月〜金曜日 18時54分〜19時00分


神戸市 

 国際都市・神戸市は幕末に神戸港が開港されてから多くの外国人が居住するようになった。町並みも国際色豊かになり、旧居留地や異人館街などにはエキゾチックな雰囲気が残っている。市内には日本古来の社寺も多いが、外国人が心のよりどころにする教会や寺院も目立つ。今回は神戸市内の異色の社寺を訪ねた。


 
関帝廟  放送 1月14日(月)
 高速神戸鉄道花隈駅から北へあがった住宅街の中に建つ、赤、青、緑、金色と鮮やかな極彩色がきらびやかな中国風寺院の関帝廟は、神戸市内に住む大勢の華僑の人たちの心のよりどころであり、暮らしにも深いつながりを持つなくてはならないお寺である。
 その名の通り中国の三国時代の武将・関羽を本尊・関帝として祀っており、地元では「南京寺」とも呼ばれているが、正式な寺名は慈眼山長楽寺。明治21年(1888)神戸の華僑の人たちが、大阪府布施村(現東大阪市)にあった黄檗宗の末寺で廃寺となっていた長楽寺を現在地に再建、関帝を祀り関帝廟とした。

関帝廟

(写真は 関帝廟)

関聖帝君像

 関羽は162年現在の山西省解州に生まれ、三国時代の蜀の皇帝・劉備に仕えた。中国の長編小説「三国志演義」によれば、魏、呉を相手に縦横無尽の戦いぶりで活躍、219年呉軍との戦いで武運つたなく敗死した。
 劉備への忠義をまっとうした人、誠実で信義の厚い武将として人気があり、特に信義を重んじる商人から商売の神様として崇め祀られてきた。さまざまな願いをかなえてくださる神様として、華僑たちだけでなく庶民らの信仰も篤い。関帝廟ではいろいろな年中行事があるが、お盆の普度勝会(ふどしょうえ)や旧暦の正月の春節祭などがよく知られている。

(写真は 関聖帝君像)

 慶応3年(1867)の開港と共に多くの華僑の人たちが神戸に進出してきた。華僑の人たちの心のよりどころとなっている関帝廟の本堂には、主神の関帝像のほかに聖観世音菩薩像、媽祖(まそ)とも呼ばれる女神・天后聖母像が祀られている。本堂屋根には宝玉をつかんでにらみ合っている青龍が飾られ、赤い角が突き出た山門、登龍門とも言われている中門など、境内には中国情緒があふれている。
 関帝廟は創建後、第2次世界大戦の空襲で焼失、再建後の昭和52年(1977)に子供の火遊びで再び焼失、さらに阪神淡路大震災でも大きな被害を受けたが、そのつど華僑の人たちの努力で力強く甦ってきた。

聖観音像

(写真は 聖観音像)


 
神戸ムスリムモスク  放送 1月15日(火)
 三宮から北の山手へあがるトアロードとパールストリートの交差点のすぐ東にひと際異彩を放ち、神戸の異人館街を訪れる観光客らの注目を浴びている建物が神戸ムスリムモスク。ムスリムはイスラム教徒、モスクはイスラム教の礼拝堂のことを言う。毎週金曜日の特別礼拝日には、関西在住のイスラム教徒たちがメッカに向かって礼拝を行っている。
このモスクは昭和10年(1935)に建設された日本に現存する最古の回教寺院で、阪神淡路大震災でも倒壊しなかった。日本にはこうしたモスクが神戸と東京の2ヵ所にある。

神戸ムスリムモスク

(写真は 神戸ムスリムモスク)

ミフラーブ

 神戸ムスリムモスクは伝統的トルコ様式の建築で屋根の中央にタマネギ型のドームがあり、その上にはマホメット継承者の印である三日月が掲げられている。ほかに大小4本の尖塔がそびえている。
 内部の礼拝所はメッカの方向の西側にミフラーブと言う壁の窪みがあり、ここからメッカを礼拝する。ほかに目立つ装飾はなく、絨毯を敷いた広い空間だけである。建物内は1階が男性用、2階が女性用で、3階と地下は祭日に集まった人たちの宿泊所として使われる。

(写真は ミフラーブ)

 20世紀初めの第一次世界大戦後、多くのイスラム教徒の貿易商人が神戸へやったきた。みんなが一緒に礼拝できるモスクを作りたいと、建設委員会を組織して建設費の寄付金を募ると同時に、日本政府に対してモスク建設の許可を願い出た。国からの許可がおり、インド人建築家の設計で建設が始まり昭和10年に完成、多くの国のイスラム教徒が集まって完成を祝った。
 このモスクはイスラム教徒でない人でも観光で見学することができるが、足や腕が露出しない慎ましい服装でなければならず、女性は髪を覆うスカーフの持参が必要である。

「アッラーの他にはいかなる神なし。ムハンマドがアッラーの下僕である。」

(写真は 「アッラーの他にはいかなる神なし。
ムハンマドがアッラーの下僕である。」)


 
モダン寺・本願寺神戸別院  放送 1月16日(水)
 神戸高速鉄道花隈駅の西北にモダン寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の本願寺神戸別院がある。地下1階、地上3階のインド仏教様式の鉄筋コンクリート造りで、屋上には5つの尖塔、本堂の正面左右にはブロンズ像、ステンドグラスの飾り窓などキリスト教の教会のようで、およそ仏教寺院のイメージとはかけ離れている。
 しかしれっきとした仏教の浄土真宗本願寺派の西本願寺の別院で、境内には宗祖・親鸞上人像が立っている。エキゾチックな町並みが多い神戸市内でも異彩を放つこの本願寺神戸別院は、午後6時から8時まで毎日ライトアップされている。

親鸞聖人像

(写真は 親鸞聖人像)

本願寺神戸別院

 神戸別院は最初は木造の寺院だったが、大正6年(1917)火災で焼失し、これを機に当時の大谷光瑞・本願寺第22代門主の意向で、インド仏教様式の鉄筋コンクリート造りで本堂を再建することになり、昭和5年(1930)に完成し、以来、モダン寺として神戸市民に親しまれてきた。
 この様式の鉄筋コンクリート造り大寺院はわが国で初めてで、神戸別院に続いて東京・築地別院が建てられている。神戸別院は近年、老朽化が目立ちはじめたため全面改築することになり、平成7年(1995)モダン寺のイメージを踏襲しながら装いも新たに現在の建物が完成した。

(写真は 本願寺神戸別院)

 本堂は旧来の寺院の本堂とは異なり、ホールと言った方が似つかわしい雰囲気で、内陣の須弥壇は金箔押極彩色でまばゆいばかりである。勤行などを務める僧侶らの席も椅子席となっているほか、独特の様式を取り入れた仏具などが多い本堂となっている。ほかに書院やホール、総会所、会議室などを備えており、広く門信徒らに利用されている。
 鉄筋コンクリート造りの寺院を実現した大谷光瑞門主は当時、貴族院議員で拓務大臣を務めたこともあるほか、探検家、建築家、文筆家としても知られ、持ち合わせた広い視野と進取の気性がこうした寺院建築に現れたのであろう。

本堂

(写真は 本堂)


 
カトリック神戸中央教会  放送 1月17日(木)
 慶応3年(1867)12月の神戸開港とともに神戸に定住した宣教師・ムニクウ神父は、明治政府のキリシタン弾圧の中で布教活動を続け、神戸開港の翌年の明治元年6月に居留地に開いた伝道所が、神戸で最初のカトリック教会となった。
 明治3年(1870)に建てられた聖堂は、大正12年(1923)に中山手通に移されて中山手教会となったが、昭和20年(1945)第2次世界大戦の神戸空襲で焼失した。

聖母子像

(写真は 聖母子像)

カトリック神戸中央教会

 居留地に神戸で最初の教会が建てられた後、明治43年(1910)に下山手通にも下山手教会が、ペリン神父によって建てられたが、この教会も神戸空襲で焼失した。
 中山手教会は終戦から11年後の昭和31年(1956)にゴシック風聖堂が再建され、神戸のカトリック信者や市民らに親しまれてきた。昭和33年(1958)には灘教会が新しく建設されたが、平成7年(1995)の阪神淡路大震災で中山手、下山手、灘の3教会が倒壊や半壊などの大きな被害を受け、信者たちに大きなショックを与えた。

(写真は カトリック神戸中央教会)

 震災で大きな被害を受けた中山手、下山手、灘の3教会は、平成11年(1999)ひとつに統合されてカトリック神戸中央教会が誕生し、震災から立ち直った。
 震災から10年の歳月を経た平成16年(2004)パールストリートとハンター坂の交差点近くの中山手教会跡地に新聖堂が完成した。新聖堂は白煉瓦の清楚で優しさをたたえた壁と屋根は緑青銅板葺きのしっとりとしたデザインとなっている。聖堂内の窓は朝の光を受ける東側が青、夕方の光を受ける西側が赤を基調とした色ガラスがはめ込まれ、堂内空間の色調が刻々と変化してゆき神秘な雰囲気を醸し出す。

祭壇

(写真は 祭壇)


 
生田神社  放送 1月18日(金)
 先ごろ人気女優が結婚式を挙げたことで人気があがった生田神社だが、日本書紀に創建の由来が記されているほどの古社で、祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。若く瑞々しい日の神で天照大神の幼名とも、妹神とも言われている。
 日本書紀によれば神功皇后が新羅遠征の帰途、武庫の海で急に船が動かなくなり、神意を占ったところ稚日女尊が「われは活田(いくた)に居りたい」と言われたので、生田の森に祀られたとある。

生田神社

(写真は 生田神社)

生田の森

 平安時代初めの大同元年(806)に生田神社に朝廷から神戸(かんべ)44戸を賜ったとの記録がある。
「かんべ」とは神社に財物を納め、労役を提供する民家のことで、これが神戸の地名のルーツである。
 生田神社は繁華街の真っただ中にありながら、本殿裏手には平安時代の昔から名勝とされる楠の大樹がうっそうと茂る生田の森がある。この森はかつては生田川畔まで続いており、源平合戦や南北朝の争いで楠木正成が戦った湊川の合戦、織田信長の花隈城攻めなど、幾多の戦乱の舞台となった戦略上の要衝の地であった。しかし第2次世界大戦の神戸空襲や都市開発などで森は小さくなってしまった。

(写真は 生田の森)

 第2次世界大戦の神戸空襲で焼失した社殿は昭和34年(1959)に再建されたが、平成7年(1995)の阪神淡路大震災で、本殿前の拝殿や鳥居などが完全に倒壊するなどの大きな被害を受けた。社殿の復旧工事は急ピッチで進められ、今は朱色も鮮やかな拝殿が再建され参拝客を迎えている。
 生田神社にはいろいろな伝承がある。その中のひとつに「境内には松の木は1本もなく、ほとんどがクスノキ」とある。これは布引の滝近くに祀られていた時、倒れてきた松の木によって社殿が壊れたことで松を忌み嫌うようになり、今も正月の門松の代わりに杉盛りを楼門に立ている。

拝殿

(写真は 拝殿)


◇あ    し◇
関帝廟神戸高速鉄道花隈駅下車徒歩10分。 
JR東海道線三宮駅又は神戸駅下車徒歩15分。
神戸市営地下鉄県庁前駅下車徒歩10分。
神戸ムスリムモスクJR東海道線、阪急電鉄神戸線、阪神電鉄本線の三宮駅下車徒歩15分。 
本願寺神戸別院神戸高速鉄道花隈駅下車すぐ。 
JR東海道線神戸駅下車徒歩10分。
カトリック神戸中央教会JR東海道線、阪急電鉄神戸線、阪神電鉄本線の三宮駅下車徒歩10分。 
生田神社JR東海道線、阪急電鉄神戸線、阪神電鉄本線の三宮駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
神戸市総合インフォメーションセンター078−322−0220
中華会館(関帝廟)   078−392−2711 
神戸ムスリムモスク078−231−6060 
本願寺神戸別院078−341−5949 
カトリック神戸中央教会078−221−4682 
生田神社078−321−3851 

◆歴史街道とは

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

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