月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・西本願寺とその界隈 

  「お西さん」と呼び親しまれている浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺は、京都を訪れたほとんどの人たちが参詣する名刹であり、京都の観光名所でもある。親鸞聖人の念仏による救済が庶民の心を捉え、大教団に発展した西本願寺とその界隈の門前町を訪れた。


親鸞聖人の教え  放送 10月6日(月)
 京都の堀川通に面して建つ西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、文永9年(1272)親鸞の末娘・覚信尼が門弟たちと建てた宗祖・親鸞の廟堂に始まり、後に親鸞の曾孫の覚如が本願寺と言う寺に改めた。

 親鸞は公家・日野有範の子として生まれ9歳で得度、20年間比叡山で修行したが、悟りにいたる道を見い出せず、下山して「どんな悪人でもひたすら念仏することによって救われる」と、専修念仏の教えを説いていた浄土宗の開祖・法然の弟子となった。この念仏の教えに対して既成仏教寺院と朝廷の弾圧が強まり、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪となった。
親鸞聖人影像(安城御影副本)

(写真は 親鸞聖人影像(安城御影副本))

六字名号(親鸞聖人筆)


 親鸞は流罪が赦免になった後も関東で「念仏を唱えることによって誰でも救われる」との念仏の教えを広めた。63歳になった時、関東での20年におよぶ念仏布教を終えて京都に帰り、多くの著作を著し90歳でその生涯を閉じた。親鸞が84歳の時に書した六字名号「南無阿弥陀仏」が西本願寺に伝わっている。

 本願寺はその後、既成仏教集団の弾圧を受け、越前・吉崎、京都・山科、大坂・石山などを転々とし、織田信長と対立した石山戦争後に信長との和議が成立、天正19年(1591)豊臣秀吉から現在の寺地が寄進された。江戸時代の慶長8年(1603)宗内の対立から大谷派本願寺が生まれ、東西両本願寺の二派に分かれた。

(写真は 六字名号(親鸞聖人筆))


 西本願寺の境内に入って目を見張るのが、親鸞聖人座像を安置している正面の御影堂(ごえいどう=国・重文)。寛永13年(1636)に再建された現在の御影堂は、入母屋造本瓦葺きで東西48m、南北62m、高さ29mの巨大な建物。現在、平成23年(2011)の親鸞聖人750回大遠忌に向けて修復工事が行われている。

 その北側の阿弥陀堂(国・重文)は西本願寺の本堂で、宝暦10年(1760)に再建された入母屋造本瓦葺きで東西42m、南北45m、高さ25mで御影堂と並ぶ大きな建物。本尊の阿弥陀如来立像が安置され、492畳の広大な外陣には、阿弥陀如来の慈悲にあずかろうと常に参拝者が訪れている。

総御堂(阿弥陀堂)

(写真は 総御堂(阿弥陀堂))


桃山文化の残照  放送 10月7日(火)
 西本願寺は信者たちの信仰の場であるとともに、国宝や重要文化財に指定された貴重な建物や仏像、書画などの美術品を数多く所蔵しており、文化財の宝庫とも言える。

 西本願寺南側の北小路通には西本願寺の築地塀が長く続き、時代劇のロケ地にもなる雰囲気を醸し出している。その通りに面している唐門は、桃山時代の伏見城から移築した四脚門で国宝に指定されている。黒漆塗りに極彩色の透かし彫りが全体に施されており、その美しさに見とれて眺めていると、日が暮れるのを忘れてしまうと言うことから「日暮門(ひぐらしもん)」とも呼ばれている。

唐門

(写真は 唐門)

飛雲閣


 この唐門は入母屋造の前後に大唐破風を配し、正面の梁の間に麒麟(きりん)と雲文、扉には牡丹に唐獅子の透かし彫りが入っている。北側両袖壁には中国の古伝説上の隠士の故事が彫刻されている。精緻な飾り金物と極彩色な彫刻が黒漆塗りの柱や梁に映えて、伝統工芸の美しさを遺憾無く発揮している。

 境内南東隅にある飛雲閣(国宝)は豊臣秀吉の邸宅・聚楽第から移築されたと伝えられている。飛雲閣の周辺は滴翠園と呼ばれる日本庭園で、庭園内の滄浪池の周囲には手入れのゆき届いた木々が茂り、塀をひとつ隔てた外に国道1号線の堀川通があるとは思えない静けさである。

(写真は 飛雲閣)


 飛雲閣は金閣、銀閣とともに京都三名閣と称されるほどで、杮葺(こけらぶ)きの3層楼閣の調和の取れた名建築で、江戸時代には門主がここで公家や文化人をもてなしたと言う。

 正面からの外観は左右非対称で、あたかも滄浪池に浮かぶ巨大な船のようである。第1層は入母屋造と唐破風の屋根を左右に構えている。第2層は寄棟造に千鳥破風、唐破風を配し、歌仙の間があり扉や杉戸に三十六歌仙が描かれている、第3層は宝形造で摘星楼と呼ばれる展望室。1層内部には主室・招賢殿のほか八景の間、舟入の間があり、舟入の間へは客人が池に浮かべた舟で訪れたと言う。

一階王室・招賢殿

(写真は 一階主室・招賢殿)


書院・至宝の美  放送 10月8日(水)
 西本願寺は国宝5件、重要文化財6件などの豪壮華麗な建築群が見所である。境内に常設の能舞台が南北に二つある。北能舞台(国宝)は天正9年(1581)の銘がある懸魚があったことから、現存する最古の能舞台とされている。この能舞台は白書院を見所としたもので、正面が入母屋造の簡素な能舞台である。

 南能舞台(国・重文)は切妻造で江戸時代前期に整備されており、白書院の対面所が見所になっている。毎年5月21日の親鸞聖人降誕会に祝賀能が演じられており、この祝賀能は蓮如上人が衆生に仏教の教えを説く教化(きょうけ)の手だてとして催していたと言われている。

南能舞台

(写真は 南能舞台)

対面所(鴻の間)


 今回は特別公開時のみ拝観が可能な書院を紹介する。西本願寺の書院は豪壮華麗な書院造様式の代表的なもので、床、違棚などの座敷飾を完備し、金碧障壁画などで飾られており、対面所と白書院、黒書院に大別できる。

 対面所は門主との対面に使われ、書院の中でも一番大きい203畳の大広間。上段と下段に分かれ、その境の欄間には雲間を飛ぶコウノトリの透かし彫りがあることから「鴻(こう)の間」とも呼ばれている。壁面は金碧障壁画で飾られている。

(写真は 対面所(鴻の間))


 対面所とは別に菊の間、雁の間、一の間、二の間、三の間などと呼ばれる小さな部屋が数多くある。菊の間の天井には金地に扇面の散らし絵が描かれ、障壁画は金箔に白菊、桔梗、リンドウ、朝顔などが描かれている。雁の間の天井画は格天井を棚に見立てて満開のテッセンが金地に描かれ、障壁画は金碧の群雁図が描かれていることから雁の間と呼ばれた。

 対面所の前の虎渓(こけい)の庭は、桃山時代の様式を伝える特別名勝の枯山水庭園。虎渓とは中国の盧山にある渓谷のことで、御影堂(ごえいどう)の屋根を盧山に見立て、巨石で流れ落ちる滝を表現、砂で川の流れを表している。

雁の間

(写真は 雁の間)


お西さんの門前町  放送 10月9日(木)
 京都の人びとは西本願寺を「お西さん」と親しみを込めて呼んでいる。西本願寺の御影堂門前の総門から東に延び、真宗大谷派本山・東本願寺に至る正面通の門前町は、僧侶が身につける法衣(ほうえ)や仏壇、仏具、線香などを商う店が軒を連ねており、その数の多さや軒先にかかる看板のにぎやかさに初めて訪れた人は圧倒される。

 ここで商売をする人たちは西本願寺の前にあることに誇りを持ち「御前通」とも呼んでおり、この正面通には仏具屋町と珠数屋町と言う町名があり、商う商品そのものをずばりと町名にしている。

正面通

(写真は 正面通)

京念珠ぜにや


 珠数屋町に店を構えている念珠の店「ぜにや」は、明治7年(1874)薫玉堂から念珠・打敷部門を分離独立して創業した店である。

 浄土真宗では数珠のことを念珠と呼んでおり、店内には念珠が数多く並べられている。世界各国から集めた念珠の材料や京都の伝統工芸である染めを生かした念珠の房が用意されており、店頭で店員が念珠を作る作業を見せている。出来合いの念珠ではなく自分の好みの珠や木の実、房を選んで、オリジナルな念珠を作ってもらうことができる。

(写真は 京念珠ぜにや)


 堀川通沿いの香の老舗「薫玉堂」は、文禄3年(1594)現在地で薬種商として創業、その後、創業者・負野理右衛門が香道に強い関心を持ち、香材の研究に没頭して薫物商としての基礎を作りあげた。現在は西本願寺の焼香をはじめ、全国各宗派の本山や寺院へ香を納めている。

 香は6世紀半ばに中国から朝鮮半島の百済を経て日本に伝来した仏教と共に伝わった。平安時代には貴族たちが衣服に香を焚きしめて楽しみ、鎌倉時代には武家社会で精神統一に香を用いるようになった。薫玉堂では香に親しんでもらおうと「香道体験(有料)」の場も設けている。

香老舗薫玉堂

(写真は 香老舗薫玉堂)


龍谷大学  放送 10月10日(金)
 龍谷大学は寛永16年(1639)に西本願寺に設けられた僧侶の養成学校・学寮が始まり。西本願寺の南に隣接する大宮学舎の本館(国・重文)は、明治12年(1879)の建築で石柱が印象的な建物。

 この建物は一般的には「擬洋風建築」と言われている。外観は石柱のように見える柱は、実際は木造で石材を木部に貼りつけている「木造石貼り」と言う建築様式。明治時代初期に外国人が居住していた横浜などで建築された建築様式で、この様式の建物として現存しているのは龍谷大学大宮学舎の本館のみである。

龍谷大学大官学舎

(写真は 龍谷大学大宮学舎)

大官学舎本館


 龍谷大学は設立当時の学寮から学林、大教校、大学林、仏教大学、龍谷大学と名称を変えてきた。国の重要文化財に指定されている大宮学舎の本館、北黌(ほくがく)、南黌(なんがく)の両校舎、正門、旧守衛所、渡り廊下などは大教校の時代に建てられたもので、若干の改修は行われているが、ほぼ創建当時の姿で残っている貴重な建物群である。

 本館は平成4年(1992)から5年をかけて修復工事が行われ、創建当時の姿をよみがえらせた。外観のデザインはもとより、内部にも趣向を凝らした細工やデザインが取り入れられ、明治時代初期の洋風建築を知る上で貴重な建物である。

(写真は 大宮学舎本館)


 西本願寺第22代門主・大谷光瑞は、明治35年(1902)日本仏教の源流を訪ねる大谷探検隊を組織、玄奘三蔵らが歩いた中央アジアの探検を実施したことで知られている。

 この西域探検は大正3年(1914)の第3次探検まで実施され、敦煌・千仏洞遺跡などから発掘された膨大な経典、仏像美術、埋葬品などを得た。これらの出土品は大谷コレクションとして龍谷大学大宮図書館に保管され、シルクロードなどの西域研究に大きく貢献した。トルファンの古墳群から出土した死者の棺覆いに用いられた布は、中国古代神話に登場する二神が鮮やかな色彩で描かれている。

龍谷大学大官図書

(写真は 龍谷大学大宮図書館)


◇あ    し◇

西本願寺、念珠の店・ぜにや、薫玉堂
JR京都駅下車徒歩15分。
近鉄京都駅下車徒歩20分。
地下鉄烏丸線京都駅又は五条駅下車徒歩15分。
京都市バス西本願寺前下車すぐ。

龍谷大学JR京都駅下車徒歩15分。 
近鉄京都駅下車徒歩20分。
地下鉄烏丸線京都駅又は五条駅下車徒歩15分。
京都市バス七条大宮下車すぐ。

◇問い合わせ先◇

西本願寺浄土真宗本願寺派宗務所
075-371-5181
念珠の店・ぜにや075-341-5069 
薫玉堂075-371-0162 
龍谷大学075-645-7882 

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