全山の中心的な建物が金堂で、一般寺院の本堂にあたる。宗祖・弘法大師生誕1200年を記念して、昭和50年(1975)に壮麗な現在の金堂が建立され、合わせて本尊の大日如来像が造像されて安置された。以前の金堂は徳川5代将軍・綱吉の生母・桂昌院が千両を寄進、学僧らの寄付金などを合わせて宝永2年(1705)に建立されたが、明治15年(1882)に火災で焼失してしまった。

本尊 大日如来

(写真は 本尊 大日如来)

明王殿

 金堂の東の明王殿は再建された本堂が昭和22年(1947)再び火災で焼失した際、四条寺町の浄土宗の名刹・大雲院の本堂を譲り受け、現在の講堂がある場所に昭和26年(1951)に移築され、本堂として使用されていたが、講堂の再建に伴って現在の場所へ移された。明王殿は不動堂とも呼ばれ、本尊・不動明王像の前で毎朝、護摩供養が行われている。
 現在の講堂は真言宗中興の祖・興教大師・覚鑁(かくばん)850年御遠忌記念事業として平成7年(1995)に再建された。以前の講堂は天和2年(1682)に焼失、再建後も明治15年(1882)に再び本堂などとともに焼失した。

(写真は 明王殿)

 境内北東にある大師堂は真言宗開祖の弘法大師・空海像が安置されているお堂。寛政元年(1789)江戸・浅草の宝持院真融法印の寄付金300両を基金として、他の末寺の寄付金などで建立された。
 大師堂の東の密厳堂(開山堂)には興教大師・覚鑁像が安置されている。智積院第7世運敞(うんしょう)僧正が末寺や学僧らに寄付を募り、寛文7年(1667)に建立、堂の正面には運敞僧正自筆の「密厳堂」の額が掲げられている。この土地は他の寺院のものであったが、学僧が増えて学僧寮などが手狭になったので、幕府の許可を得て入手したと言う。このほか境内には大書院、宸殿、智積院会館、収蔵庫などがある。

不動明王

(写真は 不動明王)


 
障壁画の最高傑作  放送 11月21日(水)
 智積院(ちしゃくいん)を訪れたら安土桃山時代の画家・長谷川等伯とその一門の障壁画は必見の名画。世界に誇るわが国の第一級の美術品で、美術愛好家のみならず多くの人を魅了している。これらの障壁画は智積院の前身・祥雲禅寺から引き継いだものである。
 内裏や寺院の障壁画の制作は狩野派が独占していたこの当時、「都一番の寺」と言われた祥雲禅寺の障壁画の制作が、まだ新進だった等伯にまかされたのは画期的なことだった。祥雲禅寺は度々火災に遭ったが、桃山時代の遺産であるこれらの障壁画は、寺院関係者によって持ち出され無事だった。

「桜図」長谷川久蔵 筆

(写真は 「桜図」長谷川久蔵 筆)

「楓図」

 智積院の数々の障壁画作品の中でも日本を代表する障壁画とされるのが、等伯の長子・久蔵25歳の時の作「桜図」と等伯の「楓図」。
 「桜図」は金と白を基調に2本の桜を中心に弾力ある枝と画面いっぱいに描かれた桜花が、生命感あふれる春爛漫の風情を派手やかに謳いあげており、この桜図の前に立つとしばらくはそこを離れられない感動を覚える。久蔵は桜図を仕上げた翌年に夭折、桜図は遺作となった。優れた画才を持ったわが子を失った父・等伯は、人生無常の感を振り切って「楓図」に自己の生命力を画面いっぱいにぶつけ、日本の秋を表現したと言う。

(写真は 「楓図」)

 智積院には長谷川等伯一派の作品としてこのほかに「松に秋草図」「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」「松に梅図」「松に立葵図」が、客殿風にしつらえられた宝物館に展示され、一般公開されている。「桜図」「楓図」と合わせていずれも国宝に指定されている。
 等伯は能登国(石川県)七尾の生まれで、京に上り狩野派一門の門をたたいたが作風が合わず、狩野一派と対立するようになった。大徳寺に出入りして同寺の水墨画に接し、水墨画から学んだ独自の画風を創造し頭角を現すようになった。このころ千利休の知遇を受けていた。

「松に秋草」

(写真は 「松に秋草」)


 
利休好みの庭園  放送 11月22日(木)
 智積院(ちしゃくいん)で長谷川等伯の障壁画と並んで眼福を得られるのが「利休好み」と言われる庭園である。中国の盧山を模した池泉式庭園で、千利休が作庭したとも言われているが定かではない。
 豊臣秀吉が愛児の鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺時代に原形が作られ、智積院になってから第7世運敞(うんしょう)僧正が修築し、東山随一と言われる名庭園になり、江戸時代の代表的な書院庭園として国の名勝に指定されている。

大書院より庭園を望む

(写真は 大書院より庭園を望む)

築山

 庭の正面の右側の石橋より奥が祥雲禅寺時代に作られたもので、土地の高低を利用して築山を作り、桃山風の自然石のみを用いた豪快な石組みと刈り込みを主体に、庭の外の大きな樹木も借りて深山のような奥行と野性味を感じさせている。
 中央の築山は石組みや石塔、鉢、垣などを組み合わせて変化をつけ、石組みと植え込みが交互に並ぶ様は、洗練された江戸好みの感じを見せ、築山と泉水庭の先駆けとなったと言われている。全体的に見ると庭全体の面積は小さいが、雄大さと重厚味を感じさせる。

(写真は 築山)

 庭園には歩く庭、立見の庭、座っての庭があるが、智積院の庭は大書院に座って見る庭。庭の池が大書院の縁の下に入り込んでいるのが特徴で、まるで水の上で平安時代の寝殿造の泉殿(いずみどの)か釣殿(つりどの)に座しているかのような心地がする。
 この庭には多くの植え込みがあるので、四季折々に寺を訪れる参詣者の目を楽しませてくれるが、特にサツキ、ツツジの咲く5月下旬から6月下旬にかけて、名園が一番華やぐ時である。

刈込

(写真は 刈込)


 
名画探索  放送 11月23日(金)
 智積院(ちしゃくいん)所蔵の名画は、長谷川等伯一門の障壁画だけにとどまらない。講堂大玄関の使者の間の屏風絵「布袋唐子嬉戯(ほていからこきぎ)の図」は、月樵(げっしょう)道人の大正元年(1912)の作で、布袋さんと笑顔で群れ遊ぶ大勢の子供たちの表情と躍動感に見る者の顔も思わずほころんでくる。
 月樵は丹波国・園部で弘化3年(1846)武士の子として生まれ、幼いころから画才があった。京へ出て12歳で得度し、仏画を描いていた。明治時代にドイツ人医師から洋画を学び、京都府立画学校(現京都市立芸術大学)の教師に迎えられた。関西美術会、洋画研究所を創立し京都洋画壇の基礎を築いている。

「布袋唐子嬉戯の図」月樵道人 筆

(写真は 「布袋唐子嬉戯の図」月樵道人 筆)

「婦女喫茶」

 通常は非公開となっている宸殿を飾っているのが堂本印象の26面の襖絵。昭和33年(1958)にこの宸殿が新築された際に揮毫した。
 印象は戦後、洋風、抽象へと画風を一変させ、主題も現代風俗に多くを求め、その作風を最も顕著に表しているのが智積院の襖絵「婦女喫茶」。二人の婦人が野点をしている絵は、寺院の襖絵としては奇抜な主題である。木陰のテーブルをはさんで椅子に腰掛ける和装と洋装の女性、周囲の提灯やパラソル、庭園の木々や草花が、金地にあふれんばかりの豊かな色彩で大胆に描かれている。

(写真は 「婦女喫茶」)

 この「婦女喫茶」が描かれた部屋のほかに「松桜柳」がもう1室に描かれている。中央の1室には「茄子に鶏」「流水に鳶」「朝顔に鶏」の三題が軽妙でさわやかなタッチで描かれている。
 堂本は智積院のほかに多くの寺院の障壁画を描いており、その数は600面にもおよび、画題は100を越えると言う。古いところでは大正14年(1925)の京都・大徳寺の24面の襖絵、新しいところでは昭和44年(1969)の京都・西芳寺の104面の襖絵、昭和46年(1971)の京都・法然院の58面の襖絵がある。これらの襖絵がそれぞれの環境にマッチしているのは、印象が綿密に吟味して選んだ画題による。

「松桜柳」

(写真は 「松桜柳」)


◇あ    し◇
真言宗智山派総本山・智積院京阪電鉄七条駅下車徒歩10分。 
京都市バス東山七条下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
真言宗智山派総本山・智積院075−541−5361 

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