月〜金曜日 18時54分〜19時00分


紀の川市、岩出市 

 平成17年(2005)に打田町、粉河町、那賀町、桃山町、貴志川町が合併して誕生した紀の川市と岩出市を訪ねた。両市とも母なる川と言われる紀ノ川沿いの温暖な地にあり、紀ノ川の恵を受けて農業を中心に発展、古社寺や史跡、名所なども多い田園地帯の市である。


西国三十三所第3番札所・
粉河寺(紀の川市) 
放送 10月20日(月)
 和歌山県北部を紀ノ川に沿って東西に走るJR和歌山線粉河駅から北へ歩いて15分の所に西国三十三所第3番札所・が粉河寺ある。粉河寺の創建は寺に伝わる鎌倉時代初期に描かれた「粉河寺縁起絵巻(国宝)」によると次のようだ。

 奈良時代末の宝亀元年(770)この地の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)が、山中で異様な光を発する場所を見つけ、日ごろの殺生を悔いてここに草庵を建てたの始まり。ある日、ひとりの童男行者が草庵を訪れ宿を乞うた。行者はそのお礼に千手千眼観音菩薩像を刻んでいずこともなく立ち去った伝えている。

粉河寺参詣曼荼羅

(写真は 粉河寺参詣曼荼羅)

本堂


 ほかにこんな逸話も伝わっている。河内国の長者・佐太夫の娘の重病を治した行者が「用あらば粉河を訪ねよ」と言い残して去った。粉河を訪ねた佐太夫が、孔子古の草庵に安置されている観音菩薩像が、娘が礼として行者に与えた小刀と緋の袴を手にしているのを見て、行者が観音様だと知り孔子古とともに寺を大きくした。

 享保5年(1720)再建された総ケヤキ造の本堂(国・重文)は高さ33mの豪壮な建築で、西国三十三所札所の本堂の中では最大。本堂内には永久秘仏の本尊・千手千眼観世音菩薩像が祀られているが、本尊を拝観することができないため、千手千眼観世音菩薩を表す梵字が正面に祀られている。

(写真は 本堂)


 本堂前には紀州の名石・青石を用いて作られた枯山水の「粉河寺庭園(国・名勝)」がある。石組の中には3m以上もの巨石があり、石組の間はソテツとサツキの刈り込みで埋められ、桃山時代の力強い庭の美しさを見せ、本堂を仰ぎ見る前景も兼ねている。

 粉河寺は平安時代に西国三十三所第3番札所になってから栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めで多くの堂塔が焼失した。現在の堂塔は江戸時代に入ってから紀州徳川家の援助で再建されたものである。
 御詠歌は「ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや」。

粉河寺庭園

(写真は 粉河寺庭園)


粉河寺・千手千眼観世音
菩薩像(紀の川市) 
放送 10月21日(火)
 粉河寺の大門(国・重文)をくぐり、広大な境内に入ると本堂をはじめ諸堂が整然と立ち並んでいる。本坊前の童男堂には、粉河寺の本尊・千手千眼観音菩薩の化身である童男行者が祀られている。

 国宝の「粉河寺縁起絵巻」には、粉河寺創建や本尊造立の由来について描かれている。宝亀元年(770)この土地の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)が、殺生を悔いて山中に建てた草庵へ童男行者訪れて宿を乞い、そのお礼に造像を約束して庵に籠もった。7日後、庵を開けると行者の姿はなく、千手千眼観音菩薩像が立っていたと言う。

粉河寺縁起絵巻

(写真は 粉河寺縁起絵巻)

童男行者


 この童男行者が粉河寺の本尊・千手千眼観音菩薩の化身であったことがわかり、童男堂を建立して童男行者像が秘仏として祀られるようになった。

 現在の童男堂は延宝7年(1679)の建立で、江戸時代の廟建築を模して正堂と礼堂からなっており、正堂内陣の小壁、板壁には障壁画、天井には華麗な絵が描かれている。秘仏の童男行者像は毎年1回、12月18日の童男会に御開帳され、柔和な姿を拝観することができる。

(写真は 童男行者)


 一方、千手堂には秘仏の本尊・千手千眼観音菩薩像が祀られている。こちらの本尊も江戸時代中期に一度御開帳されたとの記録があり、それ以来御開帳されていない。2008年、西国三十三所観音巡礼を復興した花山法皇の一千年忌に合わせて、10月1日から31日まで218年ぶりに御開帳されている。

 参拝者は本尊が合掌している手から千手堂入り口に延びている紐を両手で挟んで合掌、本尊と縁を結び一体となる「結縁開帳」に感無量の面持ち。この西国三十三所結縁開帳は第1番札所・青岸渡寺、2番札所・紀三井寺でも行われている。

秘仏千手観世音菩薩(千手堂)

(写真は 秘仏千手観世音菩薩(千手堂))


大和街道(紀の川市)  放送 10月22日(水)
 紀ノ川に沿う大和街道は、奈良の明日香と和歌山を結ぶ約75kmの街道で、別に伊勢街道とも呼ばれていた。街道沿いには粉河寺や根来寺、華岡青洲邸などの社寺や名所、旧跡が多い。

 そのひとつ、旧名手(なて)本陣・妹背家住宅(国・重文)は、紀州藩主が参勤交代や鷹狩りの時に宿泊した江戸時代の大庄屋の住宅。現在の住宅は正徳4年(1714)のこの地の火災で焼失した後、享保3年(1718)に新築され、その後、杮(こけら)葺きや茅葺きの屋根を瓦葺きに改修しているが、主屋や座敷などは建築当時のままの姿で保存され、本陣の遺構を知る上で貴重な存在である。

旧名手宿本陣

(写真は 旧名手宿本陣)

長田観音


 約1000坪(3300平方m)の敷地に主屋や蔵などが建ち並び、旧大和街道に面して建つ御成門が本陣の姿を伝え、主屋の土間には大きなカマドが当時のままで形で残っている。藩主などが宿泊する御座の間や家臣が泊まる次の間などから本陣の様子を知ることができる。

 参勤交代などで本陣として使用された場合に、家族らは主屋から蔵に用意された床の間付きの部屋に引っ越して生活した。このため2つある蔵のうち、ひとつの蔵の一部を家族の生活の場として用意しており、本陣として提供するための苦労がうかがえる。

(写真は 長田観音)


 JR和歌山線紀伊長田駅北の長田観音は、延喜21年(921)に念仏上人によって開創された寺で、正式には如意山・厄除観音寺と言い、旧長田庄にあったため「長田観音」と呼び親しまれている。

 創建当時は醍醐天皇の勅願所として栄え、壮大な堂塔伽藍を備えていたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで堂塔は焼失、幸い本尊の如意輪観世音菩薩像は難を逃れた。後に本堂が再興されたが、初代紀州藩主の徳川頼宣が「人家に近いのはよくない」と現在地に移して再建した。本尊は一般に「厄除観音」と呼ばれから開運厄除け、交通安全などを願う人たちが観音様に手を合わせてきた。

本尊如意輪観世音菩薩(お前立ち)

(写真は 本尊如意輪観世音菩薩(お前立ち))


フルーツ王国(紀の川市)  放送 10月23日(木)
 紀の川市西部の桃山町は江戸時代後期から桃の栽培が始り、日本有数の桃の産地として知られ、町名の由来にもなっている。今は「あら川桃」のブランド名で全国に出荷されており、桃の花が咲き競う春には「ひと目10万本」と言われるピンクに染まった桃畑が現れ、桃の収穫期には甘い香りに包まれ、文字通りの桃源郷を現出する。

 秋のこの時期は桃に代わってミカンがたわわに実り、収穫の最盛期を迎えている。ミカンの選果場には収穫されたミカンが次々と持ち込まれ、糖度や大きさ別に選果して出荷されている。

雨山観光農園たわもと園

(写真は 雨山観光農園たわもと園)

いちじく園


 このあたりは農産物が豊富で、四季を通じておいしい果物が収穫される。「バナナとパイナップル以外は何でも収穫している」と言われているほどで、果物の種類は多種多様。特にイチジク、ハッサク、モモ、カキ、キウイの産出額は全国のトップクラスである。その中でモモは年間39億円を超える稼ぎ頭である。

 こうした豊富な果物のもぎたてのおいしさが味わえるのが、桃山町の雨山の麓にある雨山観光農園「たわもと園」で、10月はカキ、キウイ、ミカン狩りが楽しめる。

(写真は いちじく園)


 JR和歌山線打田駅から北東へ約2kmのところにある「あナリ」は、築100年の庄屋屋敷・河野家住宅(国・登録有形文化財)を修復して、体験教室やイベント、展示販売の場として活用されている。

 切妻造の薬医門をくぐり抜けるとそこには昔ながらの民家のたたずまいがあり、主屋の正面には式台玄関が客を迎えてくれ、心が落ち着く。大きなカマドでゆがいた、そば粉100%、打ち立ての十割蕎麦が人気。ほかに季節に合わせた特別メニューもある。アート&クラフト展や音楽、演劇などのイベント、まき割りやカマドを使った炊飯、ジャム作りなどの田舎体験もできる。落ち着いた民家の雰囲気が創作意欲と食欲をかき立てるようだ。

「あナリ」河野屋

(写真は 「あナリ」河野家)


根来寺(岩出市)  放送 10月24日(金)
 根来寺は和歌山県北部の和泉山脈南麓の中腹にあり、木々に囲まれた自然の中の起伏に富んだ広大な寺域に伽藍が立ち並んでいる。正式には一乗山大伝法院根来寺と言う。

 根来寺は真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)上人が、大治元年(1126)この地に神宮寺を建てたのが始まりで、後に頼瑜(らいゆ)僧正が高野山から大伝法院と密厳院をこの地に移した。一門の衆徒もこの地に移り住み大伽藍を擁する根来寺と称し、新義真言宗の教学の拠点として栄え、室町時代末期には僧坊80余、堂塔2700余、根来衆徒と呼ばれた僧兵1万余人を抱える一大勢力となった。

奥の院御廟

(写真は 奥の院御廟所)

胎蔵界大日如来(大塔)


 高野山で修行した覚鑁は「僧侶は学問をすることにある」と大治5年(1130)学問の場として高野山に伝法院を興し、さらに修行所として密厳院を建立した。鳥羽上皇の厚い信任を受けて大伝法院を建立、その後に伝法院と高野山・金剛峯寺の座主を兼ね勢力を拡大した。

 覚鑁の勢力拡大に反発した反覚鑁派との対立が深まり、争いを好まなかった覚鑁は、弟子や衆徒約700人を連れて高野山から根来へ下山、頼瑜が大伝法院と密厳院を移したのが根来寺創建の背景である。根来寺奥の院には49歳でなくなった覚鑁の廟所があり、没後約550年後に興教(こうぎょう)大師の号が贈られた。

(写真は 胎蔵界大日如来(大塔))


 諸堂塔が立ち並び威容を誇っていた根来寺は、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで、本尊と大塔、大師堂など数棟を残し、他の堂塔はことごとく焼き払われた。江戸時代に入って紀州藩初代藩主・徳川頼宣の援助で再建が始まった。

 根来寺のシンボルとも言える大塔(国宝)は、高野山の根本大塔を模して建立され、約50年の歳月をかけ天文16年(1547)に完成した。高さ40mの大塔はわが国最大の木造多宝塔で、胎蔵界大日如来像が安置され、本堂・大伝法堂には覚鑁が高野山の大伝法院に祀ったのと同じ金剛界大日如来像を中尊とする三尊像が祀られている。

 

金剛界大日如来(大伝法堂)

(写真は 金剛界大日如来(大伝法堂))


◇あ    し◇
粉河寺JR和歌山線粉河駅下車徒歩15分。 

旧名手本陣JR和歌山線名手駅下車徒歩10分。 

長田観音JR和歌山線紀伊長田駅下車徒歩5分。 

観光農園・たわもと園和歌山電鉄貴志駅からタクシーで20分。 

あナリ古民家JR和歌山線打田駅下車徒歩20分。 

根来寺JR阪和線和泉砂川駅からバスで根来寺下車すぐ。 
JR和歌山線岩出駅からバスで根来寺下車すぐ。
南海本線樽井駅からバスで根来寺下車すぐ。

◇問い合わせ先◇
和歌山県観光振興課073-441-2775 
紀の川市商工観光課0736-73-3311 
粉河寺0736-73-3255 
旧名手本陣(紀の川市教育委員会)0736-64-2525
長田観音0736-73-3566 
観光農園・たわもと園0736-67-0712 
あナリ古民家0736-77-3919 
根来寺0736-62-1144 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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