月〜金曜日 18時54分〜19時00分


海辺の景色

 

周囲を海に取り囲まれた日本列島にあって、人々は海とのかかわりあいの中で歴史をつむいできた。
豊富な海産物の恵みをもたらしてくれる海、日本列島、そして海外とを結ぶ交流の場としての海。
時として祈りの対象ともなり、またあるときは海上の覇権を巡って戦いが行われたりすることもあった。
日本人にとって海は、常に切っても切れない関係にあったといって過言ではない。
今週は歴史に満ちた海辺の景色を求めて近畿各地を尋ね歩いてみた。

串本・本州最南端の町 放送 8月18日(月)
 紀伊半島の南端からクジラの尻尾のような形で、太平洋に突き出た串本町は本州最南端の町。さらにその南端、熊野灘を見下ろす潮岬の30mの断崖の上に高さ22.5mの白亜の潮岬灯台が立つ。

 潮岬のシンボルとも言えるこの灯台は、幕末の慶応2年(1866)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と結んだ「改税約書=別名・江戸協約」によって、日本が建設を約束した8ヵ所の灯台のうちのひとつ。「日本の灯台の父」と言われたイギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンが設計、指導して建設された。 

潮岬灯台

(写真は 潮岬灯台)

潮御崎神社


 明治3年(1870)に仮点灯された潮岬燈台は、わが国で初めての八角型洋式木造灯台で、仮点灯から3年後に本点灯され、明治11年(1878)現在の石造灯台になった。潮岬沖合いは潮の流れが速く、風も強いため航海の難所とされていた。現在の潮岬灯台の光は97万カンデラで沖合い35kmまで到達する1等灯台で、この光は暗夜の潮岬沖の航海の安全に欠かせないものである。

 狭くて急な68段の螺旋階段を登って台上に出ると、眼下の岩礁に打ち寄せる波が白く砕け散り、遥か彼方の水平線が180度に広がり「地球が丸い」と実感させられる。

(写真は 潮御崎神社)


 夏には灯台敷地内にハマユウが咲き乱れ、訪れる人を迎えてくれる。また冬至のころに訪れると水平線から昇った太陽が同じ水平線に沈む珍しい光景に出会える。灯台に併設された資料展示室には潮岬灯台の歴史、機能、役割などの資料や2代目の灯台レンズなどが展示されている。

 灯台の足元には航海の安全を祈るかのように潮御崎神社が鎮座して航海の守護神を祀っている。神社入口には高浜虚子が満開の桜の梢越しに白亜の灯台を見上げて詠んだ「燈台を 花の梢に 見上げたり」の句碑がある。

高浜虚子の句碑

(写真は 高浜虚子の句碑)


伊勢志摩・二見浦 放送 8月19日(火)

 二見の地名は、古く倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座される地を探し求めてこの地へ来た折、伊勢の海の眺めの美しさに二度も振り返って見たと言う神話に由来しており、今も名勝の地として全国的に名高い。

 二見浦は昔から禊(みそぎ)の場とされており、伊勢神宮に参拝する前にこの浜で、大勢の人たちが心身を清める禊の水浴びをした。こうしたいきさつから明治25年(1992)日本で初めての海水浴場としてオープンした。

伊勢名所二見浦之国

(写真は 伊勢名所二見浦之国)

夫婦岩


 二見浦で日本人なら知らぬ者はいないと言うのが、大小二つの岩を大しめ縄で結んだ夫婦岩。大きな男岩が高さ9m、女岩は4mでその間は9mある。

 縁結びのシンボルとして知られるが、沖合い700mに沈む興玉神石(おきたましんせき)の鳥居の役目を果たしている。夏至の日には夫婦岩と興玉神石を結ぶ線上から太陽が昇り、この夏至の日前後の夫婦岩の日の出が一番美しい。この日に空気が澄んでいれば、はるかかなたの富士山からの日の出が見られることもあるが、こんな日の出に巡りあった人はまれで、その感動は一生忘れないと言う。

(写真は 夫婦岩)


 JR二見駅からの夫婦岩表参道は、旅館や土産物店が軒を連ねるメインストリート。この通りの夫婦岩に近い所に、伊勢神宮に参拝する皇族や賓客の宿泊、休憩施設として明治20年(1887)に建てられた賓日館(ひんじつかん)がある。建設当時の面影をそのまま伝える賓日館は、明治天皇の母の英照皇太后が泊まられたり、幼少のころの大正天皇が避暑と療養、臨海学校の水泳訓練のために20日間ほど宿泊されたこともある。

 二重格天井や螺鈿の輪島塗で装飾された床の間がある御殿の間など、一流の建築家によるデザイン、選び抜かれた材料と職人の技による日本建築の粋を集めた建物は、庭園とともに貴重な文化財でもある。

賓日館

(写真は 賓日館)


志摩・安乗埼灯台 放送 8月20日(水)
 志摩半島のほぼ中央にある天然の良港の的矢湾の入り口にある安乗崎(あのりざき)の周辺は、暗礁が多く昔から海の難所として知られていた。江戸時代に薩摩藩の船が乗り上げて沈没して「薩摩倒し」と名づけられた暗礁や、日本で初めて建造された駆逐艦「春雨」が難破して多数の死傷者を出した所もある。

 江戸時代初めの延宝9年(1681)徳川幕府はこの岬の突端に沖行く船の道しるべとして、高さ3mの燈明堂を建てたのが安乗埼灯台の始まりとされる。初めは油紙でかこった灯籠で菜種油を燃やし、風雨の強い時には薪を燃やしていたと言われている。 
安乗埼灯台

(写真は 安乗埼灯台)

旧灯台のミニチュア


 明治6年(1873)イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントンによって回転式フレネルレンズを使った洋式灯台が建てられた。八角形のこの木造灯台は全国で20番目の灯台で、光源は石油ランプを使用した。その後、灯台のある岬が海食などで地盤が崩れ2度にわたって後退させられ、明治23年(1890)に現在の鉄筋コンクリート造りの高さ13m、四角柱形に建て替えられた。

 現在は無人自動化で運用されており、光の強さは38万カンデラ、31km沖合いまで光が届く。初代の木造灯台は復元され東京・品川区の「船の科学館」に展示されており、3分の1の模型木造灯台が安乗埼灯台資料展示館に展示されている。

(写真は 旧灯台のミニチュア)


 無人自動化される前の安乗埼灯台の灯台守夫婦を主人公にした映画「喜びも悲しみも幾歳月」が昭和32年(1957)に制作され、その舞台となって全国にその名が知られた。

 わが国では「のろし」が灯台の始まりで、洋式灯台は幕末の慶応2年(1866)にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国と結んだ「改税約書=別名・江戸協約」によって、全国8ヵ所に灯台の設置が定められた。初めはフランス人のフランソワ・レオンス・ヴェルニーの指導で4ヵ所で建設され、その後はブラントンの指導で建設され、関西では潮岬燈台がブラントンによって建設された。

灯台内部

(写真は 灯台内部)


舞鶴・天然の良港 放送 8月21日(木)
 日本海から深く人の字形にはいりこんだ波静かな舞鶴湾。この湾内で西港と東港に分かれている舞鶴港は天然の良港として古くから栄えた。

 西港は江戸時代から田辺城下の田辺湊として栄え、藩内各地の物産が集まった。東港は西港ほどのにぎわいはなかったが、明治22年(1889)に舞鶴鎮守府が置かれて以後、周辺一帯に海軍の施設が建設され、帝国海軍の隆盛に伴って軍港都市として大いに発展した。第二次大戦終結後は引揚港として、シベリアなどからの抑留者が祖国への第一歩をふみしめた港として、悲喜こもごものドラマの舞台となった。 

舞鶴湾

(写真は 舞鶴湾)

海上自衛隊


 旧海軍の広大な施設が戦後、民間工業に転用された舞鶴は港湾工業都市として活況を呈し、対岸諸国のロシア、韓国、中国との定期航路がによる貿易港となった。また北海道・小樽を結ぶ高速フェリーが就航するなど環日本海地域の重要港湾となっている。

 海上保安庁舞鶴保安部や海上自衛隊舞鶴総監部があり、海の守りにつく船舶の母港でもある。活力ある舞鶴港は湾内巡りの遊覧船でくまなく見学することもでき、西港と東港の中間に位置する海抜325mの五老ヶ岳の頂上にある五老スカイタワーの展望室からは、舞鶴湾の360度のパノラマ風景が楽しめる。

(写真は 海上自衛隊)


 東港の入口にある舞鶴親海公園は、潮の香り、海の色、波の音、海の幸、海水を肌で感じながら家族連れで楽しめる広場。漁村活性化センター内のレストランでは、新鮮な海の幸を食材にした料理が海原を眺めながら味わえ、120mの岸壁では釣りが楽しめる。

 公園の岸壁に停泊する「エル・マールまいづる」は関西電力の船舶型ミュージアム。プラネタリウムで星空を観察したり、豪華客船の船長室や談話室をイメージした雰囲気の部屋で、航海用具や船にまつわる資料が見学でき、展望デッキからは舞鶴湾のパノラマ風景を楽しむことができる。

エル・マールまいづる

(写真は エル・マールまいづる)


 
伊根・海にいきる 放送 8月22日(金)
 丹後半島の北東岸を占める伊根町の南端は波静かな伊根湾。この伊根湾は日本海側では珍しく南向きで、冬の北西の季節風も後の山が防ぎ、湾の出入り口の青島が天然の防波堤となり、波静かで潮の干満差が少ない天然の良港で、古くから漁業が盛んで漁師町として栄えた。

 江戸時代から「伊根はよいとこ 後は山で 前は鰤(ぶり)とる 鯨(くじら)とる」と唄われ、ブリ漁とクジラ漁が盛んだった。江戸時代には伊根で獲れるブリを「伊根ブリ」と呼び、日本山海名産図絵にも「伊根のブリは上品」と記され、その味に太鼓判を押している。

定置網漁

(写真は 定置網漁)

伊根湾捕鯨実況(京都府立丹後郷土資料館 蔵)


 江戸時代は湾内で刺し網漁法でブリを捕っていたが、明治時代にはいると湾外へも出てブリの群れを一網打尽にする定置網漁法に変わった。さらに定置網を大型化した大敷網漁法が取り入れられ、昭和20年代までは富山県氷見市、長崎県の五島列島と共に日本三大ブリ漁場とされていた。

 ブリは脂ののった寒ブリが最高とされ、秋から冬にかけてが定置網漁の漁期ななので夏は見られない。夏はブリ漁以外の定置網漁をする船が、荒天以外の日には毎日出ており、夜明けごろに活気あふれる水揚げが行われる。この季節はアジ、サバ、イカなどが網からドッとはき出され甲板上で跳ね回る。

(写真は 伊根湾捕鯨実況
(京都府立丹後郷土資料館 蔵))


 定置網漁で水揚げした魚を積んだ船が帰港、魚市場で選別作業が行われ、威勢のよいセリが始まると市場が最も活気づく。漁を終えた船が帰って行く先は伊根名物の「舟屋」である。

 伊根湾では室町時代からクジラ漁が行われていたと伝えられている。クジラ漁が盛んになったのは江戸時代末期からで、イワシの群れを追いかけて湾内に迷い込んだクジラを、銛(もり)を打ち込んで捕らえる漁法だった。鯨永代帳よると明暦2年(1656)から大正2年(1913)257年間に、ザトウクジラ171頭、ナガスクジラ144頭、セミクジラ40頭、計355頭を捕ったと記録されている。

チゲ弁

(写真は チゲ弁当)


◇あ    し◇
潮岬灯台JR紀勢線串本駅からバスで潮岬灯台前下車徒歩2分。 

夫婦岩JR参宮線二見駅下車徒歩20分。 
近鉄鳥羽線宇治山田駅からバスで夫婦岩東口下車徒歩5分。

賓日館JR参宮線二見駅下車徒歩15分。

安乗埼灯台近鉄志摩線鵜方駅からバスで安乗中学校前下車徒歩20分。

舞鶴親海公園、エル・マールまいづる
JR舞鶴線東舞鶴駅から周遊バス「おおうらループ」(土、日、祝日のみ)で親海公園下車。

伊根の舟屋の里北近畿タンゴ鉄道宮津線宮津駅又は天橋立駅からバスで舟屋の里公園前下車。

◇問い合わせ先◇
串本町役場・観光課0735−62−0555 

串本町観光協会0735−62−3171 

潮岬灯台0735−62−0514 

二見浦観光協会0596−43−2331

賓日館0596−43−2003 

志摩市観光協会0599−46−0570 

舞鶴市観光協会0773−66−1024 

伊根町観光協会0772−32−0277

伊根町商工会0772−32−0302

伊根浦漁業株式会社0772−32−0018


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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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