月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大東市、四條畷市 

 大阪府の北東部に位置し、奈良県と境を接する大東、四條畷の両市は、旧石器、縄文、弥生時代から生駒山系の西麓で開けてきた。また野崎参りで知られる野崎観音、南北朝時代から戦国時代にかけて軍事的要衝の地となった飯盛山の飯盛城をはじめ、両市内にはこの時代の史跡が多く、手ごろなハイキングコースにもなっている。


 
野崎の観音さん(大東市)  放送 4月7日(月)
 JR片町線(学研都市線)野崎駅から東へ数分、飯盛山の山裾に「野崎の観音さん」として広く知られる曹洞宗・慈眼寺がある。今から1300年前の昔、インドから来朝した僧が「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた地によく似ている」と言い、これを聞いた行基が感動して自ら観音像を刻んで安置したのがこの寺の始まりと言う。
 現在の本尊・十一面観世音菩薩像(秘仏)は白檀の一木造りで、躍動する龍の背に立っている。脇侍仏として右に普賢菩薩像、左に文殊菩薩像が安置され、周りには持国天、多聞天、広目天、増長天の四天王像が本尊を守っている。本尊は初まいり(1月)、野崎まいり(5月)、千日まいり(7月)の年3回ご開帳され拝観できる。

本尊 十一面観世音菩薩

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩)

江口の君

 平安時代中期の一条天皇の時代(986〜1011)に淀川河口の江口の里の遊女・江口の君が病気平癒を祈願して願いがかなえられ、その報恩に低地にあった本堂を現在地に移し、寺坊を再興して中興の祖と呼ばれた。
 現在、本堂脇にその江口の君像を祀る江口の君堂がある。江口の君像は彩色された官女風で、りんとした姿で座しており、婦人病や縁結び、子授け、安産などのご利益がある。特に命日の毎月14日には女性のお参りが多く、江口の君堂を左から右へ年齢の数だけ回ると、ご利益があると言われている。

(写真は 江口の君)

 本堂は兵火などで度々焼失し、そのつど再建されてきた。現在の本堂は昭和25年(1950)尾瀧一峰住職が河内一円を托鉢した浄財で、東大阪市日下の大龍寺の観音堂を譲り受けて移築した。
 羅漢堂には十六羅漢像が安置されている。十六羅漢とは長くこの世で正法を守り衆生を導くと言う釈迦の16人の高弟。江戸時代から河内地方に「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」と、子供たちが歌うユーモラスな遊び歌があった。羅漢堂は昭和26年(1951)の山崩れで流失し、羅漢像も傷ついたが最近ようやく修復され、仮の羅漢堂に安置されている。十六羅漢の中心に安置されていた釈迦如来像は、薬師堂に仮安置されている。

十六羅漢像

(写真は 十六羅漢像)


 
野崎参り(大東市)  放送 4月8日(火)
 「野崎参りは 屋形船で参ろ どこをむいても 菜の花盛り」と、昭和10年(1935)に東海林太郎が歌った「野崎小唄」は、地元有志がPRのために制作したが、思いがけない大ヒットとなり、この歌で全国で野崎参りを知らぬ人はいないほどになった。
 野崎参りは江戸時代の元禄年間(1688〜1704)のころから盛んになった。野崎参りは、毎年5月1日から10日まで行われる無縁経法要に参詣して、有縁無縁すべてのものに感謝のお経を捧げる。期間中は全国各地から参詣者が集まり、野崎駅から参道には300軒もの露店が並んで大層にぎわう。2008年からは8日までに短縮された。

野崎小唄の碑(野崎観音境内)

(写真は 野崎小唄の碑(野崎観音境内))

野崎観音・慈眼寺

 大阪からの野崎参りは船路と陸路があった。船路は大阪・天満の八軒屋浜から大川、寝屋川、谷田川を経て観音浜に着いた。屋形船で行く人は川岸の景色を眺め、川遊びをしながら船の旅を楽しんだ。川の土手を歩いて野崎観音に向かう人たちと船の人たちが、お互いに悪口を言い合う「ふり売り喧嘩」と言う風習があり、面白おかしく伝えられ、落語の題材にもなっている。
 境内に芭蕉の「涅槃会や 皺手(しわて)合わす 数珠の音」と「観音の いらか見やりつ 花のくも」 の句碑がある。芭蕉が野崎観音に来た記録はなく、いずれも江戸・深川の芭蕉庵から浅草観音を眺めて詠んだ句を、地元の人が観音さまににちなんだ句として句碑を建立したようだ。

(写真は 野崎観音・慈眼寺)

 野崎観音にちなむエピソードで有名なのが、人形浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの近松半二作の「新版歌祭文・野崎村の段」の「お染久松」の悲恋物語。
 質屋・油屋の丁稚・久松は、油屋の娘・お染と恋仲になったが、その仲を裂かれ野崎村に帰された。お染は野崎参りにかこつけて野崎村の久松を訪ねる。しかしお染にはすでに縁談があって、結納も交わされており、久松にもお光と言う許嫁がいた。このままでは添い遂げることができないと、二人は心中を覚悟する。一方、お光は久松をお染に譲ろうと決心し、そっと涙を流して尼になると言う心中悲恋物語。野崎観音境内にはお染と久松を葬った比翼塚がある。

お染久松の墓

(写真は お染久松の墓)


 
飯盛山ハイク(大東市)  放送 4月9日(水)
 大東市と四條畷市にまたがる標高314mの飯盛山。この付近は都市近郊に残る生駒山系の貴重な自然で、市民らの憩いの場にもなっている。野崎観音本堂の左手から山頂までハイキングコースが整備されており、リュックを背負って歩く人たちを毎日何人も見かける。
 本堂から歩き始めるとすぐの丘に石造九重層塔が建っている。700年余り前の鎌倉時代初期の永仁2年(1294)に渡来系の秦氏らが、先祖の供養のために造立したとの金石文が刻まれている。高さ3.3mの花崗岩製で北河内地方最古の層塔である。

石造九重層塔

(写真は 石造九重層塔)

楠公寺

 生駒山系の北西に位置し、畿内の中心的な要地を占めている飯盛山に最初に城を築いたのは、南北朝時代の建武年間(1334〜38)に北条方の佐々目憲法。応仁の乱(1467)後に木沢長政、安見直政が城主になるが、戦国時代末期にこの地方に勢力を誇った三好長慶が安見直政を破って城主となり、永禄3年(1560)本格的な城郭にするための大修築を行った。
 しかし三好長慶はその4年後に病没し、後に織田信長の軍勢に攻められて落城して廃城となった。城跡には現在、南北約1kmにわたって本丸跡や高櫓跡、石垣などが残っており、かつての威容をしのばせている。

(写真は 楠公寺)

 山頂には鎧(よろい)姿の楠木正行(まさつら)像が、激戦の末に果てた戦場を見下ろしている。正行は父・楠木正成が神戸・湊川で足利尊氏に敗れた後、四条畷で足利方の高師直軍と戦い、敗れて弟の正時と刺し違えて果てた。この像のすぐ近くに正行らの冥福と菩提を弔うため妙法寺が建立され、昭和23年(1948)に楠公寺と改められた。
 飯盛山のからの眺望は素晴らしく、生駒山系の山並みをはじめ眼下に大東市、四條畷市から河内平野を望み、さらに遠くは大阪市街地、大阪湾まで見渡すことができる。飯盛山へは野崎観音からのコースのほかに、四條畷市などから4つのハイキングコースがある。

楠木正行像

(写真は 楠木正行像)


 
小楠公の史跡(四條畷市)  放送 4月10日(木)
 南北朝時代の正平3年(1348)四條畷は南朝方の小楠公こと楠木正行(まさつら)軍と足利方の高師直軍との激戦「四條畷の戦い」の場となった。正行軍約3千騎に対して師直軍約6万騎。正行は奮戦したが衆寡敵せず、弟・正時と刺し違えて果てた。
 正行は足利尊氏との戦いで神戸・湊川に向かう父・正成から桜井の別れで「父が討死にして尊氏の世になっても降参することなく尊氏と戦え」と遺訓された。その後、後村上天皇に仕えて各地で室町幕府軍と戦い続け、四條畷の戦いに向かう時、吉野山の如意輪寺の本堂・如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」と辞世の句を矢じりで記している。

小楠公墓所

(写真は 小楠公墓所)

四條畷神社拝殿

 四條畷の戦いで正行兄弟のほかに楠木一族や正行の従兄弟の和田賢秀とその一族はほとんど戦死し、吉野の南朝の朝廷は衰退した。しかし後世の日本人は正行を父の大楠公・正成とともに忠臣として厚く遇した。
 この戦いの後、正行はJR四条畷駅に近い現在の小楠公墓所に葬られ、小さな石碑が建てられた。後に石碑の両側にクスノキが植えられ、そのクスノキが成長して1本の木のようになり、古い石碑を挟み込んでしまった。樹齢550年のこのクスノキは、大阪府の天然記念物に指定されている。約12m四方の小さな墓所は、明治時代になってから整備されて広くなり、大久保利通の筆による文字が刻まれた大石碑が建立された。

(写真は 四條畷神社拝殿)

 この墓所の東方の四條畷神社は、正行を主神に弟・正時以下一族24名を配祀している。父・正成は神戸・湊川神社に祀られ、明治天皇から正一位が贈られ、正行には従二位が贈られた。
 四條畷神社は地元の神社の神職らが正行を祀る神社創建を願い出て、明治22年(1889)に勅許がおり、四條畷神社の社号も許された。地元の住民たちも神社創建に協力して境内地や浄財を寄進し、翌年の明治23年に創建された。夫・正成亡き後、正行らを育てた母を祀る御妣(みおや)神社も境内に大正14年(1925)に建立された。また四條畷神社の北西200mの所には、正行の従兄弟・和田賢秀の墓所がある。

四條畷神社本殿

(写真は 四條畷神社本殿)


 
河内キリシタン(四條畷市)  放送 4月11日(金)
 戦国時代の天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝来した。畿内の中心的な要地を占めていた大東市と四條畷市の境にある飯盛山には、南北朝時代にすでに城が築かれていた。永禄3年(1560)飯盛城主になった三好長慶は、勢力を伸ばし河内をはじめ畿内、四国まで支配した。
 三好の家臣の結城左衛門尉は大和で洗礼を受けてキリシタンとなり、同僚たちの武士にキリスト教のことを話し、城主も飯盛城での布教を許した。結城は永禄6年(1563)キリスト教伝道師・ロレンソを飯盛城に招いて布教に努め、主だった武士ら73名が洗礼を受け、これが河内キリシタンの始まりとなった。

田原城本丸跡

(写真は 田原城本丸跡)

3号墓(千光寺跡移築広場)

 その後も飯盛城下の武士や領民の多くがキリシタンとなり、河内キリシタンは最も多い時には6000人を超えたと言われている。飯盛城下でキリスト教の布教活動が始まった翌年に、キリスト教理解者だった三好長慶が病死した。長慶没後は家臣の松永久秀が実権をにぎり、キリシタンを排除し始めた。長慶の死亡の翌年に今度は結城左衛門尉が、毒殺とも噂された不慮の死を遂げ、河内キリシタンにとって大きな打撃となった。
 松永の弾圧、キリスト教理解者の相次ぐ死を乗り越えて信仰の道を守り続けた人の中に、飯盛城の支城・田原城の城主で洗礼名・レイマン(礼幡)の田原対馬守がいたことが「フロイス日本史」で明らかになった。

(写真は 3号墓(千光寺跡移築広場))

 田原城の北に田原氏の菩提寺・千光寺があったが明治維新後に廃寺となり、その跡に移転したきた月泉寺に田原一族の位牌などが継承されてきた。平成14年(2002)の千光寺跡の発掘調査で、高さ43.5cm、幅26cm、厚さ8cmの石に十字架が刻まれた墓碑が発見された。これが田原レイマンのものとわり、田原がキリシタンだったことが裏付けられた。この墓碑はわが国で発見されているキリシタン墓碑としては日本最古のものである。墓地跡からは墓碑のほかに中国製の青磁袴腰香炉や青白磁小壺、瀬戸焼水差などの遺物が出土している。
 織田信長によって保護されていたキリスト教は、信長の死後、豊臣秀吉のキリスト教禁止令による取り締まりで、河内キリシタンの名は歴史から消えた。

田原レイマンキリシタン墓碑

(写真は 田原レイマンキリシタン墓碑)


◇あ    し◇
野崎観音(慈眼寺)JR片町線(学研都市線)野崎駅下車徒歩10分。
飯盛山JR片町線(学研都市線)野崎駅下車徒歩1時間。           
楠公寺JR片町線(学研都市線)野崎駅下車徒歩55分。 
小楠公墓所JR片町線(学研都市線)四条畷駅下車徒歩7分。 
和田賢秀墓所、四條畷市立歴史民俗資料館、四條畷神社
JR片町線(学研都市線)四条畷駅下車徒歩15分。
田原城阯、先光寺跡JR片町線(学研都市線)四条畷駅から
四條畷市コミュニティバスで田原台センター下車徒歩10分。
近鉄奈良線生駒駅からバスで田原台センター下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
大東市産業振興課072−872−2181 
野崎観音(慈眼寺)072−876−2324
楠公寺072−877−0792 
四條畷市産業労働観光課072−877−2121 
四條畷神社072−876−0044 
四條畷市立歴史民俗資料館072−878−4558 

◆歴史街道とは

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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