月〜金曜日 18時54分〜19時00分


三重・紀北町、尾鷲市 

 紀伊半島の東側を東紀州と言う。この東紀州には伊勢から熊野三山への熊野古道・伊勢路が通り、平安時代から熊野詣の参詣者たちが熊野三山を目指し厳しい旅をしていた。ユネスコの世界遺産に登録された熊野古道は今も往時の面影を随所に残している。このような紀北町と尾鷲市を訪れ、東紀州の歴史の深さを探訪した。なお紀北町は平成17年(2005)に紀伊長島町と海山町が合併して誕生した町である。


 
熊野古道伊勢路(紀北町)  放送 1月21日(月)
 熊野三山への参詣道・熊野古道の代表的コースは、大阪から海岸沿いに田辺を経て山中の中辺路を通る西回りの「紀伊路」と、伊勢から東紀州の山中をたどる「伊勢路」がある。紀伊路は法皇や上皇、天皇らの御幸ルートと言われたのに対し、伊勢路は東国から伊勢参宮を終えた人たちがたどった庶民の参詣道と言える。
 伊勢路の中で伊勢国から紀伊国の境界にあるのが海抜357mのツヅラト峠。ツヅラトとは九十九(つづら)折りに由来する通り、紀伊長島側は急カーブが連続しており、伊勢路の中の難所のひとつとなっていた。

熊野旅曼茶羅図(熊野古道センター)

(写真は 熊野旅曼茶羅図(熊野古道センター))

ツヅラト峠

 伊勢からいくつもの山を越え、谷を渡ってきた旅人たちはこのツヅラト峠に立ち、眼下に志子の集落や紀州の山並み、その先の熊野灘を目にして、その海原の西の果てにあると信じられている補陀落(ふだらく)浄土を思い浮かべて感動したことであろう。
 紀州藩祖・徳川頼宣が入国してからの熊野古道は、これより東よりの現在、国道42号が通る荷坂峠越えが正式ルートになった。ツヅラト峠が正式の熊野詣のルートからはずれたとは言え、昭和時代初めまで紀伊長島の魚の行商人が通るなど、地元人たちの生活道路として使われていたので、荒れることなく保存されてきた。

(写真は ツヅラト峠)

 紀北町を南へ進んで銚子川を渡ると尾鷲市との境界にある熊野古道の馬越(まごせ)峠への登り口にさしかかる。この峠の両側の古道はヒノキの美林の中に大きな石を敷き詰めた石畳道で知られている。石畳にはビッシリと青い苔が生えており、まさに「これぞ熊野古道」との雰囲気が漂っている。峠からそれて天狗倉山(てんぐらやま)へ登ると熊野灘の眺望が楽しめる。
 ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録されたのを記念して、尾鷲市に建設された三重県立熊野古道センターには、映像やパネルなどで熊野古道の歴史や自然、文化などがわかりやすく展示されており、古道を歩く前にここで予備知識を入れておけば理解がいっそう深まる。

馬越峠

(写真は 馬越峠)


 
種まき権兵衛(紀北町)  放送 1月22日(火)
 「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる」の歌で知られる種まき権兵衛は、銚子川沿いの紀北町海山区便ノ山に生まれた心優しいお百姓さんだった。
 権兵衛の父は上村兵部と言う江戸時代中期の武士だったが、武士を捨ててこの地に入り、寺子屋を開いて先生をしながら百姓仕事をしていた。権兵衛は百姓仕事より鉄砲を持って山を駆け巡り、農作物を荒らすイノシシやシカ、クマなどを退治する狩猟を好み、鉄砲の名人として知られていた。父が亡くなってからは百姓仕事にも打ち込むようになり、権兵衛がせっせと畑にまいた種をつついて食べるカラスを追っ払うのもはばかるほど心根は優しかった。

銚子川の舟渡し

(写真は 銚子川の舟渡し)

種まき権兵衛像(宝泉寺)

 鉄砲の名人の権兵衛の噂が紀州の殿様の耳に入り、この地を訪れた殿様の前でその腕前を披露することになった。見事な鉄砲の腕前に感嘆した殿様が「何でも好きな物を褒美に取らせる」と言った。この申し出を固辞して「その代わりに便ノ山の村人の今年の年貢を免除してほしい」と言い、その年の村人の年貢が免除されたと言う。
 当時、熊野古道の馬越(まごせ)峠近くの天狗倉山(てんぐらやま)頂上の棲む大蛇が、熊野詣の旅人や村人を襲い恐れられていた。紀州の殿様は権兵衛の腕を見込んで、大蛇退治を命じた。腕に自信のあった権兵衛だったが「相手は大蛇だ。万一のことがあっても悔いはない」と言って天狗倉山へ向かった。

(写真は 種まき権兵衛像(宝泉寺))

 権兵衛は肌身離さず持っていたお守りの「ずんべら石」を懐に、大蛇の棲む天狗倉山の洞窟の近くで待ちかまえていた。そこへ現れた大蛇ののどに弾丸を撃ち込んだ。しかし大蛇はひるまず権兵衛を襲ってきたので、持っていた「ずんべら石」に身を隠しながら2発、3発と大蛇ののどを目がけて撃った。大蛇は毒気を口から吐きながら死んだが、権兵衛もその毒気に当たって倒れ、10日ほど後に死んだと言う。
 権兵衛の墓と碑が便ノ山の宝泉寺にあり、その勇気と優しさが語り継がれ、毎年春分の日には地元の種まき権兵衛保存会の人たちによる権兵衛踊りが奉納される。寺の近くの「種まき権兵衛の里」には権兵衛ゆかりの品を展示した「権兵衛の屋敷」がある。

「権兵衛おどり」(種まき権兵衛保存会の皆さん)

(写真は 「権兵衛おどり」
(種まき権兵衛保存会の皆さん))


 
熊野灘の恵み(紀北町)  放送 1月23日(水)
 古くからの熊野古道のツヅラト峠や江戸時代からの熊野古道の荷坂峠を伊勢方面から来た熊野詣の旅人たちは、この峠の上に立ち眼下に広がる熊野灘の青い海原、リアス式海岸の湾内に浮かぶ島々を眺めて感動したであろう。紀北町の旧紀伊長島町沖合いに点在する小さな島は「紀伊の松島」と称される絶景の眺めで有名。
 JR三野瀬駅の南、熊野灘に突き出た岬の上にある高塚公園展望台からは、美しいリアス式海岸の海岸美と紀伊の松島が眼下に広がる360度の眺望が楽しめる。早朝、この展望台に立てば、熊野灘から昇る感動的な日の出が体感できる。

紀伊長島漁港

(写真は 紀伊長島漁港)

渡利かき(白石湖)

 紀北町沖合いの熊野灘は好漁場で、黒潮に乗ってカツオやマグロが北上し、冬には寒流が南下してサンマやブリがよく獲れる。特産の伊勢エビは本場ものである。
 熊野灘の荒波をさえぎってくれる入り江が絶好の漁港を形成する紀伊長島漁港は、東紀州一の水揚げを誇っている。特にカツオの一本釣りは東紀州の半分近くがここ紀伊長島漁港に水揚げされ、南隣の引本漁港ではブリの大敷網漁が盛んで、脂の乗った寒ブリが水揚げされている。紀伊長島漁港では毎月第2土曜日に港市が開かれ、新鮮な魚介類や水産加工品が即売される。地元住民はもとより町外からも車で買い物に来る常連客も多い。

(写真は 渡利かき(白石湖))

 紀伊長島漁港の魚市場とその向かいに軒を連ねる魚屋には、鮮魚はもちろん干物やかまぼこなどの練り物、カラスミなどの加工品も豊富で大勢の買い物客でにぎわう。漁港付近では天日干しのアジやイワシ、イカなどがずらりと並べられており、漁師町らしい風情が色濃い。
 また紀北町には小さな温泉郷があり温泉旅館や民宿が多い。これらの旅館や民宿での自慢は新鮮な海の幸が並ぶ食卓である。中にはその日に水揚げされた魚介類のメインディッシュをディスプレイで示し、好みの料理を選んでもらうコースもある。温泉で日ごろの疲れを癒し、新鮮な海の幸に舌鼓を打つのは至福のひととき。

ホテル 季の座

(写真は ホテル 季の座)


 
山林王・土井本家(尾鷲市)  放送 1月24日(木)
 尾鷲の名勝として必ずあげられるものに土井竹林がある。4000平方mの竹林に数千本の竹が密生しており、この竹林の持主・土井本家は江戸時代初期の寛永年間(1624〜44)から続く林業家で、尾鷲の山林王と呼ばれてきた。
 江戸時代中ごろの宝暦年間(1751〜64)に当時の当主が薩摩からモウソウ竹を手に入れ、移植したのが竹林の始まりで、薄暗い手掘りのトンネルを抜けると竹林が広がっている。空に向かって伸びる竹の中には直径が30cmもある太い竹もあり、竹林内には幽玄な雰囲気が漂っている。

土井本家

(写真は 土井本家)

2階大広間

 土井本家には山林王にふさわしい邸宅がある。中でも明治21年(1888)に建てられた洋館は、良質の建築材をふんだんに使い贅を尽くした建物で、今も竣工時とほとんど変わらぬ姿で建っている。
 この洋館は事務所とホールを兼ねたオフィスとして使われていたもので、家族らの生活の場は洋館の奥にある純和風の建物。洋館2階の大広間の天井には幅90cm、長さ18mのスギの1枚板が張られており、こんなスギ板があるのだとびっくりさせられる。ほかに照明器具のシャンデリアや手の込んだ細工物が目につき、和風建築の伝統様式を洋館に取り入れた和洋折衷の建物といえる。

(写真は 2階大広間)

 広大な邸宅内にある和風建築の蔵と納屋を改装して、明治時代から大正時代、昭和時代初期にかけてのブリキの玩具や子供のドレス、帽子、靴、そして文房具などを展示している「土井子供くらし館」と、別荘を改装して人形を展示している「お人形の家」がある。
 展示されている品々は、木材を海路で東京へ積み出していたころ、当主が子供たちへの土産にと銀座や日本橋の専門店で入手してきたものである。中には昭和天皇が幼少のころに愛用されたのと同じおもちゃもあり、東京のハイカラな文化の香りがするお土産は、子供たちには何よりの楽しみだったのであろう。

土井子供くらし館

(写真は 土井子供くらし館)


 
曲げわっぱ(尾鷲市)  放送 1月25日(金)
 尾鷲は日本一の降水量とさんさんと降りそそぐ日光とが昔から良質のヒノキを育んできた。その尾鷲ヒノキは赤味が多く、年輪が緻密で節が少なく、曲げやねじれに耐える力が強いのが特徴で、家屋の優れた柱材として江戸時代から知られ、関東大震災でも柱に尾鷲ヒノキを使って建物は、倒壊をまぬがれたものが多かったと言われている。
 尾鷲市にある三重県立熊野古道センターは、熊野古道にふさわしい木造風の建物にするため外装、内装材には地元産の尾鷲ヒノキ、熊野スギが使われており、その美しい風合いが訪れた人たちには好評である。

三重県立熊野古道センター

(写真は 三重県立熊野古道センター)

尾鷲わっぱ(三重県立熊野古道センター)

 一方、この尾鷲ヒノキの特性を生かした伝統工芸品が曲げわっぱである。柱材を取った残りのヒノキ材で節がなく、木目の美しい部分を板にする。この板を水につけて柔らかくして曲げ、継ぎ目を桜の木の皮で綴じ、漆を何回も塗る。漆を塗る回数はわっぱの種類によって異なり、板材を作るところからの工程で、最も手数の多いもので45工程の手を経なければならない。
 尾鷲市には古くから多くのわっぱ屋があったがその起源は不明である。江戸時代初期に尾鷲林業が隆盛期を迎えて山林労働者が増え、この人たちが楕円形のわっぱの弁当箱を使うようになり、海でも漁師たちがわっぱを愛用したのでわっぱ作りが盛んになった。

(写真は 尾鷲わっぱ
(三重県立熊野古道センター))

 こうした需要に応えるため、尾鷲には江戸時代にはかなりのわっぱ屋があったが、現在、尾鷲市で曲げわっぱの技術を継承しているのは、明治20年(1887)創業の「ぬし熊」のただ1軒になり、4代目当主の世古効史さんが尾鷲曲げわっぱの伝統技術を守り続けいる。効史さんの父・昭次さんは昭和52年(1977)に尾鷲市無形文化財保持者に指定された。
 わっぱは現代でも日常生活には便利な食器として重宝されている。わっぱのおひつに入れたご飯は味が落ちず、そのまま電磁レンジで温めると炊き立てのようなご飯になる。お茶受けの菓子入れや裁縫箱、美しい木目を生かして室内のインテリアとして飾られているほか、トレイ、コーヒーカップ、ぐい呑みなどもある。

ぬし熊の曲げわっぱ

(写真は ぬし熊の曲げわっぱ)


◇あ    し◇
ツヅラト峠JR紀勢線梅ヶ谷駅下車徒歩約1時間40分。 
荷坂峠JR紀勢線梅ヶ谷駅下車徒歩約40分。 
馬越峠JR紀勢線相賀駅下車徒歩約1時間30分。 
三重県立熊野古道センターJR紀勢線尾鷲駅からバスで熊野古道センター前下車。 
宝泉寺、種まき権兵衛の里JR紀勢線相賀駅からバスで鷲毛下車徒歩15分。 
JR紀勢線相賀駅からタクシーで10分。
紀伊長島漁港JR紀勢線紀伊長島駅下車徒歩10分。 
高塚公園展望台JR紀勢線三野瀬駅下車徒歩15分。 
土井本家・土井竹林・土井子供くらし館
JR紀勢線尾鷲駅下車徒歩10分。
ぬし熊JR紀勢線尾鷲駅からバスで向井小学校前下車徒歩10分。 
JR紀勢線尾鷲駅からタクシーで10分。
◇問い合わせ先◇
紀北町観光協会0597−46−3555 
三重県立熊野古道センター0597−25−2666 
宝泉寺0597−32−0760 
長島町漁業協同組合0597−47−0600 
ホテル季の座0597−46−2111 
尾鷲市新産業創造課0597−23−8261 
土井子供くらし館0597−23−1072 
ぬし熊0597−22−9960 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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