月〜金曜日 18時54分〜19時00分


朝来市 

朝来市は兵庫県の中部よりやや北に位置し、平成17年(2005)4月に和田山町、朝来町、生野町、山東町が合併して誕生した新市。市内には但馬王の墓と見られる古墳や竹田城跡、古社寺などの文化遺産も多く、古くから開けた所だった。佐渡金山、石見銀山と並ぶ生野銀山は閉山後、坑道を一般公開するなど観光資源として活用している。


竹田城跡  放送 9月15日(月)
 全国屈指の山城・竹田城跡は、兵庫県を南北に走るJR播但線竹田駅の西側の標高353.7mの古城山の山頂に今も天守台がそびてえる。虎が臥せている姿に見えることから虎臥城(とらふすじょう)とも呼ばれる竹田城跡が、秋の雲海の中に浮かびあがる景観は、アマチュアカメラマンの格好の被写体になっている。

 竹田城は但馬国の守護職・山名持豊(宗全)が、中国の大内氏、播磨の赤松氏、丹波の細川氏らの諸勢力に備え、家臣の太田垣光景に命じて嘉吉3年(1431)から13年の歳月をかけて築いた山城で、初代城主は城を築いた太田垣光景。この当時の竹田城は石垣はなく土塁に囲まれた砦に近い規模の小さな城だった。
大手門

(写真は 大手門)

天守台


 天下統一を目指していた織田信長が、天正5年(1577)羽柴秀吉に命じた播州攻めの後の但馬攻めで竹田城は落城した。豊臣時代に入った天正13年(1585)播州・龍野から移ってきた赤松広秀が、秀吉の援助を受けて竹田城の改築に取りかかった。

 広秀は自然の地形を巧みに生かし、天守台を中央に東方に本丸、二の丸、三の丸、大手門、北千畳、南方に南二の丸、南千畳、西方に花屋敷を南北400m、東西100mにわたって築いた。その姿は鳥が両翼を広げたように見え、山城としては全国一の規模で国の史跡に指定されている。

(写真は 天守台)


 竹田城跡の見どころは何と言っても築城当時のままの姿で残っている石垣。特に高さ約10mの天守台の石垣の形が素晴らしい。これらの石垣は自然石をそのままの形で積み重ねる穴太(あのう)積みと呼ばれる工法で、近江・坂本の穴太衆の工法で、織田信長の安土城の石垣と同じである。

 赤松広秀は秀吉の小田原攻め、朝鮮出兵にも参戦、、関ヶ原の戦では西軍に属して敗者となった。その直後に徳川方の鳥取城攻めに加わり戦功をあげたが「鳥取城下に火を放ち市中を焼いた」と徳川家康の怒りに触れ、濡れ衣を着せられたまま自刃させられたが、領民からは「仁政の君主」として慕われ、その死が惜しまれた。

枡形虎口枡

(写真は 枡形虎口枡)


竹田城下町  放送 9月16日(火)
全国屈指の山城・竹田城跡がある古城山の麓、JR竹田駅西側の「寺町通り」と呼ばれる約600mの通りは、風情ある散策路として楽しめる。

 白壁の塀が美しい4寺が立ち並び、石畳の寺町通りに沿って流れる竹田川には放流されたコイの泳ぐ姿が見られ、川沿いには花ショウブが植えられ、花のシーズンには観光客の目を楽しませている。4つの寺に入る竹田川に架かる石橋は、江戸時代に建造されたもので、寺町通りの風情にピッタリとマッチしている。最古のものは宝永4年(1707)の文字が刻まれている。

法樹寺

(写真は 法樹寺)

相撲桟敷(表米神社)


 寺町通りにある法樹寺は竹田城最後の城主・赤松広秀の菩提寺で、境内の裏手には供養塔が建てられている。広秀は関ヶ原の戦で敗者になった後、徳川方の鳥取城攻めに加わって戦功をあげたが、その際に「鳥取城下に火を放ち市中を焼いた」との濡れ衣を着せられ、徳川家康に自刃させられた。

 文武両道に優れた広秀は、領内に養蚕業を広めるなど領民からは「仁政の名君」と慕われていた。広秀が自刃した直後には、その死を悼んだ領民が旧八鹿町に塚を作り、毎年法要を営んでいたとの伝えがある。

(写真は 相撲桟敷(表米神社))


 寺町通りから少し西に入った所の表米(ひょうまい)神社は、格技を好んだと言う表米宿弥命が祀られている。参道横に土俵を囲むようにした半円形の石積段型桟敷があり、このような相撲桟敷は全国的にも珍しいと言われている。桟敷正面には舞台があって歌舞伎なども上演されたのではないかと推測されている。

 寺町通りとは反対の竹田駅東側には、明治時代の旧医院の建物を改修した「あったかプラザ」がある。市内に6カ所ある障害者授産施設などで作られた製品を展示、販売しており、店内の軽食堂は散策の休憩や地元の人たちの憩いの場となっている。

あったかプラザ

(写真は あったかプラザ)


茶すり山古墳  放送 9月17日(水)
 朝来市和田山町の茶すり山古墳は、北近畿豊岡自動車道建設に伴って平成13、14年(2001-2)の発掘調査でその全容が明らかになり、神獣鏡や武具、刀剣類など多くの遺物が出土した。

 この古墳は自然の山を利用した直径約90m、高さ約18mの大円墳で、5世紀前半の築造とされ、近畿地方で最大の円墳である。円墳の墳丘頂上は東西36m、南北約30mの楕円形の平坦地となっており、その周囲には円筒埴輪や朝顔形埴輪が巡らされていた。古墳斜面は葺石で覆われていたが、その多くは流出している。
茸石

(写真は 茸石)

朝来市埋蔵文化財センター 古代あさご館


 頂上部中央の内部には東西に平行して大小2つの埋葬施設がある。第1の埋葬施設は長い板を組み合わせた木の棺で、長さ8.7mの巨大なもので、内部が3つに仕切られている。中央部が被葬者を安置した所で、玉砂利を敷いて丁寧に造られ、頭部付近に銅鏡や装身具、刀剣類が副葬されていた。

 中央部の東側部分には甲冑(かっちゅう)などの武具、武器、農耕具類が納められ、西側部分には刀剣や槍、鉾、鉄の鏃(やじり)などの武器類が規則正しく置かれ、その上を3枚の革盾で覆われていた。

(写真は 朝来市埋蔵文化財センター 
古代あさご館)


 第2埋葬施設はやや小さく長さ4.8mで、同じく3区画に分けられ、鏡、玉類、櫛、針などのほかに多くの武器類が出土した。両埋葬施設から合計2590余点にのぼる副葬品が出土しており、出土品の神獣鏡やその数の多さ、近畿で最大規模の円墳であることから、大和政権との関係を強めながら力を伸ばし、強大な武力を背景に但馬地域を治めた但馬王の墓と推定されている。

 茶すり山古墳のほか朝来市内の古墳からの出土品が、北近畿豊岡自動車道山東パーキングエリアそばの道の駅「但馬のまほろば」内の朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」に展示されている。

神獣鏡

(写真は 神獣鏡)


生野銀山  放送 9月18日(木)
 日本の銀山を代表する朝来市生野町の生野銀山は、平安時代初期の大同2年(807)に発見されたと伝えられているが、これを裏付ける資料がなく定かでない。

 室町時代の天文11年(1542)に銀鉱脈が発見され、但馬国の守護職・山名祐豊が本格的な採掘をはじめ、銀山統治のために生野城を築いている。室町時代末の永禄10年(1567)に発見された日本最大の鉱脈が慶寿ひ(けいじゅひ)と呼ばれ、発見されてから400年間休むことなく採掘され、坑道は地下600mに達している。地表に露出した鉱脈を採掘した慶寿の掘切跡や慶寿ひ坑道が銀山閉山後の現在も残っている。

慶長ひ

(写真は 慶寿ひ)

旧生野市庁正門


 生野銀山は戦国時代に入って織田信長、豊臣秀吉が銀山を経営、江戸時代には徳川幕府の天領となり、本格的な銀山開発が進められ、佐渡金山、石見銀山と並んで幕府の財政を支える宝庫となった。

 明治時代に入るとフランス人の鉱山技師を招き、採掘や鉱石の運搬、精練など、フランスの技術を採り入れて銀山経営の近代化を図った。一時期、生野鉱山が皇室財産に移され、この名残として旧生野支庁正門に菊の紋がついている。明治29年(1896)に民間の三菱合資会社に払い下げられ、大正、昭和時代には日本有数の鉱山として金、銀、銅、鉛、亜鉛、錫などを産出したが、ついに鉱石が枯渇し昭和48年(1973)閉山した。

(写真は 旧生野市庁正門)


 閉山後の生野銀山跡は国の史跡に指定され、坑道の一部が観光資源をして活用され、一般に公開されている。坑内には江戸時代から現代までの採掘作業の様子が人形を使って再現されている。江戸時代の坑道は人がひとりやっと通れるほどのもので、岩肌にはノミの跡が今も生々しく残っており、つらかった採掘作業がしのばれる。

 生野銀山跡近くの鉱山資料館には、坑内から出土した江戸時代の雁木(がんぎ)、はしご、竹とい、精練に使ったふいごなどのほかに、坑内の模型、鉱石の標本、銀山の様子を描いた江戸時代の絵巻物などの資料が展示されている。わが国最大と言われる生野鉱物館には、日本各地から集めた鉱物標本5200点があり、その中から貴重な鉱物、美しい鉱物を選んで展示している。

金香瀬坑口

(写真は 金香瀬坑口)


銀山の町・生野  放送 9月19日(金)
 朝来市生野町と言えば「生野銀山」と言われたほど銀山とともに発展し、繁栄して来た町である。かつてレンガ造の工場やフランス人鉱山技師の住まいだった異人館が立ち並び、鉱山町独特の景観を漂わせていた。現在もこうした生野銀山の名残を残す建物や遺跡などが保存され、銀山の町・生野の観光資源となっている。

 町の中に今も残っているのがトロッコ道。大正9年(1920)に建設されたもので、鉱山本部と現JR生野駅を結んでいたもので、姫宮神社付近の市川右岸沿いにその一部の路床が残っている。最盛期にはアメリカ製の電気機関車が、鉱石を積んだトロッコを引っぱっていた。トロッコ道下の市川には石積みのアーチ型の護岸が残っている。


カラミ石

(写真は カラミ石)

旧生野警察署


 生野町内のあちこちでカラミ石を使った石垣、塀、土台などを目にする。カラミは鉱石を精錬する過程で、銀や銅を抽出した後の不要な岩石である鉱滓(こうさい)で、これを角形の立方体に成形したもので、石垣、塀、土台などに使われるようになり、鉱山の町独特の風景を作り出した。カラミには金属の残留物が多く含まれているので、1個野重さは約100kgもある。

 カラミは鉱山独特の産業廃棄物で、江戸時代は土塀の裏込め材料に使ったり、川へ廃棄したりしていた。明治時代に入って本格的な銀山開発が進み、急増するカラミの処分に困り、現代のリサイクルを先取りしたような再利用法としてカラミ石を考え出した。

(写真は 旧生野警察署)


 生野町の中心部の口銀谷地区には鉱山が最盛期だったころの町家や鉱山住宅、役所などの建物が残っており、往時の風情を今に伝えている。そのひとつ、旧生野警察署は明治19年(1886)に地元の大工が建てた木造平屋建の擬洋風建築。屋根や柱、窓などすべてが左右対称になっており、当時の警察署の紋章や旧町章が残っている。

 生野まちづくり工房・井筒屋は、江戸時代に生野銀山の山師であった吉川家が営んでいた郷宿を改修した施設で、天保3年(1832)建築の伝統的な和風建築。吉川家寄贈の鉱山関係の資料が展示され、銀山町の生活や文化がうかがえる。江戸時代は一般の旅人は生野での宿泊が禁止されており、公用で訪れた役人らは6軒あった郷宿に泊まった。

生野まちづくり工房井筒

(写真は 生野まちづくり工房井筒屋)


◇あ    し◇
竹田城跡JR播但線竹田駅下車、徒歩で竹田城への登山道が6コースあり、緩やかなコースで約2時間、急な最短コースで3O分。 
JR播但線竹田駅からタクシーで頂上したの駐車場まで10分。

法樹寺JR播但線竹田駅下車すぐ。 

表米神社JR播但線竹田駅下車徒歩10分。 

あったかプラザJR播但線竹田駅下車徒歩3分。 

茶すり山古墳JR山陰線、播但線和田山駅からタクシーで10分。バスの便はない。

朝来市埋蔵文化財センター古代あさご館
JR山陰線、播但線和田山駅からタクシーで15分。バスの便はない。

生野銀山、鉱山資料館、鉱物館
JR播但線生野駅からバスで奥銀谷下車徒歩10分。

旧生野警察署、生野まちづくり工房・井筒屋
JR播但線生野駅下車徒歩10分。


◇問い合わせ先◇
朝来市商工観光課079-672-4003 

朝来市社会教育課079-677-2116 

朝来市埋蔵文化財センター古代あさご館
079-670-7330

生野銀山・(株)シルバー生野
079-679-2010

生野町観光協会079-679-2222 

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