月〜金曜日 18時54分〜19時00分

番組が「第25回ATPテレビグランプリ2008 長寿番組賞」
を受賞しました。


三重・四日市市、菰野町 

 四日市市と言えば戦後の高度経済成長期の石油コンビナートの都市のイメージが強いが、古くは毎月、四の日に市が開かれたのが地名の由来のように市場町から発展、東海道の宿場町、貿易港の町、臨海工業地帯として発展してきた。菰野町は御在所岳の東麓に広がる町で、湯の山温泉や御在所岳などで観光客に知られている。


四日市萬古焼(四日市市)  放送 12月15日(月)
 四日市の名産のひとつに蚊遣りの豚や土鍋で知られる萬古(ばんこ)焼がある。近鉄四日市駅近くの「じばさん三重」では、日用品の土鍋、急須、湯のみ、花器から陶芸家の芸術的作品の萬古焼が展示、販売されており、四日市土産には最適と物色している観光客らの姿が目につく。じばさん三重の南隣の四日市市立博物館の展示コーナーにも、古萬古焼や香炉、大皿、土瓶、急須などの萬古焼が展示されている。

 現在、萬古焼を代表する土鍋は国内シェアの80〜90%を占めており、消費者のニーズに合わせて多彩な土鍋が生産されている。そのほか、紫泥(しでい)を使った赤茶色の急須が萬古焼きも人気商品。
じばさん三重

(写真は じばさん三重)

古萬古(四日市 市立博物館)


 萬古焼は約260余年前の江戸時代中期の元文年間(1736〜41)に沼波弄山(ぬなみろうざん)が、四日市市の北隣りの朝日町に窯を開いたのが始まりとされる。沼波は室町時代に自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋・沼波家の当主で、回船問業のかたわら陶器類を扱っていたことや、茶人として茶碗などに興味を持ち、京焼などを学んでいたことが焼物を始めるきっかけになった。

 萬古焼の名は弄山が「いつまでも変わらない」と言う意味の「萬古不易」に由来し、焼物に「萬古」の印を押したことから萬古焼と呼ばれるようになった。

(写真は 古萬古(四日市 市立博物館))


 萬古焼の特徴は主力商品の土鍋が示すように耐熱性が優れていることで、ガスや炭火で空焚きしても割れることがなく、その耐久性を発揮する。これは原料の陶土にリチウム鉱石が40%ほど含まれているため、直火での空焚きにも耐えることができるそうだ。釉薬をかけずに焼き引き締まった赤茶色の「紫泥急須」は、鉄分を含む赤土粘土を使って焼き上げるとこの色に仕上がり、伊勢茶との相性は抜群と好評。

 四日市市内の萬古焼の工房では見学や体験、即売を行っており、炎と伝統の技から生まれる萬古焼をより深く理解できる。醉月窯・山の陶房でも3代目・清水醉月さんや清水きし代さんらの作陶、絵付け作業などが見学できる。

醉月窯

(写真は 醉月窯)


智積養水と酒蔵の街
(四日市市) 
放送 12月16日(火)
 四日市市智積(ちしゃく)町の「智積養水(ちしゃくようすい)」は、隣接する菰野町の蟹池を源とする全長1784m、幅1〜2mの用水路。智積町は4本の川に挟まれながら、川底が深かったり、水無川と呼ばれる川などで、昔から「旱損所(かんそんしょ)」と言われ、水不足に悩んだ地域だった。

 この水不足を解消するために蟹池から水を引いた潅漑用水路が智積養水で、敷設した時期は定かでなく、江戸時代初期と見られているが、さらに遡る可能性もある。
智積養水記念公園

(写真は 智積養水記念公園)

西勝寺


 この智積養水路を流れる水は農業用水、飲料水、防火用水として、生活に密着した水だった。「用水」ではなく人や農産物を養う養い水だということで「養水」と呼ばれるようになった。上水道が普及する戦後までは、智積町の人びとは智積養水の水で顔を洗い、米をとぎ、麺をさらし、野菜を洗い、洗濯をしてきた。昭和30年(1955)ごろまでは水路沿いに水車が8基あり、この水車を使って精米を行っていた。

 戦後に上水道が普及して智積養水の利便性が低くなり、さらに経済成長に伴って洗剤を含んだ家庭排水が流れ込み、ゴミも増えて智積養水の汚れが目立つようになった。

(写真は 西勝寺)


 智積養水の汚れを憂慮した智積町自治会が、地域住民に家庭排水を流さないように呼びかけ、年に数回の智積養水の清掃作業を続けた。こうした智積養水を守る活動が実を結び、西勝寺付近では放流されたコイが元気に泳ぐ智積養水を取り戻し、昭和60年(1985)に環境省の名水百選に認定された。

 この地域では智積養水と同じ水脈の水を使った酒造も盛んである。天保元年(1830)創業の石川酒造は敷地内で湧き出る水を使って酒の仕込みを行っており、仕込みの季節になると醸造の香りが古いたたずまいの酒蔵から漂い、まもなく新酒が搾り出される時を迎える。

石川酒造

(写真は 石川酒造)


城下町菰野(菰野町)  放送 12月17日(水)
 四日市市の西に位置する菰野町は、慶長5年(1600)から明治2年(1869)まで菰野藩・土方氏の領地だった。

 初代藩主・雄氏(かつうじ)が徳川家康から1万2000石を与えられて入部したが、代官所跡を補修して仮藩庁にし、藩士たちは近くの村に散在させ、藩主は京都に住んでいた。2代目藩主・雄高(かつたか)の時に藩邸、城郭の構えが整えられ、明治2年の廃藩置県まで270年間、12代にわたり土方氏の居城だった。

菰野小学校

(写真は 菰野小学校)

菰野城移築城門(金蔵寺)


 かつての菰野城跡は現在、菰野小学校の敷地となっている。その敷地の西側と北側には城の堀と築地が残っており、西南隅にはわずかながら藩邸の庭園の一部が見られ、そこに「菰野城址」の碑が立っている。また南西側を流れる振子川沿いには角櫓下の石垣の一部が残っている。

 明治維新後、藩邸の一部は町内の禅林寺、城門は金蔵寺へ移築されているほか、角櫓は農家の土蔵に、馬屋も農家へ移されており、移築先で往時をしのぶことができる。

(写真は 菰野城移築城門(金蔵寺))


 近鉄菰野駅の南200mの所にある見性寺は土方家の菩提寺で、寛永21年(1644)2代藩主・雄高が創建した。本堂は禅宗の方丈様式で、山門は大名の菩提寺の格式を備えた豪壮な造りである。3代目藩主・雄豊(かつとよ)夫人寄進の梵鐘は寛文3年(1663)の作で、鐘の音は現在も菰野の町に響き渡っている。寺には歴代藩主の遺愛品や鎧、甲、書画などが伝わっている。

 広い寺域の南西の小高い所に藩主の墓地があり、2代藩主・雄高から歴代藩主の墓碑が並んでいる。初代藩主・雄氏の墓は京都にあるが、夫人の玉雄院(織田信勝の娘・八重姫)の墓はこの墓所にある。

菰野藩主土方家墓地(見性院)

(写真は 菰野藩主土方家墓地(見性院))


湯の山温泉(菰野町)  放送 12月18日(木)
 菰野町の南西部にある湯の山温泉は御在所岳の麓に広がる名湯で、今から約1300年前の奈良時代初めの養老2年(718)浄薫(じょうくん)和尚が、薬師如来の夢のお告げによって発見したと伝えられている。一説には、傷ついた鹿がこの湯で傷を癒していたのを樵(きこり)が見つけ、これが温泉発見のきっかけになったとの伝えから別名「鹿の湯」とも呼ばれている。

 湯の山温泉の湯元は、温泉街の南部に位置する三岳寺から散策路を少し進んだ所にあり、ここから湧き出る温泉が旅館やホテルに給湯されている。

薬師如来(観音山湯元)

(写真は 薬師如来(観音山湯元))

大石公園


 この湯元の近くには温泉を発見した僧・浄薫の塚があり、そばに湯元の守護仏として薬師如来像を祀った小さな堂がある。

 湯の山温泉は織田信長の伊勢攻めの時に、付近の寺などが焼き討ちされ一時さびれたが、江戸時代に入り菰野藩3代藩主・土方雄豊(ひじかたかつとよ)が湯の山温泉の復興に力を入れ、再び湯治客でにぎわうようになった。現在、温泉街を流れる三滝川を挟んで温泉旅館が立ち並び、企業の保養所なども多く中部、東海、関西方面からの温泉客でにぎわっている。

(写真は 大石公園)


 三滝川沿いの大石公園には重さ900トン、広さ30畳と言う巨大な御影石がある。吉良上野介を討つため江戸へ向かう途中、湯の山温泉に泊まった大石内蔵助が、自分の名と同じ巨石をえらく気に入ったと言う。このほか川沿いに点在している巨岩、奇岩が、清流と四季折々に表情を変える樹木が織りす美しい景観で、温泉客を楽しませている。

 温泉街の一番奥にたたずむ「渓流の宿・蔵之助」の露天風呂からは、御在所岳を行き交うロープウエイが眺められ、温泉につかりながら御在所岳の大自然が満喫できる。湯あがりには猪鍋、鹿刺し、鴨のうま煮、山の幸を盛り込んだ冬季限定の名物料理・猪鹿鳥料理がが楽しめる。

猪鹿鳥料理(渓流の宿蔵之助)

(写真は 猪鹿鳥料理(渓流の宿蔵之助))


御在所岳(菰野町)  放送 12月19日(金)
 鈴鹿山系の最高峰・御在所岳は菰野町と滋賀県東近江市の境にある標高1212mの山。山頂へは年間を通じて運行している全長2161mの御在所ロープウエイを利用するとわずか12分で山上公園駅に着く。さらに観光リフトを利用すると8分で御在所岳頂上にたどり着ける。

 山上公園の富士見岩展望台や御在所岳頂上展望台からの360度の眺望は素晴らしく、伊勢湾、知多、渥美両半島から天候がよければ南アルプス連山、富士山が望める。頂上展望台から西に目を転ずれば琵琶湖が眼下に広がる。予約しておけば元日早朝に運転されるロープウエイ、リフトで御在所岳頂上に登り、初日の出が拝める。

御在所ロープウェイ

(写真は 御在所ロープウェイ)

富士見岩


 ロープウエイのゴンドラからは初夏は新緑、秋は紅葉、冬は樹氷や雪景色など、御在所岳の四季折々の大自然の美しさが満喫できる。運がよければ野生のカモシカを見ることもできる。御在所岳名物の巨岩、奇岩群も面白い。巨大な石が重なり合うようにそびえ立つ「負れ岩(おばれいわ)」、大きな岩が座っているような「大黒岩」、人が座っているような「地蔵岩」など、自然が創り出した巨石の造形に目を見張ってしまう。

 山上公園周辺には日本カモシカセンター、御在所自然科学博博物館、山野草園やレストランなどがあり、楽しく一日が過ごせる。冬は樹氷を眺めながらスキーが楽しめる。

(写真は 富士見岩)


 「御在所岳は神のおわす山」と言われている。記紀神話時代の垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、大和国笠縫邑に祀っていた天照大神の神霊を奉じ、新しい鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃を巡行していた時、御在所岳の頂上に仮の頓宮を設けたことから「御在所」と呼ばれたことから、御在所岳の名がついたと言われている。倭姫命は最終的に伊勢の地に天照大神を祀り、これが今の伊勢神宮となった。

 一般には「御在所岳」と呼ばれているが、国土地理院の地図には「御在所山」とあり、山脈や連峰の主峰は「山」をつけると国土地理院は説明しており、正式名は御在所山のようだ。

御嶽神社

(写真は 御嶽神社)


◇あ    し◇
じばさん三重、四日市市立博物館 
近鉄名古屋線四日市駅下車徒歩10分。

醉月窯近鉄名古屋線四日市駅からバスで西坂部下車徒歩15分。 

智積養水記念公園近鉄湯の山線桜駅下車すぐ。 

西勝寺近鉄湯の山線桜駅下車徒歩10分。 

石川酒造近鉄湯の山線桜駅下車徒歩7分。 

菰野城址(菰野小学校)近鉄湯の山線中菰野駅下車徒歩5分。

見性寺近鉄湯の山線菰野駅下車徒歩5分。 

湯の山温泉近鉄湯の山線湯の山温泉駅下車。 

御在所岳近鉄湯の山線湯の山温泉駅からバスで湯の山温泉下車、
ロープウエイ、リフトを乗 り継いで頂上へ。

               
◇問い合わせ先◇

四日市市商業観光課059-354-8175 

四日市観光協会059-357-0381 

じばさん三重059-353-8100 

四日市市立博物館059-355-2700 

醉月窯059-332-8218 

石川酒造059-326-2105 

菰野町観光産業課059-391-1129 

菰野町観光協会059-394-0050 

見性寺059-394-1755 

湯の山温泉協会059-392-2115 

渓流の宿・蔵之助059-392-2509 

御在所ロープウエイ059-392-2261 


◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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