月〜金曜日 18時54分〜19時00分


藤井寺市 

 大阪で最も早く開けたのが南河内の石川と大和川の合流地点の一帯だった。旧石器時代から縄文、弥生時代の遺跡や古墳時代に築造された大型古墳をはじめ中小の古墳が数多い。この一帯にある藤井寺市は「土師氏の里」と言われ、百済系の渡来人が大陸の技術や文化の華を咲かせて古代文化の発進地となり、由緒ある古社寺や古墳などの文化財が多い。


西国三十三所第5番札所・
葛井寺 
放送 10月13日(月)
 大阪府の東南部に位置する藤井寺市にある観音霊場の西国三十三所第5番札所・葛井寺(ふじいでら)は南河内の古刹。創建は神亀2年(725)聖武天皇の勅願によって行基が開いたと伝わるが、この地方を支配していた渡来人で百済王の子孫・葛井氏の氏寺として8世紀半ばに開創されたとするのが通説となっている。

 創建当時は金堂、講堂、東西両塔などを備えた薬師寺式の伽藍(がらん)を誇っていたことが、同寺に伝わる葛井寺参詣曼荼羅(ふじいでらさんけいまんだら)によってうかがえる。本尊は秘仏となっている1043本の手を持つ十一面千手千眼観世音菩薩座像(国宝)。
葛井寺参詣曼荼羅(室町時代)

(写真は 葛井寺参詣曼荼羅(室町時代))

本堂


 葛井寺は創建後、南北朝時代の戦乱による兵火や永正7年(1510)の大地震などで、堂塔が焼失したり倒壊して再建を繰り返してきた。慶長6年(1601)豊臣秀頼によって南大門が建立されたが、他の本堂、護摩堂、大門、鐘楼などの諸堂宇は江戸時代になってから再建された。

 現在の本堂は延享元年(1744)に着工、30余年の歳月をかけて安永5年(1776)に完成した密教寺院様式の建物。秀頼が再建した南大門は現在、西門へ移築されている四脚門(国・重文)で、切妻造本瓦葺きのダイナミックな桃山時代様式を伝える門である。

(写真は 本堂)


 西国三十三所の観音霊場を巡礼していた花山法皇が葛井寺に参拝して時に「まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも」と詠まれると、本尊の十一面千手観世音菩薩座像の眉間から紫煙が出て、その煙が聖武天皇寄贈の石燈籠にまでたなびいた。

 自分自身がお参りすることで仏に通じ、願いがかなえられると、花山法皇が詠んだ歌が葛井寺の御詠歌となった。紫雲がたなびいた燈籠は以来、紫雲石燈籠と呼ばれたが、灯籠の傷みがひどくなったため、裏庭に移して保存、本堂前には明治時代に製作されたレプリカの紫雲石燈籠を建立した。

紫雲石燈籠

(写真は 紫雲石燈籠)


葛井寺千手観音  放送 10月14日(火)
 西国三十三所第5番札所葛井寺の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩座像(国宝)は、観音霊場を巡礼する参詣者には千の慈手、千の慈眼で衆生を救ってくださる観音様として知られている。秘仏のため毎月18日の観音様の縁日と8月9日の千日参りの日に開扉され、拝観できるとあってこの日は大勢の参詣者で境内がにぎわう。

 この十一面千手千眼観世音菩薩座像は、創建当時から無傷のまま今日にその姿が伝えられている。頭上に十一面を戴き、胸の前で合掌している2本の大きな手、仏具を持った40本の中型の手、さらに光背のように像の回りに広がる1001本の小さな手があり、小さな手のすべての掌に一眼が刻まれている。
本尊十一面千手千眼観世音菩薩坐像

(写真は 本尊十一面千手千眼
観世音菩薩坐像)

小手


 千手観世音菩薩像は合掌している手と合わせて42本の手を持っているのが一般的で、小さな手を1000本持っている観音像は葛井寺の観音像のほかに唐招提寺の観音像のほか数例しかないと言う。また葛井寺の観音像は1001本と1本多いのも謎のひとつである。

 さらに端正な容貌、清楚で若々しくのびやかな肢体、そして膨大な数の手を脱活乾漆造(だつかつかんしつづくり)の技法で、バランスよくまとめあげた仏師の力量がうかがえる天平時代の傑作と言える。

(写真は 小手)


 脱活乾漆造と言うのは、粘土で像の芯を造り、その上に何枚もの布を漆で貼りつけて固め、最後に粘土を抜き取る技法。1000本の手は桐材を芯とした木芯乾漆造と言う技法がとられている。

 千手千眼観世音菩薩は千手、千眼で多くの衆生が救ってもらえると言う観音信仰の表れで、経典にも「千眼千手千舌千足千臂観自在…」とあるように、観音菩薩のご利益の多さを表している。映画「千と千尋の神隠し」や「千の風になって」の千も、宗教的魔力を秘めたものであろう。葛井寺の本尊の千手、千眼で苦悩を救ってもらおうと寺を参詣する観音巡礼者が毎日絶えない。

大手

(写真は 大手)


土師氏の里  放送 10月15日(水)
 藤井寺市道明寺一帯は、優れた土木技術で古墳造営を行い、土器、埴輪製作などにも関わった土師氏一族の本拠地であったことから「土師氏の里」と呼ばれ、近鉄南大阪線の駅名「土師ノ里」にもなっている。

 こうした古墳造営を裏付けるかのように藤井寺市内には巨大な前方後円墳のほかに大小の古墳が数多く点在しており、古墳や周辺からは石棺や数多くの埴輪や土器、副葬品などが出土している。全国の考古学者や考古学に興味を持つ人たちを「アッ」と言わせたのが、昭和53年(1978)に藤井寺市の東南部の三ツ塚古墳の周濠の濠底から出土した大小2つの「修羅」と付属品のテコ棒だった。
修羅(複製)(三ツ塚古墳出土)

(写真は 修羅(複製)(三ツ塚古墳出土))

道明寺天満宮


 大修羅は長さ8.8m、幅1.8mでV字形のアカガシの巨木で作られている。小修羅は長さ2.9m、幅75cmでクヌギ製。テコ棒はアカガシ製で長さ6.15m、直径15cm。修羅は巨石などの重量物を乗せ、細い棒状の木のコロの上に乗せて引っぱって運搬するもので、古墳の石室に使う巨石や石棺などを運んだと見られる。復元した大修羅による実験では50トン以上の巨石を運搬することができた。

 出土した修羅はそれぞれ保存処理され、河南町の大阪府立近つ飛鳥博物館に大修羅、藤井寺市立図書館に小修羅と大修羅の複製品が保存、展示されている。道明寺天満宮には運搬の実験に使った大修羅が展示されている。

(写真は 道明寺天満宮)


 道明寺天満宮境内には「土師の窯跡」の碑があり、土師一族が土器や埴輪などを製作していたことを裏付けている。隣接する道明寺は土師氏の祖先を祀った土師寺が起源で、近くに五重塔の心礎の礎石が保存されている。

 道明寺小学校には長持山古墳から出土した2つの石棺が展示されている。津堂城山古墳近くにあるガイダンス棟の「まほらしろやま」には、この古墳から出土した水鳥形埴輪や土器を展示、津堂城山古墳を写真やイラストでわかりやすく解説している。修羅と古代船の埴輪をイメージした建物の藤井寺市生涯学習センター「アイセル・シュラホール」にも、倭の五王時代の資料の展示や古代史の専門書などが置かれ、土師の里を学習することができる。

水鳥形埴輪

(写真は 水鳥形埴輪)


道明寺天満宮  放送 10月16日(木)
 道明寺天満宮の境内に菅原道真の祖先・野見宿禰(のみのすくね)、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)、大国主命の三柱を祀る土師神社がある。

 土師神社は道明寺天満宮の元宮で、相撲の祖と言われた野見宿禰が、垂仁天皇の時代に埴輪を作って人の殉死に代えた功績で、土師(はじ)の姓とこの一帯を領地として賜り、遠祖の天穂日命(あめのほひのみこと)とその子の天穂日命を祀ったのが土師神社である。今もこの付近は「土師の里」と呼ばれ、土師氏の領地だったことを示す様々な遺跡や史跡がおおい。
元宮土師社

(写真は 元宮土師社)

白磁円硯


 仏教伝来とともに推古天皇年間(592〜628)に土師八島連(はじやしまのむらじ)が自邸を寺としたのが土師寺で、後に菅原道真の別名・道明から道明寺に改められた。境内には土師八島連の墓がある。

 菅原道真が40歳の時、土師寺の住職だった伯母の覚寿尼を訪ねて4月から7月まで滞在、夏水井(げすい)の水を汲み、青白磁円硯(せいはくじえんけい=国宝)で墨をすり、大乗経を写経したり、十一面観世音菩薩立像(国宝)を彫って道明寺の本尊とした。無実の罪で九州・太宰府に赴く途中、伯母の覚寿尼を訪ね、別れを惜しんで自像を荒木に刻んだのが、現在の道明寺天満宮の御神像である。

(写真は 白磁円硯)


 道真が太宰府で没した後の天暦元年(947)に、道真が刻んだ道真像を天穂日命と覚寿尼を合わせて祀り、道明寺天満宮とした。明治維新の神仏分離令で道明寺が分離されて約200m西に移された。

 道明寺天満宮には道真愛用の遺品やゆかりの品々数多くあり、境内の宝物館に保存、展示されている。その主な物は大乗経を写経した時に使った青白磁円硯のほかに、いずれも国宝の銀装革帯(ぎんそうかくたい)、玳瑁装牙櫛(たいまいそうげくし)、高士弾琴鏡(こうしだんきんきょう)、牙笏(げしゃく)、犀角柄刀子(さいかくえとうす)や道真の生涯を60枚の扇面に描いた天神縁起絵扇面貼交屏風金地扇面彩色画などがある。

銀装革帯

(写真は 銀装革帯)


藤井寺一番街  放送 10月17日(金)
 近鉄南大阪線藤井寺駅近くの藤井寺一番街商店街は駅前から南へ延び、西国観音巡礼の西国三十三所第5番札所・葛井寺の参道も兼ねており、商店街のアーケードをを抜けると藤井寺の西門・四脚門前へ出る。電車を降りた巡礼者たちはこの商店街の通って藤井寺へ参り、帰りには飲食店などでひと休みする人も多い。

 会員約50商店で構成されている一番街商店街街にはいろんな店が並んでおり、店先を眺めながら歩くだけでも楽しい。


香 winchell

(写真は 香 winchell)

甘党喫茶松風軒


 商店街には藤井寺のお参りに必要な線香を売っている店もあり、ここで本尊に供える線香を求める巡礼者もいる。線香のほかに香りを楽しむいろいろな香や香炉なども並んでいる。

 畳屋の仕事場では畳職人が新しい畳を製作している作業がのぞける。最近は畳製造も工場での機械化が進み、熟練の畳職人が手作業で畳作りをしている姿を目にすることがなくなり、商店街でこのような風景が眺められるのは珍しい。お洒落な宝石店のすぐ隣りには漬物を並べている漬物店があるのも、下町の商店街らしい風景と言える。

(写真は 甘党喫茶松風軒)


 葛井寺の四脚門のすぐ南隣にある慶応元年(1865)創業の和菓子・喫茶店の「松風軒」は、4年前までは藤井寺一番街の入り口近くで営業していた老舗の和菓子店。

 この店の名物「むらさきもなか」は、3代目店主・田中幸一郎さんが葛井寺大僧正から当地の名物を作るように頼まれ、葛井寺の山号の「紫雲山(しうんざん)」の紫をヒントに考案した。淡い藤色の薄皮にシソ入りのあんを入れたもので、ほんのりとシソの風味を生かした上品な甘さが、地元の人たちはもちろん、遠方からの参詣客にも喜ばれており、今は亡き幸一郎さんの遺志を継いで妻・ハツエさんがもなかの味を守り続けている。

むらさきもなか(松風軒)

(写真は むらさきもなか(松風軒))


◇あ    し◇
葛井寺近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩3分。 

アイセルシュラホール近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩10分。 

藤井寺市立図書館近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩20分。 
近鉄南大阪線土師ノ里駅下車徒歩15分。

大阪府立近つ飛鳥博物館近鉄長野線喜志駅からバス阪南ネオポリス下車徒歩10分。 

道明寺小学校近鉄南大阪線土師ノ里駅下車すぐ。 

まほらしろやま近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩30分。 
近鉄南大阪線藤井寺駅からバスで小山下車徒歩5分。

道明寺天満宮近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩3分。 

道明寺近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩5分。 

藤井寺一番街近鉄南大阪線藤井寺駅下車すぐ。 

松風軒近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩3分。 

◇問い合わせ先◇

藤井寺市経済観光課072-939-1111 

葛井寺072-938-0005 

アイセルシュラホール072-925-7800 

道明寺天満宮072-953-2525 

道明寺072-955-0133 

松風軒072-955-0005 


◆歴史街道とは

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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