月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・興福寺とその界隈 

 興福寺は東大寺、春日大社と並ぶ古都・奈良を代表的する寺社である。奈良時代から平安時代にかけて強大な権力を誇った藤原氏は、興福寺を氏寺、春日大社を氏神としてその権力を誇示した。今回は2010年に創建1300年を迎える興福寺と興福寺に関わりのあったその界隈を訪ねた。


興福寺の歩み  放送 10月27日(月)
 近鉄奈良駅の東側に位置する興福寺は、藤原氏の氏寺として奈良時代から栄え、広い境内には天皇や皇后、藤原氏一族が創建した堂塔が立ち並ぶ。大寺院には珍しい土塀のない寺として、広大な境内は奈良公園と一体となって、誰でも昼夜を問わず自由に出入りできる開放的な寺で、観光客や修学旅行生に親しまれている。

 興福寺は天智天皇8年(669)中臣鎌足(藤原鎌足)の夫人・鏡女王(かがみのおおきみ)が、夫の病気平癒を祈願して、山城国に建立した山階寺(やましなでら)が起源とされている。壬申の乱後、都が近江から飛鳥に遷ったのに合わせ、山階寺も飛鳥の厩坂(うまやさか)へ移って厩坂寺となった。


弥勒如来坐像(秘仏・北円堂)

(写真は 弥勒如来坐像(秘仏・北円堂))

五重塔


 和銅3年(710)の平城遷都後、鎌足の子・藤原不比等が厩坂寺を現在地に移して寺名も興福寺とし、まず金堂(中金堂)を建立、鎌足の造った釈迦三尊像を安置した。以後、藤原氏の氏寺として伽藍が整えられた。

 北円堂は不比等の一周忌に元明太上天皇と元正天皇が不比等追悼のために建立、現在の建物は承元4年(1210)ごろの再建された。堂内に安置されている弥勒如来座像(国宝)は鎌倉時代の仏師・運慶とその一門の作で、弥勒菩薩が56億7千万年後に菩薩から如来になった時の姿である。東金堂(とうこんどう)は聖武天皇が伯母の元正太上天皇の病気平癒を祈願して建立、本尊に薬師如来座像(国・重文)両脇に日光、月光菩薩像(いずれも国・重文)を安置した。

(写真は 五重塔)


 聖武天皇の光明皇后(不比等の娘)は五重塔(国宝)、西金堂(さいこんどう)をそれぞれ建立した。西金堂は今は跡地だけで建物はない。五重塔内の初層には東に薬師三尊像、南に釈迦三尊像、西に阿弥陀三尊像、北に弥勒三尊像がそれぞれ安置されている。

 西国三十三所第9番札所として知られ南円堂(国・重文)は、藤原冬嗣が弘仁4年(813)父・内麻呂追善のために建立した八角形の円堂で、本尊は秘仏の不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩座像(国宝)。この南円堂の建立で興福寺の伽藍がほほ整った。ほかに興福寺には憂いを含んだ表情で有名な阿修羅像(国宝)や400円切手のデザインに採用された天燈鬼像(国宝)など、数多くの国宝、重要文化財がある。

阿修羅像

(写真は 阿修羅像)


西国三十三所第9番札所・興福寺南円堂  放送 10月28日(火)
 興福寺の南円堂(国・重文)は、平安時代初期の弘仁4年(813)藤原冬嗣が父・内麻呂の追善供養のために八角円堂を建立した。平安時代中期以降に盛んになった観音巡礼の西国三十三所第9番札所として知られ、堂内には秘仏の本尊・不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩座像(国宝)が祀られている。

 広大な興福寺の境内の中で、南円堂付近はいつも巡礼姿の参詣者のお参りが絶えず、般若心経を読経する声や線香の紫煙がたなびいており、境内の中で最も庶民的な雰囲気が漂っているところである。
南円堂

(写真は 南円堂)

本尊不空羂索観音菩薩坐像(秘仏)


 南円堂は建立後、数回の火災にあい、現在の建物は寛保元年(1741)に立柱、寛政9年(1797)に完成、平成9年(1997)には大修理を終え、広い境内で朱塗りが建物が鮮やかに映えている。

 冬嗣の父・内麻呂は藤原家繁栄の道を弘法大師に訪ねたところ「この仏を信仰しなさい」と不空羂索観音菩薩座像を与えられ、持仏堂に安置して拝んでいた。内麻呂の死後、冬嗣が弘法大師に「民衆に仏の功徳をおよぼしたい」と教えを乞うたところ「お堂を建て不空羂索観音菩薩座像を安置し、民衆に解放して広く信仰させなさい」と説かれた。この教えに従い父の追善供養を兼ねて南円堂を建てたと伝えられている。

(写真は 本尊不空羂索観音菩薩坐像(秘仏))


 本尊の不空羂索観音菩薩座像は三眼八臂(さんがんはっぴ)の姿で、手にした羂索(網)で庶民を救い、願いをかなえてくださる観音様として知られている。

 南円堂の前に藤が植えられているが、興福寺縁起によると補陀落山は八角の山で、藤が咲き乱れていると言われ、南円堂はこの様子を模して藤が植えられたとされている。この藤が創建当時の平安時代から植えられていたのかは不明。現在の藤は紫藤だが、江戸時代は白藤だった言う。
 御詠歌は「はるのひは なんえんどうに かがやきて みかさのやまに はるるうすぐも」。

羂索

(写真は 羂索)


興福寺南円堂の秘仏  放送 10月29日(水)
 興福寺には創建からの歴史を感じさせる年中行事が数多い。西国三十三所第9番札所で知られる南円堂では毎年10月17日に大般若経転読会が行われ、この日は南円堂が特別開扉され、秘仏となっている本尊・不空羂索(ふくうけんさく)観音菩薩座像(国宝)の姿を拝観することができる。

 大般若経は玄奘三蔵が天竺から中国・唐の長安へ持ち帰った経巻の一部600巻のことを言う。転読会は600巻もある長大な大般若経を読誦するのは時間がかかるので、大勢の僧侶が50巻ずつ担当して経本をパラパラめくることで全部読んだことにする法会。
大般若経転読法要(毎年10月17日)

(写真は 大般若経転読法要(毎年10月17日))

持国天


 南円堂の堂内には大般若経を転読する僧侶の読経の声が響き、本尊の観音様との一体感がより一層高まり、参詣者は特別開扉された本尊に手を合わせながら感無量の面持ちだった。

 南円堂の本尊・不空羂索観音菩薩座像は、平安時代中期の治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちで南円堂とともに焼失、鎌倉時代初期に運慶の父・康慶とその一門の仏師によって造仏された。眉間に一眼を持った三眼八臂(さんがんはっぴ)の像で、上半身に鹿皮をまとっている。第一手は胸の前で合掌、第二手は左手に蓮華、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、第三手は両手をわきの下にたらし、第四手は左手に羂索、右手に法具の払子(ほっす)を持っている。

(写真は 持国天)


 本尊が手にする羂索(鳥獣をとらえる綱や網)は、観音様によって人びとの願いを残らず救い取り、必ず成就させてくださると言われている霊験あらたかなものである。

 不空羂索観音菩薩座像の四方には、東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天の四天王立像(国宝)が安置されている。いずれも本尊と同じ康慶の作ではないかとされ、動きの大きい力強い像で鎌倉時代の特徴を感じさせる代表的な四天王。ほかに南円堂には興福寺法相宗興隆に貢献した学僧の肖像・法相六祖座像(国宝)が安置されている。こちらも康慶の作で像高は73cmから85cmの座像である。

多聞天

(写真は 多聞天)


猿沢池  放送 10月30日(木)
 興福寺の南、五重塔を望む地に広がる猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の「放生池」として天平21年(749)に造られた周囲360mの人工池。放生会とは万物の生命を慈しみ、捕らえられた生き物を放つ宗教行事で、猿沢池にも毎年、多くの魚が放たれてきた。

 奈良市を訪れる観光客や修学旅行生らは必ずと言っていいほど、猿沢池と五重塔をバックに記念撮影を行うスポットでもあり、奈良八景のひとつになっている。
衣掛柳

(写真は 衣掛柳)

妥女神社


 猿沢池にはいろいろな言い伝えがある。そのひとつが「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」と言われる「猿沢池の七不思議」。猿沢池の水は澄むことなく、またひどく濁ることもない。水が流入する川もなく、流出する川もないが水量は一定。亀はいるが蛙はいない。なぜか藻ははえず、水より魚が多いと言うのである。

 もうひとつ有名な伝承が「采女(女官)の入水」。文武天皇に仕えた采女が帝の寵愛がなくなったのを嘆いて名月の夜に、池のほとりの柳に衣をかけて猿沢池に身を投げた入水事件。

(写真は 妥女神社)


 采女の身投げを聞いた帝は采女の霊を慰めるため、池のほとりに小さな社を建てたのが猿沢池の北西のほとりにある采女神社。猿沢池に向かって建てられた釆女神社だったが「わが身を投じた池を見るのはしのびない」と、一夜のうちに池に背を向けてしまい、今もそのままの状態になっている。毎年、中秋の名月の日に采女祭が行われ、采女の霊を慰めている。

 猿沢池のほとりある天平ホテルからは、猿沢池とその後にそびえる興福寺の五重塔が一望できる。若草山の山焼きの時には、ホテルの部屋から猿沢池、五重塔、炎に包まれた若草山、打ち上げらる花火が一幅の絵のように眼前に広がる。

天平ホテル

(写真は 天平ホテル)


東向商店街  放送 10月31日(金)
 奈良近鉄駅の東側、南北に延びる東向(ひがしむき)商店街は、平城京の外京・東六坊大路の跡で、興福寺のすぐ西側を通っており、当時は興福寺の別院や菜園があったと言われている。

室町時代には興福寺の勢力が強大で、伽藍付近に商家を建てることは許されず、通りの西側だけに人家があった。これらの人家が東の興福寺の向いていたので東向町と呼ばれるようになった。その後、興福寺の勢力が衰え、東側にも人家が建つようになった。東側の人家の裏の一部に溝が今も残っており、これが興福寺との境界だった。
赤膚火打焼の皿(楽玩堂)

(写真は 赤膚火打焼の皿(楽玩堂))

本彫極彩色舞楽陵王童之舞(楽玩堂)


 大正4年(1915)に大阪と奈良を結ぶ大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)が開通して、東向町に終点の奈良駅が設けられ、東向商店街が一気に発展して奈良市随一の商店街となった。

 現在の東向商店街は北側の登大路から南側の三条通りまで200mほどの通りに、様々な業種の商店77店が軒を連ねている。観光都市・奈良のメイン商店街だけに飲食店や名産店が多いが、100円ショップやファーストフードなども店を構えており、幅広い層の客をターゲットにしている。

(写真は 本彫極彩色舞楽陵王童之舞(楽玩堂))


 大正時代末期に店を開いた骨董品店・楽玩堂には、奈良に古くから伝わる大和古物の数々が店内に並んでいる。赤膚焼の茶碗、一刀彫の人形、香道具、能の楽器のほかに鎌倉時代の仏像もある。値段は手軽に購入できる3000円前後の品からあり、店主は「古きよき時代のものを楽しんで使ってほしい」と願っている。

 和菓子店「湖月」には若草山(三笠山)をイメージした名物の「みかさ焼」がある。一般には「どら焼」と呼ばれる菓子だが、湖月のみかさ焼は直径16cmもある大判で、ふっくらと柔らかい生地とこしあんの上品な甘味に思わず顔がほころぶ。

みかさ焼(湖月

(写真は みかさ焼(湖月))


◇あ    し◇
興福寺、猿沢池、釆女神社近鉄奈良線奈良駅下車徒歩5分。
JR関西線奈良駅下車徒歩10分。

東向商店街、落玩堂、湖月近鉄奈良線奈良駅下車すぐ。 
JR関西線奈良駅下車徒歩5分。

◇問い合わせ先◇
興福寺0742-22-7755 

釆女神社(春日大社)0742-22-7788 

天平ホテル0742-26-0200 

東向商店街協同組合0742-24-4986 

楽玩堂0742-22-3408 

湖月0742-22-3288 


◆歴史街道とは

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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