月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・鯖江市、越前市、越前町 

 越前国の国府があった武生を中心に越前では古くから伝統工芸品のモノ作りが盛んだった。今週はこの伝統工芸の里を訪ねて熟練の職人技、名人芸をクローズアップする。なお越前市は武生市、今立町が合併、越前町は越前町、朝日町、織田町、宮崎村が合併して誕生した新しい市と町。


 
越前漆器(鯖江市)  放送 11月26日(月)
 越前漆器の始まりは1500年近く昔に遡る。継体天皇が即位する前、越前でまだ男太迹王(おおどのおおきみ)だったころ、傷つけた冠の修理を片山(現鯖江市片山町)の塗師に命じたところ、漆を塗って冠を修理するともに黒塗りの漆器の椀を献上した。その椀の見事な出来栄えに感動した男太迹王が漆器作りを奨励した。これが越前漆器の今日の繁栄をもたらす起こりとなったという。
 越前では漆は越前漆器の食器や装飾品に使われるているほか、家の軒や門構え、柱、天井などにも使われ湿気や腐食を防ぐのにも役立っている。漆器作りに携わる人たちの信仰が篤い漆器神社の格天井には漆による絵が描かれている。

漆器神社

(写真は 漆器神社)

越前漆器

 片山地区で作られる漆器は片山椀と呼ばれる実用品としての漆器作りが長く続いた。江戸時代末期に京都から蒔絵師を招いて蒔絵の技術を導入、さらに輪島塗の沈金の技法も取り入れて、堅牢で実用的な越前漆器に加え、美術的に価値の高い華麗な漆器が生み出されるようになった。
 越前漆器は生産工程での分業化が確立されており、材料の木をロクロで削って椀などの原形を作る素材作り、漆を塗る塗り、蒔絵などの装飾を描く加飾などのさまざまな工程が専門化している。漆器の命とも言える光沢を出すためには、漆塗り作業の場には塵ひとつ許されない。

(写真は 越前漆器)

 越前漆器は椀類など丸物と呼ばれるものがほとんどだったが、明治時代中ごろから角物と呼ばれる膳、重箱、手箱、盆、花器などが生産されるようになり、片山地区の西の河和田地区にも生産地域が広がった。
 こうした製品の多様化と大量生産によって旅館やレストランで使う業務用漆器へ販路を広げた。さらに合成樹脂の使用、ロボットによるスプレー塗り、機械によるスクリーン印刷や転写などで、安くて堅牢な漆器の生産で外食分野へも進出した。うるしの里会館では越前漆器の資料や製品の展示から塗師の作業を間近で見学できる職人工房、塗料での絵付け、沈金、塗りを体験しながらオリジナルな作品が作れる漆器体験もできる。

うるしの里会館

(写真は うるしの里会館)


 
眼鏡のふるさと(鯖江市)  放送 11月27日(火)
 国内の9割以上、世界の2割の生産シェアを誇る鯖江市の一大地場産業が眼鏡枠製造である。この眼鏡枠生産のシンボル的建物の「めがね会館」が、JR鯖江駅の東の通りに面した所に建っており、屋上にはその象徴の眼鏡枠が配されている。
 鯖江の眼鏡枠作りは、明治38年(1905)旧足羽郡麻生津村生野(現福井市生野町)の篤志家・増永五左衛門が、雨や雪の多いこの地方の農閑期の副業を模索していた。増永家は代々庄屋を務める旧家で、五左衛門は何とか村人たちの収入を増やし、暮らしをよくする道はないかと日ごろから考えていた。

山本泰八郎謹製眼鏡

(写真は 山本泰八郎謹製眼鏡)

井戸工房

 大阪で働いていた五左衛門の弟・幸八が、大阪で眼鏡ケースを作っていた五左衛門の同級生・増永伍作を知り、帰郷して兄に眼鏡枠作りを勧めたことが農家の副業の眼鏡枠作りにつながった。
 弟の説得に腰を上げた五左衛門は、手先が器用で村でも腕利きの大工・増永末吉に「眼鏡枠作りをしないか」と勧めた。最初は大工とは縁もゆかりもない眼鏡枠作りに躊躇していた末吉だったが、五左衛門の熱心な説得に動かされて承諾した。大阪から眼鏡枠作りの職人を招き、末吉ら数人が眼鏡枠作りの技術を学び、五左衛門がかつて羽二重製造に使っていた工場で、真鍮製の眼鏡枠作りを始めたのが今日の隆盛へとつながった。

(写真は 井戸工房)

 大正時代初めにアメリカの映画俳優ハロルド・ロイドがかけたセルロイド枠のロイド眼鏡が流行した。越前でも不振だった金属製の眼鏡枠に代わるセルロイド眼鏡枠作りに増永工場出身の佐々木末吉が取り組んだ。
 現在の眼鏡枠はほとんど機械で大量生産されているが、1個1個丹念に手作りされる高級品もある。鯖江市郊外のごく普通の民家で眼鏡枠職人・山本泰八郎さんはセルロイドにこだわり、1枚のセルロイド板を切り抜いて銘入りの眼鏡枠に仕上げる文字通りの職人的家内工業を続けている。一方、井戸工房の眼鏡枠職人・井戸多美男さんは、すべての工程をひとりでこなすメタル眼鏡枠職人の第一人者である。鯖江市にはこうした匠の技を持った眼鏡枠職人が健在である。

サンプラチナの眼鏡造り

(写真は サンプラチナの眼鏡造り)


 
越前焼(越前町)  放送 11月28日(水)
 日本六古窯(瀬戸、常滑、信楽、備前、丹波、越前)のひとつ越前焼は、約800年前の平安時代末期に始まっている。町村合併前の旧宮崎村古曽原の丘陵地帯に窯を築き、この地で産する土を使って焼き始めたのが始まりで、その後、北隣りの旧織田町でも焼かれるようになった。
 当時の古窯跡が200基以上発見されており、大規模な窯で大型の甕(かめ)、壺、すり鉢、舟徳利、お歯黒壺と言った日用雑器が多く焼かれてきた。大きな甕などはかつてはお墓として使われたりもした。越前焼は派手やかさはないが、素朴で温かみのある土の味わいが日々の暮らしの中で愛されてきた。

甕墓

(写真は 甕墓)

越前陶芸村

 越前焼はその後、南北朝時代の争乱で焼物の生産が衰退し、細々と農民や漁民が使う穀物や肥料を貯蔵する甕や壺を作り、戦後は土木工事や建築に使う土管やレンガなどを作りながら、越前焼の命脈を保ってきた。
 昭和40年(1965)ごろから伝統の越前焼を再興しようとの機運が高まり、福井県が昭和45年(1970)旧宮崎村に「越前陶芸村」を建設し、村内に「福井県陶芸館」をオープンした。館内には古越前から現代の新進陶芸家までの作品を展示したり、陶芸教室を開いて紐状の粘土を積み上げて作る手ひねりコース、電動ロクロコース、絵付けコースで越前焼きが体験できる(要予約)。また「越前焼の館」では越前焼の窯元の作品を一堂に集め展示即売している。

(写真は 越前陶芸村)

 旧織田町平等(たいら)のたいら窯の窯元・藤田家では、平安時代から続いているロクロを使わずに太い紐状の粘土を積みあげ、大きな甕に仕上げてゆく輪積みの手法を受け継いでいる。
 福井県無形文化財に指定されているたいら窯8代目・藤田重良右衛門さんの作陶を見た作家の故司馬遼太郎さんは「両手がたえず動いている。それとともに体も器のまわりをまわってゆく。人間が轆轤(ろくろ)になる、ということはこのことであろう」と「街道をゆく」の中で表現している。その姿は舞踊のように美しい動作であるとも言われた。今、藤田富男さんが父の技を受け継ごうと輪積みに取り組み、現代にマッチした新しい作品を生み出している。

輪積み(越前たいら窯)

(写真は 輪積み(越前たいら窯))


 
越前和紙(越前市)  放送 11月29日(木)
 大陸から日本に紙が伝わったのは4〜5世紀ごろ。越前ではすでにその時代から優れた紙が漉かれており、正倉院の古文書にそのことが示されている。
 市町村合併前の旧今立町には、今から1500年ほど前に美しい姫が岡太川の上流に現れ「この清らかな水を使って紙漉きをして生計を立てよ」と、里人に紙漉きの技を教えたと言う伝説が残っている。紙漉きの里・五箇の里人たちはこの姫を「川上御前」と崇め岡太神社を建てて祀り、紙漉きの技を今に伝えた。岡太神社の春の祭礼は「紙祭り」と言われ、御神体を乗せた神輿が五箇の町を練り歩く。

越前和紙

(写真は 越前和紙)

太政官金札

 越前和紙は初めは主に写経用に使われ、その後、公家、武士階級が大量の紙を使うようになり、全国の各藩で和紙が漉かれたが、越前奉書と呼ばれた越前和紙は日本一と評価されていた。福井藩は寛文元年(1661)五箇の和紙を使って藩内で通用する藩札を日本で初めて発行した。明治新政府となって最初の紙幣・太政官金札に越前和紙が使われたのも高品質の証である。
 書画・版画用紙としても一流芸術家たちに珍重されてきた。特にバレンを使って何回もこすってすり上げる版画用の和紙には、耐久性の優れた越前和紙が最適とされてきた。

(写真は 太政官金札)

 変わったところでは越前和紙での綱引き用の綱、和太鼓なども作られその強靭さが証明された。強靭さだけでなく結婚式の新婦が着る白無垢が真っ白な和紙で作られ、実際に結婚式で使われた。
 福井県で唯一の人間国宝の紙漉き職人・9代目岩野市兵衛さんが伝統の技法で漉きあげる紙は、葛飾北斎の版画復刻に使われた極薄の和紙など、その製品は千年後も残る優れたものである。こうした越前和紙のすべてがわかるのが和紙の里。ここには和紙の歴史や製作工程などをパネルや和紙人形を使って展示している「紙の文化博物館」、和紙を漉く作業が見学できる「卯立の工芸館」、紙漉き体験をしながらオリジナルな和紙が作れる「パピルス館」がある。

紙の文化博物館

(写真は 紙の文化博物館)


 
越前打刃物(越前市)  放送 11月30日(金)
 約700年前の南北朝時代に京の刀工・千代鶴国安が名刀を鍛える水を求めて越前国・武生に入り、刀剣製作のかたわら近郷の農民のために鎌を作ったのが越前打刃物の起源とされる。
 江戸時代には福井藩が越前打刃物の保護政策と取り、打刃物職人の組織化をするなどして、その販路を全国に広げていった。一方、越前漆器の漆を求めて全国を回っていた漆かき職人が越前打刃物を売りまわり、それぞれの土地にあった鎌の注文を取ってくるようになり、越前打刃物は全国に広がっていった。こうした古い歴史と実績が評価された越前打刃物は、昭和54年(1979)全国の打刃物業界で初めて伝統工芸品として国の指定を受けた。

越前打刃物

(写真は 越前打刃物)

火造り鍛造

 切れ味のよい刃物を作るには、赤く熱した鉄を何度も打ち返し鍛造することで、鋼の内部組織を微細かつ均一にする。こうした日本古来の火造り鍛造と手作り仕上げを守りながら生産を続けてきた越前打刃物は、鎌やはさみ、包丁などを主製品として発展、明治時代には全国の鎌生産の27.5%を占める生産高を誇っていた。
 古来の刀の鍛え方と合理的で斬新なデザインをミックスさせて、越前打刃物をさらに進化させ発展させようと「武生打刃物工業研究会」が発足した。この研究会のメンバーと福井県出身の新進工業デザイナーの川崎和男さんの出会いが、越前打刃物をさらに飛躍させた。

(写真は 火造り鍛造)

 越前打刃物の産地活性化プランとして川崎さんが提案したのが「タケフナイフビレッジ協同組合」。包丁やナタ、鎌、ナイフなどを製作していた10社が加盟、製作工房と展示・販売を兼ねた「タケフナイフビレッジ」と呼ぶ建物を建て、川崎さん提案の斬新なデザインによる刃物の製作をはじめた。その製品はグッドデザイン賞やアメリカのデザイナーズ・チョイス賞など受賞し、世界にその名を広めた。
 「タケフナイフビレッジ」では、古来の技術を受け継いだ製作工程が見学デッキから間近で見られ、チャレンジ横丁では簡単なキーホルダー作りから2日間かける本格的な手作り鍛造ナイフ作りなどの体験教室(要予約)がある。

タケフナイフビレッジ

(写真は タケフナイフビレッジ)


◇あ    し◇
うるしの里会館JR北陸線鯖江駅からコミュニティバスで
河和田コミュニティセンター下車徒歩3分。             
漆器神社JR北陸線鯖江駅からコミュニティバスで
河和田コミュニティセンター下車徒歩5分。             
越前陶芸村
越前焼の館
JR北陸線武生駅からバスで陶芸村下車10分。 
紙の文化博物館JR北陸線武生駅からバスで和紙の里下車すぐ。 
タケフナイフビレッジJR北陸線武生駅からバスで越前の里又は
味真野神社入口下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
鯖江市商業観光課0778−53−2230 
鯖江観光協会0778−51−2800 
うるしの里会館0778−65−2727 
越前漆器協同組合0778−65−0030 
福井県眼鏡協会0778−52−9111 
越前陶芸村0778−32−3200 
越前焼の館
(越前焼工業協同組合)
0778−32−2199
紙の文化博物館0778−42−0016 
タケフナイフビレッジ0778−27−7120 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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