月〜金曜日 18時54分〜19時00分

番組が「第25回ATPテレビグランプリ2008 長寿番組賞」
を受賞しました。


長岡京市 

 桓武天皇が平城京から遷都した長岡京の中心は北隣の向日市にあたるが、長岡京市は長岡京の右京があった所で市名もこれによる。長岡京市付近一帯は早くから開けた地域で、菅原道真を祀る長岡天満宮があるほか古社、古刹や古墳などの遺跡、史跡が多い地域である。


粟生光明寺  放送 12月8日(月)
 長岡京市の北西部、粟生(あお)の地に法然上人を宗祖とする西山浄土宗の総本山・光明寺がある。京都市左京区の浄土宗大本山・金戒(こんかい)光明寺と区別するため粟生光明寺と呼ばれている。

 粟生光明寺の創建は鎌倉時代初期の建久9年(1198)。源平の戦で名を馳せた熊谷次郎直実が、一の谷の合戦でわが子のような年齢の平敦盛を討ち取ったことなど、源平の戦によって幾多の命を奪った罪業を償い、極楽往生の道を求めて京都・東山吉水の法然上人を訪ねて弟子入りした。剃髪して蓮生(れんしょう)と称し、念仏を唱えて修行を続けながら、戦で命を落とした人たちの霊を慰めた。

粟生光明寺絵縁起

(写真は 粟生光明寺絵縁起)

本尊阿弥陀如来像(阿弥陀堂)


 念仏三昧の修行の日々を送る熊谷だったが、吉水の地は人の往来も激しく、周囲の騒音などが騒々しいので、もっと静かな地で念仏を唱えたいと粟生に草庵を結び、上人から念仏三昧院の寺号をもらった。近江・堅田の浮御堂から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来像を背負ってきて本尊として安置、法然上人を招いて開山法要を行い、法然上人を開山第一世、自らは第二世としたのが光明寺の始まりとされている。

 熊谷が帰依していた法然上人は建暦2年(1212)に亡くなり東山大谷に葬られたが、比叡山の僧徒らが廟を暴きその亡き骸を鴨川に流そうと企てたので、上人の弟子たちが遺骸を納めた石棺を太秦の広隆寺に移した。

(写真は 本尊阿弥陀如来像(阿弥陀堂))


 安貞2年(1228)正月、広隆寺に移していた石棺から数条の光明が放たれ粟生の地を照らしたので、遺骸納めた石棺はこの地に移して火葬、念仏三昧院の裏山に廟堂を建てて祀った。この奇瑞に因んで仁治3年(1242)四条天皇から「光明寺」の寺号を賜り、以後、光明寺と称するようになり、皇室の崇敬も篤くなって寺運も隆盛した。粟生光明寺境内には今も火葬跡や当時の石棺が伝わっている。

 室町時代末の永禄6年(1563)正親町天皇から「光明寺は浄土門根元之地と言ってよし」の勅を賜り、光明寺が「浄土一宗の御本廟」と定められ、「浄土門根元之地」と言われるようになった。

法然上人の遺骸を収めた石棺

(写真は 法然上人の遺骸を収めた石棺)


錦繍の光明寺  放送 12月9日(火)

 長岡京市の北西の緩やかな丘陵に沿って伽藍を構える粟生光明寺は紅葉の名所。晩秋になると境内は西山随一と言われる素晴らしい光景となる。訪れる人びとは鮮やかな紅葉が境内の伽藍とマッチした美しさにに目を見張り、思わず「きれい!」と感嘆の声をあげてしまう。

 総門から医薬門を経て寺務所へ至るゆるやかな坂道の参道は、赤や黄色の美しい紅葉のトンネルとなる「もみじ参道」と言われている。

もみじ参道

(写真は もみじ参道)

御影堂


 「もみじ参道」の両側から樹齢150年を超える木々が枝を伸ばして参詣する人びとの目を楽しませ、参詣者の信仰心と自然への畏敬の念を見守り続けている。

 寺域は約2万坪(6万6000平方m)、建物は32棟を数える広さと威容を誇っている。寺は応仁の乱や山崎の合戦、享保19年(1734)の火災など三度の火難に遭っており、現存する建物の大半はそれ以降、江戸時代末まで約120年の歳月をかけて再建された。

(写真は 御影堂)


 光明寺の本堂である壮麗な御影堂は、宝暦3年(1753)に再建された光明寺の中心的な建物。法然上人が四国に流された時、船の中で母からの手紙を張り合わせて作った、高さ45cmの「張子の御影」が本尊として安置されている。御影堂の右に建つ阿弥陀堂の本尊・阿弥陀如来像は、熊谷次郎直実が滋賀の浮御堂から背負ってきたとの伝えがある仏像。

 「頬焼けの釈迦如来像」と呼ばれる釈迦如来像を本尊とする釈迦堂前の信楽庭(しんぎょうてい)は、釈迦の慈悲の心を現している庭で、秋にはこの庭にも紅葉が彩りを添えている。

信楽庭

(写真は 信楽庭)


西国街道 今むかし  放送 12月10日(水)

 西国街道は国道1号と171号が合流する京都市の東寺そばの東寺口から向日市、長岡京市、高槻市、茨木市、箕面市、伊丹市を経て西宮市で中国街道と合流する街道で、大坂を経由しないで西国と結ぶ近道の脇街道として参勤交代の大名たちも利用していた。

 向日市と長岡京市の境にある一文橋は、暴れ川だった小畑川に架かる橋で、洪水のたびに橋は何度も流され、付け替えを余儀なくされていた。橋を渡る通行人から一文ずつ橋の通行料を徴収して橋の付け替え費用にあてたことからこの名がついた。


一文橋

(写真は 一文橋)

古市村神足村絵図(古市在自治会蔵)


 東寺口から2里(約8km)の長岡京市神足(こうたり)は、江戸時代初期に徳川3代将軍・家光の側近・永井直清が館を構えて上方支配を行った所で、館周辺や街道沿いには商家が軒を連ねていた。当時の様子がわかる資料が少なく、永井がどのような支配を行っていたのか不明な点が多い。

 高槻藩家老・三嶋家から池田市の仏日寺に伝わっている資料の中に神足館の絵図がある。それによると中央に本丸を置き、周りを武家屋敷、さらにその外側に足軽屋敷を配置していた。最近の発掘調査で本丸の堀、武家屋敷跡、足軽屋敷跡、茶屋口門跡などが絵図とほぼ一致していることがわかった。

(写真は 古市村神足村絵図(古市在自治会蔵))


 「長岡京市立神足ふれあい町家」となっている旧石田家住宅(国登録有形文化財)は、店舗と住宅を兼ねた農家風町家の風情を今に伝えている建物。玄関を入ると土間が奥に続き、土間の奥には庭園がある。田の字形に配された座敷には繊細な細工が施されているなど、江戸時代末期の町家建築の様子がわかる。

 この建物は江戸時代には「紙屋清兵衛」の屋号で和紙などを商っていた。明治時代には町の医院として利用されていたが、その後に石田家が購入した。平成15年(2002)が長岡京市が取得、市民のコミュニケーションの場「神足ふれあい町家」として平成19年(2007)にオープンした。

旧石田家住宅(神足ふれあい町家)

(写真は 旧石田家住宅(神足ふれあい町家))


勝竜寺城公園  放送 12月11日(木)

 JR長岡京駅の東南にある勝竜寺城公園は、南北朝時代の暦応2年(1339)北朝方・足利尊氏に味方した細川頼春が、南朝に対抗する前線基地として築城した勝竜寺城の跡地。勝竜寺城はその後、畠山氏、細川氏、松永氏などの拠点となったが、織田信長が南山城一帯を平定した後、細川藤孝(幽斎)に勝竜寺城を与えた。

 細川は堅固な城にするため城郭の整備、三重の堀を構築するなどの大改修を行い、戦に登場した鉄砲に対応した先駆的な築城技術を用いたとされている。天正6年(1578)には明智光秀の三女・玉(たま)が、織田信長の勧めで細川藤孝の長男・忠興に嫁いだ。16歳だった若い二人はこの城で2年間の新婚生活を送った。

勝龍寺城公園

(写真は 勝龍寺城公園)

勝龍寺城跡の出土品(16世紀)


 玉にとって人生を変える事件が起こった。天正10年(1582)に玉の父・明智光秀が、本能寺で信長を倒す謀反「本能寺の変」である。この謀反がきっかけで忠興から離縁された玉は丹後の山奥に幽閉され、以後、戦国時代の非運の人生を送る女性となる。

 信長を倒した明智光秀と羽柴秀吉が戦う「天下分け目の天王山」で知られる山崎の戦の時、光秀は勝竜寺城を本拠としたが秀吉に敗れ勝竜寺城は破壊された。現在、勝竜寺城跡は公園として整備され、城門や本丸などが建てられ、本丸2階の展示室には城跡を公園にした時に出土した瓦や陶磁器などが展示されている。

(写真は 勝龍寺城跡の出土品(16世紀))

 非運な女性・玉は秀吉の計らいで幽閉を解かれて忠興との復縁が許され、大坂城下の細川家で生活することになった。しかし心の平穏な生活は実現せず、心の拠り所をキリスト教の教えに求め、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになった。

 その後も細川ガラシャの悲運は続く。関ヶ原の戦で西軍の石田三成は、忠興が東軍に味方するのを阻止するためガラシャ夫人を人質にしようとしたが夫人はこれを拒み、武将の妻らしく屋敷に火を放ち家老に討たせて自ら命を絶った。長岡京市は非運な中でも人間愛を貫いたガラシャ夫人を追悼するため、毎年11月の第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」を行っている。

玉、お輿入れ道中(神足ふれあい町家蔵)

(写真は 玉、お輿入れ道中
(神足ふれあい町家蔵))


柳谷観音  放送 12月12日(金)
 長岡京市西部を南北に連なる西山の斜面に、柳谷(やなぎたに)観音の名で親しまれる楊谷寺(ようこくじ)がある。楊谷寺は西山浄土宗光明寺の末寺で、大同元年(806)京都・東山の清水寺の開祖・延鎮(えんちん)によって開山された。

 延鎮は観音菩薩の夢のお告げでこの地で訪れて岩上に観音像を発見、草庵を結んでこの観音像を安置した。この観音像が今も本尊として祀られている十一面千手千眼観世音菩薩像とされ、後に白河天皇の勅願寺となり朝廷の崇敬も篤くなって栄えた。
柳谷観音楊谷寺

(写真は 柳谷観音楊谷寺)

柳谷観音古団


 その後、長岡京の乙訓寺の別当となった弘法大師・空海が楊谷寺を参詣した。その時に岩屋の中の清水で、目が見えない子猿の目を母猿が懸命に洗っている姿を見た。親子の猿は毎日この岩屋にやってきて子猿の目を清水で洗う動作を繰り返していたところ、17日目に小猿の目はパッチリと開いたと言う。

 この光景を目にした弘法大師は、この清水を眼病で悩む人たちのための霊水にしようと決意、17日間加持祈祷を続け、独鈷(どっこ)で清水を掘り下げ、眼病平癒の霊水に成就させた。

(写真は 柳谷観音古図)


 この清水は「独鈷水(おこうずい)」と呼ばれ、眼病に効く霊水として人びとの信仰を集めており、御詠歌にも「み仏の なびく柳の谷水は 汲むに老いせぬ 薬なりけり」と詠まれている。楊谷寺は延鎮を第一世、弘法大師を第二世とし、本堂には弘法大師像を安置している。

 平成8年(1996)長岡京市観光協会の手によって、奥の院に至る参道にアジサイが植えられ「あじさいのみち」として花の時期には参詣者の目を楽しませている。晩秋は境内をはじめ周囲の山々の紅葉が真っ盛りで、参詣者やハイカーたちの目を楽しませている。

十一面千手せんがん観世音菩

(写真は 十一面千手千眼菩薩)


◇あ    し◇
光明寺JR東海道線長岡京駅、阪急京都線長岡天神駅から
バスで光明寺下車徒歩3分。 

神足ふれあい町家・旧石田家住宅
JR東海道線長岡京駅下車徒歩5分。
阪急京都線長岡天神駅下車徒歩15分。
一文橋JR東海道線長岡京駅、阪急京都線長岡天神駅からバスで一文橋下車すぐ。 

勝竜寺城公園JR東海道線長岡京駅下車徒歩10分。 
阪急京都線長岡天神駅下車徒歩20分。

柳谷観音(楊谷寺)  JR東海道線長岡京駅、阪急京都線長岡天神駅からタクシーで20分。
JR東海道線長岡京駅、阪急京都線長岡天神駅からバスで奥海印寺下車徒歩1時間。

◇問い合わせ先◇
長岡京市商工観光課075-955-9688 

長岡京市観光協会075-951-4500 

光明寺075-955-0002 

神足ふれあい町家・旧石田家住宅
075-951-5175

勝竜寺城公園075-952-1146 

柳谷観音(楊谷寺)075-956-0017 

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