月〜金曜日 18時54分〜19時00分


特選 『懐かしいまち』

近畿各地にはあまり有名ではないものの、長い歴史を誇り独自の文化をはぐくんできた小さな町が数多く存在する。町の成り立ちは宿場町、城下町、港町、寺内町とそれぞれに異なるが、いずれも古きよき時代の面影を今に色濃く伝えている。
今週は、そんな郷愁を誘う町を尋ね歩いてみた。


滋賀・木之本町
〜北国街道 木之本宿〜
放送 9月29日(月)
 木之本はもともと眼病に霊験あらたかと言われる木之本地蔵院・浄信寺の門前町であり、後に若狭・越前からの北国街道と美濃からの北国脇街道が交わる宿場町として発展した。

 JR北陸線木ノ本駅近くの繁華街にある浄信寺は、奈良時代に祚蓮(さくれん)の開基、空海の中興と伝えられる。秘仏になっている本尊・地蔵菩薩立像(国・重文)は、鎌倉時代中期の仁治3年(1242)の銘がある彩色像で、両脇には閻魔王(えんまおう)、倶生神(くしょうしん)が配されている。賤ヶ岳の合戦の時に本堂などを焼失、豊臣秀吉が再興したが再び江戸時代中期の大火で焼失し、その後に再建されたのが現在の堂宇。

北国街道

(写真は 北国街道)

飾り瓦


 昔、木之本の地藏さんの前で、ひとりの旅人が目を痛めうずくまっていた。地藏さんは目を何とか治してやりたいと思ったが、自分では動くことができないので、自分の足元にいたカエルに「お前の目を譲ってやって欲しい」と頼んだ。カエルから片目をもらった旅人は目が見えるようになった。今も木之本地蔵院の庭には片目のカエルがいると伝えられている。

 こうした言い伝えから眼病に霊験がある寺とされ、参詣者が絶えない。境内には明治27年(1894)に造
立された、高さ5.5mの銅製地蔵立像が参詣者を迎えてくれる。

(写真は 飾り瓦)


 北国街道と北国脇街道の宿場町として栄えた木之本は、江戸時代には本陣と脇本陣が置かれ、行き交う旅人と浄信寺の地藏さんへの参拝客でにぎわった。今も木之本町の旧街道筋には、往時の面影をそこかしこに見ることができる。

 旧本陣だった建物の軒先には古い薬の看板が何枚もさがり、今は薬屋さんになっている。当主は日本で第1号の薬剤師だったと言う。街道筋の町家には、防火と装飾を兼ねた卯建(うだつ)や七福神などを形取った飾り瓦、紅殻格子、犬矢来などが今も残っており、宿場町らしい情趣を伝えている。また町内には奥琵琶湖ならではの食材を使った会席料理が味わえる店もある。

湖産地畑会席(想古亭源内)

(写真は 湖産地畑会席(想古亭源内))


兵庫・たつの市
〜播磨の小京都〜
放送 9月30日(火)
 龍野市は揖保川の清流が南北に流れ、室町時代に山城が築かれた鶏蘢(けいろう)山など、いくつもの小山の緑に囲まれた静かなところ。龍野小唄に「山は鶏蘢 流れは揖保よ」と歌われ、近世は脇坂氏5万3千石の城下町として栄えた。

 市の中心を流れる揖保川は、昔は交通の大動脈としての役割を果たすと同時に、流域の田畑の潅漑用水として大地を潤した。また、この水が伝統産業の醤油、手延べ素麺「揖保の糸」、皮革産業を育てた。

寛政十年龍野惣絵図

(写真は 寛政十年龍野惣絵図)

武家屋敷跡

 龍野は「播磨の小京都」と呼ばれ、今も武家屋敷や石垣、白壁の土蔵、商家などの町並みが残っており、当時の風情を漂わせる場所が多い。茅ぶきの士族屋敷もあり、質素倹約を旨としていた龍野藩の方針が、家臣の屋敷にも表れている。

 現在は教会となっている脇坂藩の公邸の土塀には「見通し窓」が今も見られ、武家屋敷周辺には城下町特有の曲がりくねった道が続いている。

(写真は 武家屋敷跡)


 武家屋敷資料館は龍野藩の中流武家屋敷を再現したもので、城下町の当時のようすを具体的に知ってもらうため、屋敷自体を資料として公開している。武家屋敷の特徴を残す欄間や天井、式台、玄関、座敷廻りなどは、江戸時代末期の天保8年(1837)の建築当時のままとなっている。

 復原にあたっては阪神淡路大震災で歴史的建造物の多くが大きな被害を受けた教訓を生かし、耐震性を高めるための補強を行った。

士族屋敷

(写真は 士族屋敷)


福井・坂井市三国町
〜出村の通りで〜
放送 10月1日(水)
 人と物が出入りする港町の繁栄によって、三国の九頭竜川の河口付近には土蔵が建ち並び、細長くのびる町の目抜き通りには、今も当時の船問屋、油問屋などの商家が点在している。大勢の人が出入りすれば、おのずと歓楽街が形成されてにぎわうのは古今東西、いずこも同じである。

 出村(でむら)の遊廓「三国傾城」の名は全国的に知られ、江戸時代中ごろの寛成年間(1789〜1801)には、遊女100人を超えたと言う記録がある。その遊女の中には俳諧の世界で名高い哥川(かせん)のように相当な教養を身につけた女性もいた。
近藤古美術店

(写真は 近藤古美術店)

魚志楼


 出村の通りには江戸時代からの町家があちこちに残っている。そのひとつ、近藤古美術店は江戸時代の寛政年間(1789〜1801)に開業した商店。昭和初めに日本専売公社ができるまでは、煙草元売捌所(たばこもとうりさばきしょ)として、全国から集められた煙草を、福井県北部へ一手に卸し、ほかに北前船の船具なども取り扱っていた。店先には煙草元売捌所の看板や店内には当時の煙草の価格表が残っている。

 今は当主の趣味がこうじて古美術店に衣替えして、伊万里焼、九谷焼や古い箪笥(たんす)、古民芸品などを扱っている。蔵を改造した資料館には珍しい時代箪笥や船箪笥などが展示されている。見学は予約が必要。

(写真は 魚志楼)


 ひなびた感じの残る現在の出村の町で、格子窓がある大正時代の風情を見せている料理茶屋「魚志楼(うおしろう)」は、かつては芸者置屋だった。間口は狭いが奥行きは深く、他の客に気兼ねなく楽しめる蔵座敷の造りになっている。

 各室の凝った調度、装飾にうならされる。昔、芸者さんが着ていた着物も飾られ、何となく艶めかしさも残っており、かつてのにぎわいはさぞやと思わせる。今は日本海で捕れる新鮮な魚を素材にした季節の料理が自慢。特に冬の越前カニの季節は大勢の客でにぎわう。

和定食(魚志楼)

(写真は 和定食(魚志楼))


伊勢・河崎
〜舟運で栄えた町〜 
放送 10月2日(木)
 伊勢市の中心部を貫流して伊勢湾に注ぐ勢田川に沿って開けたのが河崎の町。戦国時代から勢田川を利用する水上輸送が発達して、伊勢志摩はもとより諸国の産物がここに集まり、勢田川の両岸約1kmにわたりそれらを商う商店や問屋がずらりと並び、本格的な町としての機能を整えてきた。

 こうして河崎は地元住民をはじめ全国からやって来る大勢の参宮客の需要を賄う大量の食料品や生活物資を供給する「伊勢のだいどこ(台所)」として、江戸時代から昭和時代の中ごろまで繁栄を続けた。特に江戸時代に起こった「おかげ参り」と言う爆発的なお伊勢参りが流行した時には、河崎に大量の物資が集まり大変なにぎわいをみせた。
川の駅河崎

(写真は 川の駅河崎)

河崎之絵図(元禄14年)


 勢田川は伊勢市の南部の鼓ヶ岳に源を発する全長わずか7kmの小河川だが、満潮時には伊勢湾から海水が逆流して満々と水をたたえ、天然の運河となる感潮河川。この満潮時を利用して荷物を満載した舟が川を容易に遡ることができ、それぞれの商店へ物資を運び込んだ。

 大きな商店や問屋は川に面した裏側に舟着き場を設けたり、物資を保管する白壁の土蔵を川べりに建てていた。また蔵から店まで重い荷物を運ぶトロッコ用のレールを敷いていた店もあった。河崎の商家の造りは伊勢神宮の平入造りに遠慮して妻入造りにしており、その瓦屋根がノコギリの刃のように連なる美しい町並みが河崎の特徴でもある。

(写真は 河崎之絵図(元禄14年))


 戦後、物資輸送の中心がトラックに代わってからは、伊勢市の中心街に位置していた河崎は大型トラックなどが進入が難しくなったほか、車を利用する顧客たちも出入りがしにくくなった。このため河崎の店を閉めてトラックなどが出入りしやすい交通の便のよい郊外へ移転する商店や問屋が増え、水運に頼っていた河崎はひっそりとした町になってしまった。

 だが、最近は昔ながらの商家が建ち並ぶ河崎の町が見直され、今は河崎の町を大切に思う人たちの手によって古い町家を活用した新しい店が開店し、少しずつ活気を取り戻している。こうした河崎の町に郷愁を覚える観光客も増え、にぎわいを見せるようになったきた。

勢田川船舶出航表

(写真は 勢田川船舶出航表)


大阪・平野郷
〜みんなの遊び場 全興寺〜
放送 10月3日(金)
 平野郷がまだ原野だったころ、聖徳太子が薬師堂を建立して薬師如来像を安置したのが全興寺(せんこうじ)の始まりで、その薬師堂を中心に人が住み始め町に発展したのが平野郷だと伝わっている。

 全興寺はやがてこの地を治めていた坂上家の帰依を受け、現在の本堂は坂上家によって天正4年(1576)再建された。大坂の陣の時、一部を焼失して再建されているが、大阪府下では古い木造建築のひとつにあげられている。杭全(くまた)神社の奥の院と仰がれ、7月14日の夏祭りには杭全神社から神輿の渡御がある。
小さな駄菓子屋さん博物館

(写真は 小さな駄菓子屋さん博物館)

地獄堂


 全興寺の境内の一角に「小さな駄菓子屋さん博物館」がある。昭和20〜30年代に町の駄菓子屋さんに並んでいたけん玉やメンコ、日光写真、着せ替え人形など小さなおもちゃがギッシリと狭い館内に所狭しと展示されている。住職の川口良仁さんが趣味で集めていたものを中心に展示、町の人たちが私物を持ち寄りその数は500点にもなった。

 テレビゲームに慣れ親しんでいる現代っ子には新鮮なおもちゃに写り、目を輝かせて見入ったりさわっている。お父さんたちにとっては昔懐かしいおもちゃで、子供たちと一緒にワクワク気分のひとときを過ごしている。

(写真は 地獄堂)


 「小さな駄菓子屋さん博物館」の横のお堂は「地獄堂」と呼ばれる所で、恐ろしい形相の閻魔(えんま)様と鬼が待ちかまえている。ドラをたたくと閻魔様が浮かび上がり「悪いことをすると地獄に行くのだ〜」とお説教をする。この声に子供たちだけでなく、若いカップルの二人も神妙な表情で聞き入っていた。

 全興寺のすぐ隣の「おも路地」では、昔からの遊びや歌が大人から子供へと受け継がれている。ベーゴマ、おはじき、お手玉、まりつき、ゴム飛びなど、昭和時代初めから戦後にかけての遊びを子供たちが楽しんでいた。

おも路

(写真は おも路地)


◇あ    し◇

木之本地蔵院(浄信寺)JR北陸線木ノ本駅下車徒歩5分。

武家屋敷跡、武家屋敷資料館、龍野城、霞城館、うすくち龍野醤油資料館
JR姫新線本龍野駅下車徒歩20分。
JR姫新線本龍野駅からバス龍野下車徒歩10分。

近藤古美術店、料理茶屋・魚志楼えちぜん鉄道三国芦原線三国駅下車徒歩10分。

伊勢河崎商人館、和具屋(陶磁器) JR伊勢市駅、近鉄宇治山田駅下車徒歩15分。
JR伊勢市駅前からバスで河崎百五銀行前下車
徒歩5分。

全興寺・小さな駄菓子屋さん博物館 地下鉄谷町線平野駅下車徒歩12分。


◇問い合わせ先◇

木之本町役場産業課・木之本町観光協会
0749−82−4111

木之本地蔵院(浄信寺)0749−82−2106

想古亭源内(郷土料理)0749−82−4127

龍野市商工観光課・龍野観光協会0791−64−3156

本龍野駅前観光案内所0791−63−9955

武家屋敷資料館0791−63−9111

三国町観光協会0776−82−5515

近藤古美術店0776−82−0098 

料理茶屋・魚志楼0776−82−0141

伊勢市観光協会0596−28−3705

伊勢河崎商人館0596−22−4810

全興寺・小さな駄菓子屋さん博物館 06−6791−2680

この他にも多くの博物館、資料館が平野郷にある。
各博物館、資料館の開館日は原則として毎月第4日曜日だが、毎日開館している所もある。

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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