月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・高野山 

 真言密教の聖地・高野山。高野山の門前町・高野町は寺院や行政機関、学校、商店が渾然一体となった宗教都市として発展してきた。大師信仰の巡礼姿の信者たちや避暑客に混じって、この夏も林間学校の子供たちの元気な姿とにぎやかな歓声にあふれていた。今は静けさが戻り、早くも秋の気配が感じられるようになった高野山を歩いた。


大日如来信仰  放送 8月25日(月)
 和歌山県北東部に位置する高野山は、弘法大師・空海によって平安時代初期の弘仁7年(816)に開かれた真言密教の聖地。四方を山に囲まれ、東西6km、南北3km、周囲15kmの標高1000mの盆地に、高野山二大聖地の壇上伽藍と奥の院や寺院が散在している。

 延暦23年(804)30歳で中国・唐へ留学した空海は、長安で密教の奥義を極め、師の恵果阿闍梨から「伝えるべき法はすべて伝えた。日本へ帰り国家の安泰、国民の幸福のために仏法を流布せよ」と言われ、大同元年(806)帰国した。

弘法大師坐像(高野山霊宝館蔵)

(写真は 弘法大師坐像(高野山霊宝館蔵))

根本大塔


 空海は嵯峨天皇から下賜された高野山で伽藍の建立を始めた。真言密教の根本道場として大塔、金堂などの諸堂を建立、高野山全体を金剛峯寺と名づけて真言密教の立教と開宗を宣言した。

 承和2年(835)大日如来の定印を結び、生身のまま62歳で入定した空海は、後に後醍醐天皇から弘法大師号を送られた。即身成仏した弘法大師は今も生き続けていると考えられており、生前と同じように奥の院の大師御廟には、僧侶たちによって一日も欠かさず食事が供えられている。御詠歌に「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしまする」とあり、御廟内で生き続けて永遠に人びとを救済してくださると信仰されている。

(写真は 根本大塔)


 空海が高野山で最初に伽藍を建立した地を壇上伽藍と呼び、高野山の中心であり真言密教の聖地である。壇上伽藍の中心・大塔は真言密教の根本道場であるため根本大塔と呼ばれている。多宝塔としては日本で最初のもので高さ48.5m。内陣には仏の理の世界を表す胎蔵界の大日如来像が中心に祀られ、四方には仏の智の世界を表す金剛界の四仏が安置されている。現在の大塔は昭和12年(1937)に再建された鉄筋コンクリート造。

 壇上伽藍には全山の総本堂である金堂ほかに弘法大師の御影を祀る御影堂、西塔、東塔、三昧堂など多くの堂宇が集中、真言宗の本尊・大日如来信仰の聖地であり根本道場でもある。

胎蔵界大日如来坐像

(写真は 胎蔵界大日如来坐像)


雲上の宗教都市  放送 8月26日(火)
 南海電鉄高野線極楽橋駅から高野山ケーブルに乗り継いで登ると高野山駅に到着する。高野山駅前から高野山内を巡る南海りんかんバスが発着しており、路線バス専用道路を通り女人堂を経て高野山の中心部に入る。また徒歩で2kmほど進み高野山の総門である大門に出る別ルートもある。

 高野山上は壇上伽藍の堂塔、高野山真言宗総本山の金剛峯寺、奥の院の弘法大師廟、灯籠堂などのほかに117寺院があり、すべてを合わせると123の堂塔が立ち並んでいる。同時に町役場、病院、小中学校、高校、大学、商店がそろい、これらが寺院と渾然一体となって高野町と言う宗教都市を形成している。

高野山ケーブル

(写真は 高野山ケーブル)

数珠屋四郎兵衛


 高野山内を巡るバスが走る国道沿いの高野山中心部にある珠数屋四郎兵衛は、江戸時代初期の元禄年間(1688〜1704)創業の老舗。江戸時代後期の文化8年(1811)刊行の紀伊国名所図会に、この店のにぎわいぶりが描かれており、現在は数珠、仏具のほかに土産物も売っている。このほか山内のメイン道路沿いにはこうした仏具関係の店や土産物店、飲食店が軒を並べている。

 山内の117寺院のうち52寺院が参拝者らを宿泊させる宿坊を兼ねており、肉、魚抜きの精進料理が楽しめる。宿坊の中には早朝の勤行や写経、阿字観(あじかん)、護摩供養などの修行体験ができるところもある。

(写真は 数珠屋四郎兵衛)


 高野山内の中心部に高野山真言宗総本山・金剛峯寺がある。金剛峯寺は空海が真言密教の根本道場を開創した当時は高野山全域の総称だった。現在の金剛峯寺は豊臣秀吉が亡き母の菩提を供養するために、文禄2年(1593)に建立した青巌寺を明治2年(1869)に金剛峯寺に改めた。

 現在の金剛峯寺は江戸時代末期の文久2年(1862)再建されたもので、全国4000の高野山真言宗の寺院を統括する総本山で、宗務一切を司る宗務庁があり、高野山真言宗管長兼金剛峯寺座主(住職)の宿坊にもなっている。境内には主殿のほか大日経をもとにした座禅瞑想法の阿字観の修行をする阿字観道場などの諸堂が立ち並んでいる。

金剛峰寺

(写真は 金剛峰寺)


女人高野  放送 8月27日(水)
 高野山の北、九度山町の慈尊院は、空海が高野山を開山した折に創建、高野山参詣の表玄関となり、高野山の寺務を司る高野山政所(まんどころ)が置かれた。厳寒の高野山を避け冬期の修行の場になるとともに、京の都から高野山に参詣した天皇、皇族、貴族らの宿所にもなった。

 高野山を開き修行するわが子・空海にひと目会いたいと、四国・讃岐国善通寺から空海の母が高齢をおして承和元年(834)訪ねてきた。だが女人禁制の高野山に登れなかったため、空海は慈尊院に母を住まわせたが翌年没した。

慈尊院

(写真は 慈尊院)

町石道


 空海は慈尊院の本尊・弥勒仏座像(国宝)を篤く信仰していた母のために弥勒堂(国・重文)を建て、弥勒仏座像と御母公像を安置した。本尊弥勒菩薩に化身したという空海の母が眠る寺であり、女性の高野山参りは慈尊院までとの戒律から慈尊院が女人高野と呼ばれた。子授け、安産、育児、授乳などの祈願寺として信仰を集め、多くの女性信者が参詣した。

 女人高野と呼ばれた慈尊院から高野山根本大塔までの表参道に180基、根本大塔から奥の院までの参道に36基、ほかに36町ごとの1里石が4基の町石が立っており、その総延長は24km。

(写真は 町石道)


 1町(109m)ごとに立っている町石は、高さ約3m、幅30cmの五輪塔卒塔婆型で、天皇、上皇、庶民らが1町ごとに町石に合掌しながら参詣した。初めは木製だったが、鎌倉時代から御影石の石造に建て替えられた。この建て替えには多額の費用を要したが、後嵯峨天皇や貴族、鎌倉幕府の執権、有力御家人らが町石を寄進し、石造への建て替えに助力した。

 女人禁制の昔、女性たちは高野山への七つの参詣道を登り、山内の入口にある女人堂に籠もり、高野山を参拝して山上に思いを馳せたが、明治5年(1872)に女人禁制が解かれ、今は仏様の間近で参詣することができる。

女人堂

(写真は 女人堂)


文化財の宝庫  放送 8月28日(木)
 1200年のわたる歴史の中で、栄枯盛衰を繰り返してきた高野山。自然災害や火災、明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)などに遭遇し、優れた文化遺産が焼失、散逸した。だが今なお、高野山内117寺院には膨大な文化財が保存されており、文化財の宝庫、宗教芸術の殿堂と言われている。

 そのひとつ金剛三昧院は、鎌倉幕府の源頼朝の妻で尼将軍とも言われて北条政子が、建暦元年(1211)に夫・頼朝の菩提を弔うために建立、さらに貞応2年(1223)頼朝と実朝の菩提を弔うために建立した多宝塔(国宝)は、今も優美なたたずまいを見せている。金剛三昧院本堂には頼朝の念持仏で仏師・運慶作の愛染明王像が祀られている。


金剛三昧院多宝塔

(写真は 金剛三昧院多宝塔)

高野山霊宝館


 高野山霊宝館は山内の貴重な文化財や宗教芸術品を保護し、これらを一般公開するために大正10年(1921)に開館した。現在国宝21件、国指定重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件2万8000点のほか、未指定文化財5万点以上を収蔵している。

 その中で代表的なものを数点紹介しよう。八大童子立像(国宝)は本尊の不動明王を守護する脇侍で、8体のうち6体が運慶の作。仏涅槃図(ぶつねはんず・国宝)は現存する涅槃図の中で最古。諸仏仏龕(しょぶつぶつがん・国宝)は空海が中国から持ち帰ったと伝わる。両界曼荼羅(国・重文)は平清盛が頭の血を絵の具に混ぜて描いたと伝えられることから血曼荼羅とも呼ばれている。

(写真は 高野山霊宝館)


 明治31年(1898)にオープンした高野山大学図書館は、密教、仏教、歴史の専門書など30万冊を所蔵している。現在の建物(国指定登録有形文化財)は関西近代建築の父と言われた武田五一氏が設計し、昭和5年(1930)高野山で最初の西洋建築物としてに完成したもので、明るく開放的でアカデミックな雰囲気を醸し出している。

 高野山大学図書館のコレクションのひとつ「高野惣山之絵図」は、現存する江戸時代の高野山絵図の中で最古のもので、高野山寺域全体を上から見た絵で、特に高野山への七つの参詣道の入口ごとに参詣道の特徴が書き込まれており、当時の高野山参りの様子がうかがえる。紀伊国名所図会をひも解くと紀伊国の様子がよくわかる。

高野山大学図書館

(写真は 高野山大学図書館)


魂の安息所・奥の院  放送 8月29日(金)
 「ありがたや 高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしまする」と御詠歌にあるように、今も生き続ける弘法大師のもとで、成仏を願った人たちすべての魂が敵味方、宗派や身分を超えて眠っている。その中で無縁仏となった墓石や供養塔が、杉の老木の根元で肩を寄せ合うように立ち並んでいる姿には世の無常を感じる。

 弘法大師信仰の聖地である大師御廟や御廟手前にある灯籠堂付近は、静寂で厳かな雰囲気に包まれている。灯籠堂には千年近く燃え続けている二つの「消えずの火」があり、そのひとつに貧しい女性が父母の菩提を弔うため、自分の髪の毛を切って売った金を献じた「貧女の一灯」がある。
織田信長供養

(写真は 織田信長供養塔)

明智光秀供養塔


 奥の院は即身成仏し、今なお生き続けて衆生を救済している弘法大師・空海の御廟があり、壇上伽藍とともに高野山の二大聖地とされている。

 奥の院入り口の「一の橋」から弘法大師御廟までの約2kmの石畳の参道は、杉木立の中に苔むした墓石が立ち並び、厳粛な雰囲気に包まれている。墓原と呼ばれるこの浄域には大小合わせて約20万基を超える墓石、供養塔が立ち並んでいる。高野山は日本第一の死者供養の霊場で、宗派を超えた日本の総菩提所であり、常に死と向き合っていた戦国時代の武将たちが、高野山を菩提所とする傾向が強かった。

(写真は 明智光秀供養塔)


 戦国時代の武将の墓所として織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、石田三成、柴田勝家・勝頼、武田信玄、上杉謙信と数え上げれば切りがない。宗教弾圧を強め比叡山を焼き討ちし、さらに高野山も滅ぼそうとして仏敵とも呼ばれた織田信長も高野山は受け入れた。古くは源平合戦時代の平敦盛、熊谷直実らの墓所もあり、江戸時代の大名はこぞって高野山に墓所を求めた。

 高野山復興に助力した豊臣秀吉とその一族の墓所は、参道より一段と高いところに築かれており、奥の院の墓原でもその権力を見せつけているようだ。


石田三成供養塔

(写真は 石田三成塔供養)


◇あ    し◇

高野山内各寺院、奥の院 南海電鉄高野線極楽橋駅で高野山ケーブルに乗り換え高野山駅下車、高野 山内を巡回する南海りんかんバスでそれぞれの目的地で下車。
山内一日フリー乗車券(800円)が便利でお得。

壇上伽藍南海りんかんバス大塔口又は金堂前下車すぐ。 

大門南海りんかんバス大門下車すぐ。 

金剛峯寺南海りんかんバス金剛峯寺前下車すぐ。 

珠数屋四郎兵衛南海りんかんバス千手院橋下車すぐ。 

慈尊院南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩30分。 

女人堂南海りんかんバス女人堂下車すぐ。 

金剛三昧院南海りんかんバス千手院橋下車徒歩5分。 

高野山霊宝館南海りんかんバス霊宝館下車すぐ。 

高野山大学図書館南海りんかんバス金剛峯寺前下車すぐ。 

奥の院南海りんかんバス奥の院口又は奥の院前下車
徒歩20分〜30分。 


◇問い合わせ先◇

高野町世界遺産情報センター0736-56-2468 

高野山真言宗総本山・金剛峯寺0736-56-2011 

南海電鉄南海テレホンセンター06-6643-1055 

慈尊院0736-54-2214 

金剛三昧院0736-56-3838 

高野山霊宝館0736-56-2029 

高野山大学図書館0736-56-3835 


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