月〜金曜日 18時54分〜19時00分


枚方市、交野市 

 北河内地方は大阪府下でも最も早くから人が住んでいた所とされ、旧石器時代の遺跡が発見されている。枚方市は江戸時代には東海道の宿場町、淀川の三十石船の寄港地として栄えた交通の要衝だった。交野市は生駒山系の西麓に位置し、平安時代には貴族たちの狩猟地として知られていた。両市にはこうした遺跡や史跡が市内に点在している。


枚方宿(枚方市)  放送 2月9日(月)
 京都と大阪の中間に位置し淀川に隣接する枚方市は、江戸時代には東海道56番目の宿場町として、また淀川を上り下りする三十石船の寄港地として栄えた。

 東海道五十三次は江戸・日本橋から京都・三条までを言うが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の後に京都-大坂間の京街道に伏見、淀、枚方、守口の4宿が設けられ、江戸-大坂間が東海道五十七次とも呼ばれるようになった。枚方宿が最盛期だった天保14年(1843)には、本陣や脇本陣、旅籠が69軒もあった。

市立枚方宿鍵屋資料館

(写真は 市立枚方宿鍵屋資料館)

くらわんか舟


 淀川三十石船唄に「ここはどこじゃと船頭衆に問えば ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には碇はいらぬ 三味や太鼓で船止める」とある。この鍵屋浦に天正年間(1573〜92)創業の船宿「鍵屋」があった。鍵屋の裏手が淀川に面し、宿からすぐに船に乗り降りできる便利さから大勢の旅人たちが利用してにぎわった。

 この鍵屋は平成10年(1998)まで料理旅館として営業していたが、廃業後、建物を枚方市に寄贈、平成13年(2001)に枚方市立枚方宿鍵屋資料館としてオープン、枚方宿の歴史を映像や音声、模型などで紹介している。

(写真は くらわんか舟)


 三十石船が鍵屋浦に停泊すると乗客目当てに小舟をくり出して「餅くらわんか 酒くらわんか ごんぼ汁はどうじゃい」と河内弁まる出しで、ご飯やすし、ごぼう汁、酒などを茶碗に入れて売りにきたのが「くらわんか舟」。代金は現代の回転すし方式で茶碗の数で計算したが、茶碗をこっそり川に捨ててごまかす客もいたのようで、今も淀川の川底からくらわんか茶碗が出てくる。

 枚方宿鍵屋資料館では予約をすれば、ごぼう汁やすしなどのくらわんか料理を食べることができ、市内の料理店でもくらわんか料理を出す店がある。

くらわんか鮨

(写真は くらわんか鮨)


百済の史跡(枚方市)  放送 2月10日(火)
 枚方には仏教を伝えた朝鮮半島・百済との結びつきを物語る史跡がある。枚方市北東部の藤阪にある「伝・王仁(わに)墓」は、古事記、日本書紀によると応神天皇の時代の4世紀末に百済から「論語」10巻と「千字文」1巻を日本にもたらしたとされる王仁博士の墓と伝えられている。

 「千字文」は中国・六朝時代に千の漢字を重複せずに使って四言古詩250を綴ったもので、日本に漢字を伝えるために持ってきたと言われている。王仁博士の子孫・西文氏(かわちのふみうじ)は文筆をもって朝廷に仕えている。

伝王仁墓

(写真は 伝王仁墓)

百済寺跡


 京阪電鉄交野線宮之阪駅近くの百済寺跡(国・特別史跡)は、百済の滅亡後に枚方に移り住んだ百済王の子孫と言われる百済王氏(くだらのこにきし)の氏寺跡と推定されている。この寺は平安時代に焼失、再興後も鎌倉時代に再び焼失して、堂塔の礎石を残すのみとなっていた。

 発掘調査の結果、奈良・薬師寺のように東西に二つの塔を配する伽藍配置で、朝鮮半島・新羅の咸恩寺の伽藍とよく似ている。現在、史跡公園となっており、伽藍の基壇や礎石が復元されて伽藍配置を目で確かめることができる。百済寺跡の西隣には百済寺と同じころに創建され百済王神社がある。

(写真は 百済寺跡)


 百済王氏が枚方に移り住んだのは奈良時代の天平21年(749)ごろと伝えられている。当時、陸奥国の国司だった百済王敬福(きょうふく)が、聖武天皇に東大寺大仏造立の金を献上した功績で、宮内卿となり河内守に任じられ、この地に広大な土地を与えられて寺と神社を建立したとされている。

 平安時代に入って桓武天皇の生母が百済系の女性だったことから、百済王氏は皇室との結びつきを強めた。百済との結びつきが深い枚方市では、毎年5月に百済フェルティバルが行われ、百済の衣装を身に着けた人たちによるパレードがある。

百済王神社

(写真は 百済王神社)


鋳物の里(枚方市)  放送 2月11日(水)
 河内は鋳物師発祥の地として知られており、鎌倉時代以前の梵鐘のほとんどは、河内の鋳物師が鋳造したものだと言われている。

 この河内の鋳物師の中で、現在の枚方市上之町で鋳物業を営んでいた田中家は、奈良時代初めの創業と伝えられている。江戸時代の鋳物師は公家の真継(まつぎ)家の支配下にあり、田中家も北河内で唯一、真継家から営業許可を得ていた鋳物師だった。
半鐘

(写真は 半鐘)

旧田中家鋳物民俗資料館


 田中家は梵鐘を鋳造していたほか、庶民が日常生活で使う鍋や釜、農具の鋤(すき)、鍬(くわ)などを鋳造したいた。明治時代以降も伝統技術を守りながら鋳物製造を続けていたが、工業化による大量生産時代の波に押され、昭和40年(1965)に廃業した。

 枚方市に寄贈された田中家の鋳物工場と主屋は、同市藤阪の王仁公園そばに移築され、全国でも珍しい鋳物関係の専門資料館「旧田中家鋳物民俗資料館」としてオープンした。

(写真は 旧田中家鋳物民俗資料館)


 移築された鋳物工場は高温になる工場内の通風をよくするため、細長い建物に多くの窓が取りつけられ、屋根の中央には熱気を逃す風袋(かざぶくろ)が設けられている。工場内には金属を溶解する炉内を高温に保つため、踏み板を踏んで空気を送り込む踏鞴(たたら)と言う装置と金属を溶解するこしき炉が設置されている。

 ほかに蒸気機関車D51のプレート、ストーブ、鉄びんなどの鋳造品やさまざまな鋳型、梵鐘の鋳型つくり装置や鋳物関係の資料などが展示されている。体験工房もあり金属のアクセサリーや七宝焼などを製作することができる。

蒸気機関車D51のプレート

(写真は 蒸気機関車D51のプレート)


蓮如ゆかりの地(枚方市)  放送 2月12日(木)
 枚方市出口の光善寺は京阪電鉄光善寺駅から北西へ徒歩で10分ほどの所にある真宗大谷派の寺。戦国時代の文明7年(1475)に61歳の蓮如上人が、越前国の吉崎から退去してここ出口に着き、布教の拠点として草坊を構えたのが光善寺の始まり。

 蓮如上人に深く帰依していたこの地の門徒衆らの願いで一宇を建立し、建立に尽力した有力門徒の御厨石見(みくりやいわみ)入道光善の名から光善寺と称するようになった。
蓮如上人木像

(写真は 蓮如上人木像)

蓮如上人御落歯


 光善寺には蓮如上人ゆかりの品々が伝わっている。その中でもいささか驚くのが上人の虫歯が「御落歯(ごらくし)」として伝わり、虫歯が抜けた時に上人が「出口にて7月1日に 日ころいたみぬるむし歯のおちけるは 夏はきのう きょう秋きりの 一葉おちて身にしみてしる 南無阿弥陀仏」と詠んで書き記した懐紙も伝わっている。

 境内のさいかちの木は、近くの淵に棲む大蛇が女性に化身して上人の説法を聞いて救われ、さいかちの木を伝わって昇天したとの伝説にまつわる木。

(写真は 蓮如上人御落歯)


 光善寺から南へ200mの所に「蓮如上人腰掛石」がある。直径30cmほどの鏡餅のような円形の石で、かつて蓮如上人がこの石に腰をかけて、集まった民衆に対して説法をしていたと伝えられている。

 蓮如上人は出口の人たちに団子の作り方を教え、各家庭では出口団子として作っていた。その団子の形が腰掛石に似ていることから「石もち」とも呼ばれていた。今は光善寺駅近くの和菓子屋・遠州屋が「でぐち団子」の名で製造、販売しており、もち米を使わない米の粉でついた餅に、あんをくるんだ素朴な味の団子として人気がある。

でぐち団子(遠州屋)

(写真は でぐち団子(遠州屋))


北河内の美酒(交野市)  放送 2月13日(金)
 枚方市の南に隣接する交野市は、肥沃な土地と天の川の清流に恵まれ、平安時代には京の都の貴族たちが狩や花見を楽しんだ地と言われる。弥生時代から農耕文化が栄え、飛鳥時代には大化の改新で条里制が進んで稲作が盛んになり、良質の米が収穫できる米どころとして知られていた。

 生駒山系から流れ出る天の川の伏流水の清らかな水と良質の米に恵まれ、江戸時代には交野の村々では多くの造り酒屋があった。
山野酒造

(写真は 山野酒造)

酒作り


 明治時代中期から酒造業を営んでいる交野市私部の山野酒造の主屋は、寝屋川市にあった江戸時代末期の民家を大正時代末期に移築したもので、重厚な造りの建物である。

 主屋の周りには酒蔵や土蔵が建ち並び、長屋門から続く土塀が屋敷を囲んでいる。酒蔵では新酒の仕込みに使う水がこんこんと湧き出ている。今、新酒の仕込みが真っ盛りで、杜氏を中心に蔵人たちが手作りの酒造りに取り組んでおり、蔵からは芳醇な新酒の香りが漂ってくる。

(写真は 酒作り)


 山野酒造の銘酒「片野桜」の名は、平安時代に藤原俊成が詠んで新古今和歌集に納められている「またや見ん 交野(かたの)の御野(みの)の桜がり 花の雪ちる春の曙」の歌にちなんでいる。

 この歌に込められた雅趣に富んだ交野の桜ように、蔵人たちが丹精を込めて造った「片野桜」は、はんなりとして、たおやかな味の美酒と言える。山野酒造では日本酒の生まれる過程を見学してもらい、日本酒の良さをPRしようと、3月上旬まで酒蔵見学を行っており、申し込みを電話で受けつけている。

片野

(写真は 片野)


◇あ    し◇
枚方市立枚方宿鍵屋資料館京阪電鉄本線枚方公園駅下車徒歩5分。 

伝・王仁墓JR片町線長尾駅下車徒歩15分。 

百済寺跡、百済王神社京阪電鉄交野線宮之阪駅下車徒歩7分。

      
旧田中家鋳物民俗資料館京阪電鉄交野線藤阪駅下車徒歩7分。 

光善寺京阪電鉄本線光善寺駅下車徒歩10分。 

遠州屋(でぐち団子) 京阪電鉄本線光善寺駅下車徒歩3分。 

山野酒造京阪電鉄交野線交野市駅下車徒歩7分。 
JR片町線河内磐船駅下車徒歩20分。

◇問い合わせ先◇

枚方市立枚方宿鍵屋資料館072-843-5128 

伝・王仁墓(王仁塚の環境を守る会)072-859-2716

百済寺跡(枚方市教委文化財課)050-7105-8058

百済王神社072-840-2624 

旧田中家鋳物民俗資料館072-858-4665 

光善寺072-831-1137 

遠州屋(でぐち団子) 072-832-5038

山野酒造072-891-1046 


◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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